1615年6月11日(慶長20年5月15日)は長宗我部盛親の命日です。
長宗我部と言えば、盛親の父である長宗我部元親が圧倒的に知名度が高く、あるいは兄の長宗我部信親も悲劇の武将として知られます。
一方、この盛親というと、なかなか辛辣な評価もありまして……。
彼の代で大名家としての長宗我部家が滅んでしまったため、ときに「バカ殿扱い」される傾向も。
こうしたレッテルは今川氏真や大友義統、あるいは斎藤龍興などにも貼られがちですが、果たして長宗我部盛親の場合は実際どうだったのか?
その生涯を振り返ってみましょう。

長宗我部盛親/wikipediaより引用
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四国統一の最中に信長と対立
長宗我部盛親は天正三年(1575年)、長宗我部元親の四男として生まれました。
母は正室の斎藤氏で、司馬遼太郎の小説『夏草の賦』では「菜々」とされていた人です。
盛親の幼少期に関する逸話は特にありませんが、その時期は三人の兄がいて、盛親は比較的自由な立場だったのではないかと思われます。
長男・信親(のぶちか)→跡継ぎとして順調に成長中
次男・親和(ちかかず)→香川氏へ養子入り
三男・親忠(ちかただ)→津野氏へ養子入り
盛親が生まれた天正三年(1575年)以降の長宗我部家は、ちょうど父の元親が土佐を統一した頃。

長宗我部元親/wikipediaより引用
土佐の統一を皮切りに、以降の長宗我部家は阿波と讃岐を制圧し、残りは伊予で四国制覇という偉業を達成しつつあるときでした。
しかし、それは途中で断念せざるを得なくなります。
もともと長宗我部元親は、織田信長との約束で四国の切り取りを認められていました。要は、自分で領土を広げる限り、すべて長宗我部のものとしてよいということです。
ところがその約束が天正八年(1580年)に突然、信長の一存で反故にされ、土佐と阿波のみの領有と一方的に告げられます。
当然、元親は信長にブチ切れ、両家の仲は決裂。

織田信長/wikipediaより引用
天正十年(1582年)5月に織田家は、信長の三男・織田信孝(神戸信孝)と、重臣の丹羽長秀が四国へ進軍する――というのがこれまでの定説でした。
昨今は新たな書状が発見され
「長宗我部元親のほうから折れて、信長に従うことにした」
という見方も有力視されています。
いずれにせよ、その辺の詳細は、歴史の流れを前にあまり関係なくなってしまいます。
なぜなら天正十年(1582年)6月2日に本能寺の変が勃発するからです。
長宗我部を襲った数々の不幸
京都で本能寺の変が起き、その後は山崎の戦いが勃発。
眼前の危機は過ぎ去ったかのような長宗我部家でしたが、程なくして今度は秀吉の脅威にさらされることとなります。
端的に説明申し上げますと、長宗我部盛親の父である元親は天正十一年(1583年)【賤ヶ岳の戦い】や天正十二年(1584年)【小牧・長久手の戦い】で尽く秀吉に反発。
結果、秀吉はすべてに勝利し、中央エリアでの権力をほぼ手中に収めることとなりました。
天下人になること間違いなしという状況です。
長宗我部家も四国の大部分を制圧するに至ってはいましたが、秀吉を相手に真正面から当たって勝てるわけもなく……。
天正13年(1585年)7月、羽柴秀長や宇喜多秀家、あるいは黒田官兵衛や小早川隆景など、羽柴軍団の精鋭を前にして、呆気なくその軍門に降るしかありません。

豊臣秀長(左)と宇喜多秀家/wikipediaより引用
そして長宗我部家は、土佐一国のみを領土とされました。
四国のほぼ全域を治めていた全盛期から見ると、寂しいものではありますが、父の元親や長男の信親などを中心にしてお家は安泰。
このままでは長宗我部盛親の出番はほとんどないままに歴史が流れて……いかないのが戦国時代の恐ろしいところです。
天正十四年(1586年)、盛親は急に歴史の表舞台に立たされることとなります。
長兄の長宗我部信親が、九州征伐の緒戦【戸次川の戦い】で討死してしまったのです。

長宗我部信親(落合芳幾・作)/wikipediaより引用
敗因は仙石秀久による無謀な作戦でした。
しかし、事が起きた後に言っても仕方のないことであり、信親を喪った父・元親の落胆は凄まじく「正常な判断力を失った」と表現されることもあるほど。
実際、元親は養子に出していた親和や親忠を呼び戻すこともせず、まだ元服もしていなかった盛親を跡継ぎに決めてしまうのです。
理由としては「信親の娘と年頃が合うから」という説もありますが、定かではありません。
この騒動については、反対した親族のうち数名が元親から自害を命じられたり、翌天正十五年(1587年)には次兄の親和が病死したり、様々な不幸の余波を生んでいます。
親和は長宗我部家の墓地に葬られず、別個に小さな墓が作られていますので、何らかの意図を感じざるを得ない状況でしょう。
こんな状況で、盛親は一体どうやって家を切り盛りしていくのか――。
豊臣政権下にて
豊臣政権の傘下に降った長宗我部家。
天正十八年(1590年)の小田原征伐で長宗我部盛親は、父と共に水軍を率いて参戦し、伊豆の西海岸にあった後北条方の城を複数攻略しています。

小田原征伐の陣図 photo by R.FUJISE(お城野郎)
秀吉の覚えもめでたく、銭三百貫文の恩賞を獲得しました。
一貫文=紐に通した銭1000枚ですので、30万枚の銭をもらったことになりますね。
これが一体どれぐらいの価値になるのか?
というと、少々換算が難しいのですが……戦国時代には一貫文=一石として計算した例があります。
一石=成人一人が一年間に食べる米の量ですので、ざっくり計算すると小田原征伐における長宗我部氏への恩賞は、
米を300石買えるお金=300人を一年養える食費相当のお金だった
ということになりますね。
与えられたのが土地ではないことに不満はあったかもしれませんが、安すぎるということもなさそうで。
父の元親としては、どうにか長宗我部家の格を上げたかったらしく、大坂で秀吉から下賜されたまんじゅうを
「太閤様からいただいたありがたいものなので、持ち帰って家臣にも食べさせます」
と言ったとか、地元で獲れた鯨を解体せず秀吉へ献上したとか、涙ぐましい努力の話も伝わっています。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
残念ながら、あまりその効果は出ていません。
ただ……豊臣政権としてはもったいない話でもあるのでは?とも感じます。
ここでシッカリと長宗我部家を取り込んでおき、子飼いの誰かと組ませておけば、秀吉死後に起きた数々の内部分裂トラブルも流れが多少は変わったのでは……?
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