現代でもそうですが、政治はトップ層のみに行われるわけではありません。
大臣の下に多くの職員がいて成り立つものです。
大河ドラマ『光る君へ』の舞台である平安時代でも、それは同じ。名前が残っているかどうかにかかわらず、多くの人々のおかげで、天皇や后妃、公卿たちの生活は成立していたのです。
今回はそうした、比較的身分が低めの人々に注目してみましょう。
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中宮職(ちゅうぐうしき)
中宮には「中宮職(ちゅうぐうしき)」という専門の部署があてられます。
その名の通り、中宮に関する事務などを担当。
『紫式部日記』では中宮大夫の藤原斉信(はんにゃ金田さん)がたびたび登場しています。
藤原斉信は隆から長に鞍替えして貴族社会を生き残る『光る君へ』はんにゃ金田
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彼は、彰子周辺の女房たちに不満げな態度を示したり、悪く言えば「うるさ型」、良く言えば「ちょっと厳しい父親」のような人物として描かれました。
他の中宮職の面々では、三等官である中宮亮や、産湯の用意の場面で六位・七位などの下級役人が登場します。
また、彰子の初となる子供・敦成親王(のちに後一条天皇)の誕生三日目の産養では、中宮大夫を中心とした中宮職が主催していました。
他にも一般職員のような身分の低い役人や、警備員の役割を果たしていた侍たち、後述する女嬬(にょじゅ)といった人々が所属しています。
次は紫式部の同僚とも呼べる女性たちについてお話していきましょう。
後宮には「後宮十二司」といって、それぞれ担当ごとに分かれて仕事をしていますが、それはまた別の記事をご参照ください。
命婦(みょうぶ)
幅広く使われた職名で、内命婦と外命婦(げみょうぶ)がありました。
内命婦は本人が五位以上の位階を受けた女官で、外命婦は夫が五位以上の者の妻を指します。
内命婦は後宮の役職なので比較的記録が多いのですが、外命婦は実態がよくわかっていない面も。
命婦自体の職務内容が厳密に決まっていないため、日記や物語でも色々な場面に助っ人として登場します。
ちなみに「命婦」とつく女性は『紫式部日記』に登場するだけでも10人以上います。
そのうち数人を簡単に紹介しましょう。
・内蔵(くら)の命婦
彰子の弟・教通の乳母であり、大中臣輔親の妻でした。
彰子を含めた道長の娘たちの出産のときには必ず立ち会っており、優秀な助産師と見られていたようです。
・大輔の命婦
倫子と彰子の母娘に仕えた女房とされているため、同じように二人に仕えた赤染衛門の同僚とも考えられますね。
『紫式部日記』の時期には推定40代。比較的長生きだったようで、万寿三年(1026年)に彰子が出家した際、彼女も出家したようです。
・左京の命婦
彰子の女房で藤原脩政(ながまさ)の妻とされる人物です。
脩政は紫式部にとって父方のいとこにあたるため、左京の命婦とも親戚のような感覚だったと思われます。
宣旨
宣旨とはもともと役職ではなく、天皇や東宮(皇太子)・后妃、摂関家などエライ人からの命令書のことです。
そこから、この命令を届ける役目の女官のことも「宣旨」「宣旨の君」と呼ぶようになりました。
命婦同様、それ以外の雑務をすることも多かったようです。
中世貴族社会はガチガチなところとゆるゆるなところがあって、少々混乱してしまいますね。
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