平安時代の貴族と言えば藤原氏。
いかにも高貴な家柄で暴力沙汰とは無縁のイメージがありますが、それを根底から覆す人物が大河ドラマ『光る君へ』に登場していました。
寛徳元年1月1日(1044年2月2日)に亡くなった藤原隆家です。
劇中で描かれた刀伊の入寇――対馬から博多にかけて日本に襲いかかった賊の姿は劇中でも描かれましたが、このとき地元の武士と共に防衛にあたったのが藤原隆家であり、ドラマの中では竜星涼さんが演じていましたね。
もともと隆家は、花山法皇に矢を射て兄の藤原伊周と共に失脚するなど、何かとお騒がせな貴族でした。
それが最終盤に再び大宰府へ赴任してからは雰囲気も一変。
あれはドラマだけのことなのか?
そんな疑問が湧いてくる程の変化でした。

『愛国物語』藤原隆家/国立国会図書館蔵
史実の藤原隆家はどんな生涯を過ごし、そして異国の襲撃を撃退することになったのか。
その生涯を振り返って参りましょう。
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道隆と貴子の間に生まれる
藤原隆家は天元2年(979年)生まれ。
前述の通り、父はあの藤原道隆であり、母は歌人としても名高い道隆の嫡妻・高階貴子。

藤原道隆(菊池容斎『前賢故実』)/wikipediaより引用
叔母には円融天皇の女御であり一条天皇の母である藤原詮子がいて、叔父には藤原道長という、当時、トップクラスの境遇に生まれました。
それだけではありません。
きょうだいもまた後世に名を知られた人物であり、父母が同じ5才上の兄に藤原伊周、2才上の姉に藤原定子がいます。
ありとあらゆるものに恵まれた境遇の中で生まれた隆家は、英才教育を受けながら、のびのび育ったことでしょう。
とはいえそれも、全ては権力闘争に勝利したからこその果実です。
大河ドラマ『光る君へ』でも描かれているように、祖父の藤原兼家はその頃まさに政争のど真ん中にいました。
一条天皇の御代 スピード出世を遂げる
藤原兼家にとって、娘の藤原詮子が産んだ東宮・懐仁親王(やすひとしんのう)の即位は悲願でした。
孫が即位すれば摂政として権勢を振るうことができる。
しかし、円融天皇の次に即位した花山天皇はまだ若く、しかも藤原義懐(よしちか)を重用するなどして兼家には逆風が吹いていた。
そこで寛和2年(986年)、兼家は二男・藤原道兼を用いた謀略により、まだ若い花山天皇を出家させると、まだ幼い東宮を一条天皇として即位させたのです。
この政変は【寛和の変】と呼ばれ、兼家が頂点へ上り詰めてゆく。

藤原兼家/wikipediaより引用
長男・道隆の子たちも自然と引き立てられました。
まず、永祚元年(989年)に道隆が内大臣に就任すると、長男の藤原伊周は従四位となり、藤原隆家は元服と同時に従五位下に叙されたのです。このとき隆家は11才。
以降、隆家は怒涛の出世を果たします。
以下にざっとまとめておきましょう。
永祚2年(990年)侍従任官のちに右兵衛権佐/姉・藤原定子が一条天皇に入内
正暦2年(991年)従五位上
正暦3年(992年)正五位下・左近衛少将
正暦4年(993年)従四位上・右近衛中将
正暦5年(994年)正四位下のちに中将、従三位、公卿に列する
長徳元年(995年)権中納言
絵に描いたような順調な出世であり、この先も一族で頂点を目指すのは自然の流れかと思われたでしょう。
しかし、現実は甘くありません。
長徳元年(995年)に父の道隆が没してしまったのです。
叔父の藤原道兼が関白を継ぐのですが、流行病に罹ったのか短期間で命を落としてしまい、「七日関白」と称されました。
そして起きたのが伊周・隆家兄弟と、叔父・道長による新たなる権力争いです。
伊周・隆家か? 叔父・道長か?
藤原道兼の亡き後、内覧・右大臣である藤原道長の時代がやってきました。
とはいえ、権力が完全に移譲されるかというと、そう単純なものでもありません。
道長は康保3年(966年)生まれであり、天延2年(974年)生まれの藤原伊周と8才だけの年齢差しかありません。藤原隆家とは13才差ですね。

『紫式部日記絵巻』の藤原道長/wikipediaより引用
道長は「さがな者」(乱暴者)である甥の隆家が苦手だったようです。
なんせ隆家の暴力沙汰は、器物損壊程度では済まされないものでした。
隆家と道長の従者同士がしばしば乱闘になるわ。
隆家の従者が道長の随身を殺すわ……なかなか物騒な事件を起こしているのです。
正面からまともにぶつかり合っていては、損しかない。
まさに隆家は、道長にとって厄介者だったのですが、そこでとある事件が起きてしまいます。
長徳の変:事件の相手は花山法皇
それは長徳2年(996年)のこと。
当時の藤原伊周には気掛かりなことがありました。
彼は、亡き太政大臣だった藤原為光の娘・三の君のもとへ通っていたのですが、どうやら別の男の影があることに気づきます。
「まさか別の男とも通じているとは」

藤原伊周/wikipediaより引用
伊周がそんな風にボヤいたところ、血気盛んな弟・藤原隆家は言い出します。
「ちょっと脅しちまうか!それで大人しくなるでしょ!」
隆家は伊周を駆り立て、従者たちと共に出向き、相手の男たちに矢を放ちました。
それだけでなく従者の童(当時の童は年齢ではなく童形をしている者)2人を斬首したとされ、決定的な過ちとなってしまいます。
彼らが襲いかかった相手は、花山法皇とその一行だったのです。
しかも花山法皇は、伊周の相手・三の宮ではなく、その妹・四の宮のもとへ通っていたのであり、いわば勘違いから矢を放ったのでした。
花山法皇は出家の身です。
しかし、まだまだ若いですし、即位式でも女官に手を出していたという性に奔放な血はおさまりません。
そんな彼にとって、落ちぶれた姫はうってつけの相手だったのでしょう。
当時の貴族社会は、庇護者がいないと男子は出世が頭打ちになり、女子はまともな婿取りもできない状態になります。
太政大臣の姫たちといえども、そうした苦境にあり、かくして貴公子たちがバッティング誤認する大事件となったのです。
出家の身である花山法皇は、事件後、その隠蔽をはかりました。
しかし、道長が見逃すわけもありません。
結果、一条天皇の耳にも入るところとなり、問罪されると、伊周は大宰権帥、隆家は出雲権帥に左遷となり、都を追われることとなりました。
兄弟の事件は、家族をも巻き込みました。
藤原定子は一条天皇に赦しを乞うものの許されず、髪を切り、出家するのです。
兄弟の母である高階貴子は車にしがみつき、ついて行きたいと願うも許されず、我が子が都に戻る日を見ぬままやがて亡くなりました。
隆家は病気を理由に、出雲ではなく但馬にとどまりました。
こうした政変の背後には、道長を寵愛する東三条院(藤原詮子)の意もあるとされてきました。
甥・敦康親王は東宮になれず
藤原詮子が許すと決めた長徳4年(998年)、藤原隆家たちは帰京を果たしました。
一条天皇も定子への愛がやまず、異例のことながら呼び戻し、彼女は寵愛を受けています。
その結果、妊娠して、長保元年(999年)に敦康親王を産みます。

枕草子絵詞/wikipediaより引用
しかし翌長保2年(1000年)、次の子を産むとその直後に亡くなってしまいます。
死を前にして、定子は妹の御匣殿に我が子を託していました。
一条天皇はこの御匣殿をも寵愛し、彼女は懐妊します。伊周と隆家兄弟は皇子が生まれるかと喜んだものの、彼女は身重のまま亡くなりました。
そんな悲運を経て、藤原隆家は、長保4年(1002年)にかつての権中納言にまで復権。
寛弘4年(1007年)には、従二位となりました。
この年、藤原実資はただならぬ計画を耳にしています。
伊周・隆家兄弟が、大和国金峰山に向かった道長に対し、刺客の武士を放ったというのです。
ほどなくして道長は無事に帰京を果たし、きな臭い事件は噂だけで済んでいます。
当然ながら特段お咎めもなく、寛弘6年(1009年)、隆家は中納言に叙任。
この翌寛弘7年(1010年)に兄の伊周が没し、寛弘8年(1011年)に一条天皇が崩御すると、三条天皇が即位します。
隆家は、一家の希望を一身に背負い、姉の定子が産んだ敦康親王に望みを賭けます。
東宮となれば、まだ浮上の可能性は残る――。
しかし、寛弘8年(1011年)、東宮となったのは道長の娘・藤原彰子が産んだ敦成親王に決まりました。
『紫式部日記』に出産の様子が詳しく記された皇子ですね。
かくして道長が勝利し、隆家の敗北は確たるものとなってしまいました。
眼病治療の太宰府で【刀伊の入寇】
生粋の乱暴者だけに、藤原隆家は自ら何かやらかしてしまったのか。長和元年(1012年)末、目に尖ったものを入れてしまったようです。
負傷で目を悪くしてしまっては、家で治療に励むほかありません。
そんな折、太宰府に唐人の名医がいるという噂が流れてきます。
「おお、その者に治してもらおう!」
隆家は太宰権帥の仕官を望みました。
道長は政敵が力をつけることを懸念し、妨害活動に励みますが、隆家に同情した三条天皇に押し切られます。

三条天皇/wikipediaより引用
かくして長和3年(1014年)、隆家の希望は通り、長和4年(1015年)に正二位に叙せられると、以降、太宰府へ赴き、よくその地を治めたようです。
都では貴公子の隆家ですが、そもそもが“さがな者”だっただけに、現地の武士たちの方が相性が良かったのかもしれません。
少なくとも、いくらか心が通じ合っていなければ、直後に起きる“国難”を乗り切れなかったでしょう。
寛仁3年(1019年)、異民族の大型船団が対馬や壱岐を襲撃し、九州の北岸にも襲いかかってきたのです。
【刀伊の入寇(といのにゅうこう)】とも呼ばれる、この襲撃事件。

馬上の女真人/wikipediaより引用
歴史の授業では【元寇】ばかりが注目されますが、決して小さな事件ではありません。
当時の大宰府は、隆家が唐人の診察を望むほど、国内では先進的な国際都市でした。
女真族とされる襲撃団の一群は、大型船と強弓を用いて対馬や壱岐で人々を殺戮したり、拉致したりして、次にやってきたのが博多だったのです。
このとき先頭に立って敵を撃退したのが藤原隆家。
事件は都にも報告されましたが、彼らができる対処法と言えば祈祷ぐらいであり、功労者はなんといっても現地で応戦した隆家や地元の武士たちでした。
そんな隆家は、敵を深追いすれば高麗を刺激しかねないと判断し、追い払うのみに留めました。
当時の女真族は、高麗の支配下に属してはいませんが、戦後処理は高麗が応対します。
その判断がよかったのでしょうか。
隆家は、高麗との外交交渉も進め、日本人捕虜259名の返還を成功させたのです。朝廷に代わり、大役を見事にこなしたんですね。
そして一仕事終えた隆家は、同年末、大宰権帥を辞して帰京しました。
下手をすれば博多以外の地も襲われかねなかった海賊集団を被害最小で撃退した隆家ですが、この多大な功績に対し、都での昇進はありません。
後任の太宰権帥は藤原行成です。
しかし長暦元年(1037年)になると、隆家は再び大宰権帥に任ぜられ、長久3年(1042年)まで務めています。
そして2年後の長久5年(1044年)1月1日に没しました。
享年66。
★
若くして亡くなった悲運の姉・藤原定子や、兄・藤原伊周とは異なり、様々な紆余曲折を経て長寿を全うした藤原隆家。
確かにその生涯は、インテリジェンスに富んだ父や母からは想像もできない「天下のさがな者(乱暴者)」でした。
しかし、異色の貴公子だったからこそ、異民族の襲撃を撃退できたのでしょう。
これがもし藤原行成ならば、まるで異なる結果が出たに違いありません。
貴族にも、それぞれ得意分野があるのです。
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南北朝時代、肥後の豪族である菊池氏は藤原隆家の子孫を称しました。
真偽の程は不明なれど、公言する以上、隆家の武勇にあやかりたかったのは間違いないでしょう。
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参考文献
- 関幸彦『刀伊の入寇――平安時代、最大の対外危機(中公新書 2655)』中央公論新社、2021年8月19日。ISBN:978-4-12-102655-2(ISBN-10:4121026551)
出版社公式サイト:中央公論新社(書誌情報)
Amazon:Amazon商品ページ - 繁田信一『殴り合う貴族たち(文春学藝ライブラリー 歴史29)』文藝春秋、2018年8月3日。ISBN:978-4-16-813075-5(ISBN-10:4168130754)
出版社公式サイト:文藝春秋(書誌情報)
Amazon:Amazon商品ページ - 倉本一宏『敗者たちの平安王朝 皇位継承の闇(角川ソフィア文庫)』KADOKAWA、2023年11月24日。ISBN:978-4-04-400791-1(ISBN-10:4044007918)
出版社公式サイト:KADOKAWA(書誌情報)
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出版社公式サイト:平凡社(書誌情報)
Amazon:Amazon商品ページ - 他






