大河ドラマ『べらぼう』で浅間山の大噴火が取り上げられました。
蔦屋重三郎が日本橋へ進出し、女将ていと結ばれる上で「恵みの灰」を降らせたわけですが、その後、劇中では米の値段が前年の2倍になるなど、なにやら不穏な空気を見せております。
そう、あの大噴火の影響は簡単には終わりません。
【天明の大飢饉】がやってくるのです。
史実では、天明二年(1782年)から始まり、しかもすぐに終わらず東北地方を中心に多くの餓死者を出し、中には飢えるあまりに「人が人を食らう」という地獄絵図を迎えてしまった、未曾有の大飢饉。
実は、当時の人は知らなかった“別の火山”の存在も強く影響していました。

天明飢饉之図/wikipediaより引用
複雑な原因をひとつずつ辿りながら、当時の状況を振り返っていきましょう。
冷害と噴火のコンボ
大前提として、江戸時代はそのほとんどが「小氷期」と呼ばれる期間です。
厳密にいうと鎌倉幕府滅亡あたりから幕末に入るちょっと前くらいまでが該当し、江戸時代は特にその影響が出やすかった時期ともいえます。
「◯◯の大飢饉」は言わずもがな、規模の小さな飢饉を数えればキリがありません。
その中でも天明の大飢饉は、1782年から1786年まで悪夢のように天災が続いたことが影響しました。
天明二年(1782年)奥羽・四国・九州が凶作
天明三年(1783年)東北でのやませ→浅間山大噴火→蝦夷・奥羽・関東・九州で飢饉
天明四年(1784年)北日本全域で凶作
天明六年(1786年)奥羽・関東大洪水
“やませ”とは主に東日本で吹く冷たく湿った風のことであり、昔から冷害をもたらすことで知られていて、天明三年は特に厳しく、夏でも綿入れがいるほどだったそうです。

大日本沿海輿地全図/国立国会図書館蔵
当時の庶民は、同じ着物に綿を入れたり抜いたりして何年も着回していたので、そういった面での負担もあったことでしょう。
一方、西日本や九州では元が温暖なこともあってか、比較的早めに落ち着いたようです。
最終的には人の肉まで……
天明の大飢饉で被害が深刻だったのは、やはり東北諸藩でした。
この時代、江戸の米は東北産に頼る状況だったのですが、江戸へ送るどころか自分達が食べる分すら無いという有り様。

牛馬や道端の草、土壁の中のワラまで食べつくしてもなお足りず、最終的には人肉食まで起きたといいますから、まさに地獄絵図……。
真っ先に影響が出たのは、東北の中でもさらに北部の諸藩でした。
「神武以来の大凶作」とまでいわれるほどの被害で、特に詳しい記録が残っているのが津軽藩と八戸藩です。
津軽藩:米不足なのに江戸大坂へ送ってしまう
津軽藩(弘前藩)では天明二年四月下旬ごろから風や雨が厳しく、夏のやませによって霜が下りるような状況。
麦は腐るわ、稲は青いままで実らないわ、収穫が激減してしまいました。
天明三年も冷害が続くだけでなく、浅間山が噴火して東北にまで灰が降るという最悪な状況に陥ります。
まさしく悪夢。
しかも津軽藩がこんな状況でも40万俵の米を江戸と大坂に送ってしまい、税も全て米で収めるように強制したというのですから、「お前は何を言っているんだ」としか思えません。

政庁のあった弘前城
当然、藩内では米不足で価格も暴騰し、同年5~6月には米を売買できなくなる有り様となりました。
こうなると領内から逃げ出す人もいて、同年秋には完全に食料が尽きてしまったといいます。
事ここに至ってようやく藩でも「まずい」と思ったらしく、幕府から一万両を借りて施行小屋(基金の際に領民救済のため炊き出しを行う小屋)を作ったり、中国地方や秋田藩から米を買ったりしました。
が、ものの見事に焼け石に水。
翌四年になると、疫病が流行り、餓死者や逃亡者は増える一方でした。
おそらくこの疫病は、死者を満足に弔えなかったことから拡散したものもあるでしょう。酷い、という以外に言葉が見つかりません。
八戸藩
八戸藩では、天明四年の時点で領内百姓が5万1614人いました。
それが天明の大飢饉により、計3万人余が餓死・病死・逃散(ちょうさん)したとされています。
逃散とは、農民が田畑を捨てて別の場所へ逃げてしまうことです。少しでも助かった人がいればいいのですが……。

八戸城本丸跡/wikipediaより引用
惨事は長く尾を引き、後年にもそれらしき記録が散見されます。
例えば天明五年(1785年)に陸奥を訪れた学者・菅江真澄は次のように記しています。
「松前藩から逃げてきた物乞いの集団がいた」
「津軽で餓死者の骨が積まれていた」
「骨が積まれていた」というのは想像するだけでショッキングな絵面ですよね。
さらに医師の橘南谿(たちばな なんけい)は著書『東西遊記』でこう記しています。
「道に人骨が散乱していた」
「家一つも残らない人里の跡があった」
「人肉食やそれ目当ての殺人が多かったと聞いた」
人骨の描写だけでなく、人肉食のために“人を殺す”というのが、さらに衝撃的で言葉がありません。
悲劇が拡大していったのは、領主たちが治安維持に積極的でなかったことも一因でした。
ものすごく嫌な話ですが、庶民同士で殺し合ってくれれば口減らしになりますからね……。
あるいは領主たちへの怒りを他へ向けるスケープゴートも兼ねていたのではないでしょうか。
いくつもの失策が重なった結果
それにしても天明の大飢饉は、なぜここまでの惨状となってしまったのか。
原因は主に三つ考えられます。
一つは、江戸幕府が米の生産に集中しすぎたこと。
もともと稲は南方の植物ですから、ある程度、気温が上がらないと育ちません。
それが江戸時代には米の品種改良や、灌漑(かんがい)の充実などによって新田開発も進み、東北でも稲の栽培が可能になっていました。

これがうまくいったので、幕府は
「米は主食だし、高く売れるんだからもっと量産しろ!他の作物は割合を減らしても構わん!」
という方針を取り続けていたのです。
もしも冷害が起きたとしたら、日照不足や冷夏に弱い稲はほぼ壊滅になる――そんな基本をすっかり忘れて。
二つめは、被害に遭った諸藩の対応の悪さでした。
江戸時代の大名は、参勤交代での江戸滞在費用や各地の普請などによる出費のため、多くがド貧乏です。
いざというときの備えどころか、日常の出費すら賄えず、藩士から借り上げ(という名の給料未払い)も珍しくありませんでした。
つまり、この飢饉が起きる前から財政難だった藩が数多存在していたのです。
中でも津軽藩(青森)や南部藩(青森・岩手)は酷く、本来なら備蓄するはずの米まで通常の消費に回していたため、大飢饉の影響をモロにくらい、前述の有様となってしまいました。
慌てて他の藩から米を買おうにも、既にそこだって余力などない。
飢饉対策は一朝一夕に進められるものなどなく、結局、被害を軽減させる手段はありませんでした。
享保の大飢饉との違い
江戸時代の飢饉というと「サツマイモ」を連想される方もいるかもしれません。
八代将軍・徳川吉宗が救荒作物として普及させた……というのは学校でも習いますし、「享保の大飢饉ではサツマイモのおかげで被害が軽減された」という見方も広く知られている通りです。

ではなぜ天明の飢饉では対応できなかったのか?
というと「飢饉になった理由と地域が違うから」という点が大きいと思われます。
享保の大飢饉は主に西日本での冷害。
その中にはサツマイモを作っている藩もあり、他へ食料を融通する余裕もあったといいます。
吉宗は、こうした状況を受け、関東各地にもサツマイモの栽培を奨励し、生産されていました。

徳川吉宗/wikipediaより引用
しかし天明の大飢饉では、米作への依存が強かった東北地方が被害地域であり、当時の東北ではサツマイモを作りにくかったのです。
現代では寒冷な地域でも栽培できる品種のサツマイモとして「べにはるか」「ゆきこまち」などがありますが、いずれも21世紀に入ってから開発されたもの。
現在の生産量でみると鹿児島県が全国トップとなり、以降も茨城・千葉・宮崎と、温暖な県がほとんどを占めています。
需要や販路から見た理由もあるのでしょうけれども、やはり基本的には温暖な地域に向いた作物といえます。
江戸の戯作者・山東京伝(北尾政演)の本で蒸したサツマイモを売る店が登場しますので、少なくとも天明の飢饉よりも前に”江戸周辺では”サツマイモが普及していたと思われるのですが……これが東北に伝わったかというと怪しいところ。

山東京伝/wikipediaより引用
東北の藩に仕えていた下級武士の中には、江戸滞在中にサツマイモを口にした者もいたかもしれません。
しかし、「これを地元で育てよう」という発想は生まれにくかったのではないでしょうか。
実際に試したけれどもダメだった、という可能性もありますよね。
まとめるとこうなりますね。
東北ではもともとサツマイモを育てにくい
↓
普及しない
↓
飢饉の救済策としてよそから買うという発想も出にくい(そもそもお金もない)
↓
餓死者多数
そして、ラスト三つめの理由は、幕府の手落ちではなく、思わぬところの影響がありました。
アイスランド噴火の影響
天明の大飢饉と同時期に、はるか遠くのアイスランドで複数の火山が噴火していました。
2010年にもアイスランドの火山・エイヤフィヤトラヨークトルが噴火し、EU諸国の空港が軒並み使えなくなるという非常事態がありましたよね。

エイヤフィヤトラヨークトルの噴火(2010年)/wikipediaより引用
当時の噴火は、それよりも大規模なもの。
火山灰やガスが北半球のほとんどを覆ったことにより作物が育ちにくくなったため、フランス革命の遠因になったのでは?とまでいわれています。
しかし、18世紀の日本でほぼ地球の裏側にあたる火山の情報が即座に手に入るはずもなく、対応が出遅れてしまったのでした。
田沼派の失脚と松平定信の台頭へ
この未曾有の危機を乗り切れなかったのが、当時、老中で経済政策を担当していた田沼意次です。

田沼意次/wikipediaより引用
意次はどちらかというと農業より商業に力を入れていて、それなりに成果も挙げていたのですが、飢饉対策はできていませんでした。
一応、印旛沼の開拓などをやろうとはしています。
ただ、その前に飢饉が来てしまったので成す術なく、倹約令を出してもどうにもならない状態。
米屋を襲う打ちこわしが相次ぎ、治安は乱れに乱れ、その恨みは意次に向かいました。
逆に、この飢饉によって出世した人もいます。
当時、白河藩主だった松平定信です。

松平定信/wikipediaより引用
定信はこのとき「領内に一人も餓死者を出さなかった」ことで今も知られます。
西日本から食料を買ったり、自らも倹約して民の手本になるなど、やったことはシンプルながら対応の早さが白河藩を救ったのです。
そしてその手腕が評価され、わずか30歳で老中に抜擢されることとなりました。
有名どころでは、改革を進めていた上杉鷹山の米沢藩も餓死者を出さずに乗り切ったとされていますね。
意次と定信は元々そりが合わず、飢饉への対応も成果も真っ二つに分かれたため、幕府と市井の評価が一致。
「意次はもういらん。定信を!」となり、老中が交代することになったのでした。
意次というと賄賂や息子が暗殺されたせいで失脚したかのようなイメージが強いですが、決定打は大飢饉対策の失敗だったと言えそうです。
ただし定信も、幕閣になってからその手法は全く通用せず、景気を締め付ける倹約政策を進め、江戸の経済をどん底へ突き落としてしまいます。
その辺の詳細は、以下、定信や寛政の改革の記事にて。
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【参考】
山賀進『科学の目で見る 日本列島の地震・津波・噴火の歴史』(→amazon)
島村英紀『完全解説 日本の火山噴火』(→amazon)
国史大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
世界大百科事典




