戦国大名たるもの武術を学んでおいて損はない。
それを極めるまでの必要はあるのか?
例えば足利義輝は「剣豪将軍」と呼ばれるほど剣術に長けた武将でしたが、最後は三好勢の大軍に取り囲まれ、呆気なく討死してしまいます。
確かに、一介の武将や足軽でしたら、武芸は出世の武器となるでしょう。
しかし将軍や大名のように上に立つ者は、政治経済や外交を練り上げる戦略や、戦場で勝利するための戦術を学ぶほうがよほど重要だ――と、足利義輝に限らず、そうツッコミたくなる武将は他にもいます。
伊勢の戦国大名・北畠具教(とものり)です。
戦国ファンの皆様でしたら剣術好きとしてお馴染みの存在でしょうか。
確かにゲームなどでは個人的武力が飛び抜けているけれども、軍勢を動かす能力はやはり低く評価されている。
そんな印象が強いかと思いますが、果たして史実ではどうだったのか?
本記事でその生涯を振り返ってみましょう。

北畠具教/wikipediaより引用
伊勢北畠氏とは
“北畠氏”と言えば、戦国時代以外で「聞いたことがある」という方も少なくないでしょう。
そう、伊勢北畠氏は、南北朝時代に南朝方の中心だった北畠親房の子孫であります。
親房の長男は鎮守府将軍として有名な北畠顕家。

北畠顕家/wikipediaより引用
具教は顕家の子孫ではなく、親房の三男・北畠顕能(養子説あり)の末裔でした。
建武五年(=延元三年・1338年)ごろに顕能が伊勢国司に任じられたと考えられており、以降この地に根付いて勢力を築いていった一族です。
つまり、戦国時代には珍しく「朝廷から正式に任じられた国司が武力と実権を持っていた」のが伊勢北畠氏というわけです。
具教の時代の本拠は大河内城(三重県松阪市)ですので、そこが同家終焉の地となります。
ということで具教の生涯に注目してまいりましょう。
生い立ち
北畠具教は享禄元年(1528年)あるいは享禄4年(1531年)の生まれ。
父は伊勢北畠氏の七代目・北畠晴具(はるとも)でした。
母は三管領の一角である細川京兆家の十五代・細川高国の娘ですから、両親ともに超名門です。
具教が生まれた頃の伊勢は、おおまかに
北部:国人が群雄割拠状態
南部:北畠氏
といった勢力図になっており、晴具は勢力を拡大すべく、北伊勢の国人たちとたびたび争っていました。
天文5年(1536年)に晴具が出家。
このあたりで当主の座は具教に代わったと思われますが、戦国時代あるあるで、出家イコール引退ではありません。
具教とその兄弟が成長し、朝廷から官位を得ていくのと並行して、晴具は北伊勢の国人たちと戦い続けました。
そして晴具は永禄元年(1558年)、北伊勢の有力者・長野氏を降伏させることに成功。
具教の次男である具藤(ともふじ)を養子に送り込んで楔を打ち、伊勢北畠氏の勢いは増していきました。
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