大河ドラマ『べらぼう』には、御家人の家に生まれ、浪人となった小田新之助という人物が登場しています。
井之脇海さんが演じ、吉原のうつせみを足抜けさせた貧乏な彼ですね。
蔦屋重三郎からは「新さん」と慕われ、往来物を江戸以外のエリアへ流通させるキッカケをくれた武士でもありますが、そんな新さんには史実のモデルがいません。
つまり、架空の人物というわけで、ならばなぜ彼は登場したのか?
というと、新さんが「御家人の三男」という、時代を反映させる上で重要な存在だったからでしょう。
小田新之助は、真面目で誠実、聡明かつ人間的にも出来た人物です。
健康面でも身体は頑健ですから、まさに働き盛りの一青年といった印象であり、仮に令和に生きていたならばどこの職場でも歓迎されそうな雰囲気もあります。
しかし、そんな素敵な新さんも、当時は生まれながらの負け犬扱いでした。
「貧乏御家人の三男で、今じゃ痩せ浪人かよ」
そんな風に蔑まれ、ましてや金の切れ目が縁の切れ目である吉原では、塩撒いて追い払われてもおかしくない存在だったのです。
当時の旗本・御家人の事情を振り返ってみましょう。
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貧乏旗本御家人の二男以降として生まれたら……
そもそも、小田新之助はなぜ浪人になどなっているのだろう。
あれだけ真面目ならば、働けばよいではないか。
現代ならばそう指摘されるかもしれませんが、当時の江戸っ子ならば「まァ、そうなるだろうねェ」と納得することでしょう。
江戸時代は長子相続が厳格化された時代です。
例えば、3代将軍・徳川家光には、徳川秀長という優秀な弟がいて、両親も「いずれ世継ぎにしたいと考えていた」とされます。

徳川家光(右)と徳川忠長/wikipediaより引用
しかし祖父である徳川家康が、この兄弟に接する際に明確な待遇差を見せつけ、世継ぎは兄であると示しました。
戦国時代までのように、父母どちらの血統も重視する【双系制】から脱却し、父を同じとする兄弟であれば生まれ順を厳守する方針に決めたのです。
この傾向は、8代・徳川吉宗の代において更に強化されました。
吉宗の嫡男である徳川家重は言語が不明瞭であり、将軍の器には適していないと見なされても仕方ない資質でしたが、聡明な弟たちを差し置いて、世継ぎは長子たる家重とされたのです。

徳川家重/wikipediaより引用
兄弟で家督を争ったらろくなことにはならない――世の安寧のために必要な処置と言えます。
しかし、二男以下の者たちにとっては残酷な制度でした。
どれだけ頭脳や武芸に優れていても、兄が亡くならない限りは家督も継げず、生まれながらにして無収入の運命がほぼ確定しているのです。
働かずにブラブラしていてお気楽どころか、針の筵で暮らすような心地悪さを感じても不思議はありません。
俸禄に余裕があるならばまだしも、貧しい家では兄、義姉、甥や姪に気兼ねしつつ、食事のおかわりをするのすら辛い。
結婚する望みなどない。
そんな息詰まる日々が待ち受けており、彼らにはこんな呼び方がありました。
「厄介」……扶持のない扶養家族
「部屋屋み」……部屋に住んでいて独立できない者
「冷や飯食い」……こうした冷遇された状態の俗称
現代では「困り者」「冷遇されている者」といった意味がある言葉ですが、江戸時代ではこうした二男以下を指したものです。
ならばいっそ、家を出るのもよい。そんな選択肢もないわけではありません。
江戸は男女比が歪んでいて、男が多い街でした。
家を継げず、日雇でもして暮らすしかない。そんな弱い立場の男性たちを吸い込む場所でもあったわけです。
新之助も、そうして江戸の街に出たのでしょう。
そこで平賀源内に雇われたことは幸運でした。

平賀源内/wikipediaより引用
源内に連れられ、吉原に来た新之助は、まるで夢の中にいるような顔をしていました。
吉原の女郎は歌舞のできる天女に喩えられますので、御家人三男にとってうつせみ花魁は天女そのものに見えたことでしょう。
二男以下が“厄介”を脱出する狭き門
江戸時代は、現代よりも夭折の確率がはるかに高い時代です。
ゆえに不幸にして嫡子が没すると、家督相続が巡ってくることもありました。
しかし、兄の死によって浪人の立場を脱することができても、なかなか素直には喜べないでしょう。
あるいは家を維持するため、他家へ婿入りすることもあります。
女子しかいない旗本御家人の家に貰われるのです。
立場はどうしても弱く、婚家(こんか)で大事にされるかどうかは運次第。
幕末ともなると、婿入りやら何やらで他家を継ぐことは、選択肢の一つとなっていました。
旗本や御家人だけでなく、幕府にしても諸藩の大名にしても、人間関係を辿っていくと、生まれた家と家督を継いだ家が異なることは多々あります。
高須藩の「高須四兄弟」のように、無事に成人できた男子の多い家は、多くの大名へ養子を送り込むことも。

高須四兄弟の集合写真(右から慶勝、茂栄、容保、定敬)/wikipediaより引用
慶勝→尾張藩
茂徳(茂栄)→一橋家
容保→会津藩
定敬→桑名藩
極めて稀ではあるものの、本家とは別に家が立てられ、二男以下が当主となる道もありました。しかし、あくまで例外です。
が、それはよほどの幸運でもなければまず起きない、奇跡のようなルートです。
疑惑まみれの狂歌連
金がない!
腹が減った!
と、いつもカツカツだった旗本御家人。
『べらぼう』では第20回に登場した大田南畝も、まさしく貧乏御家人の一人です。
彼の家を訪れた蔦屋重三郎は、日焼けした畳と破れた障子を見て、その困窮ぶりを察しておりました。

鳥文斎栄之が描いた大田南畝/wikipediaより引用
しかし、この放送回にはおかしな点がありまして。
貧しいはずの大田南畝が参加した狂歌会の打ち上げは、実に豪華なもの。
蔦重も思わず「かかり(費用)は誰が持つのか?」と確認すると、贔屓筋、すなわちスポンサーの負担だと明かされたものです。
打ち上げには、旗本の土山宗次郎も参加していました。
狂歌連に出入りする常連であり、見るからに羽振りが良さそうで、他の旗本や御家人とは雰囲気がまるで違う。
いったい何者か?
というと土山は「抜く手がやり手」と囁かれていました。
要するに「中抜きがうまい」という意味であり、日頃から首尾よく懐に入れていたのでしょう。
しかし、後に田沼意次が失脚すると、その下で働いていた土山も失脚。
彼には金銭横領の疑惑が突きつけられ、江戸から逃亡するも捕縛され、斬首とされました。
土山の罪の一つとして、吉原の誰袖花魁を1,200両で身請けしていたことが挙げられます。旗本がそんな大金を用意して、身請けができるわけがないと疑われたわけです。
大田南畝も、誰袖ほど高級ではないながら、女郎を身請けしていました。
ゆえに大田南畝は、土山に連座させられないか?と怯えて暮らすことに……。

大田南畝(四方赤良)/国立国会図書館蔵
二人には気の毒ですが、貧乏でなければおかしい旗本御家人がパリピ三昧を繰り広げていたら、疑われることは至極当然なのです。
日焼けした畳に住む男が、女郎を身請けしたら、そりゃおかしいって話でしょう。
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