江戸時代が舞台、それも文化史が中心という異例づくしでありながら、視聴者からは高い評価を得た2025年の大河ドラマ『べらぼう』。
賛美の声はすでに出尽くした感もありやすが、僭越ながらあっしも書かせていただければありがた山でござんす。
前後編に分けまして、前編は吉原で踊る太鼓持ちのように朗らかに、褒めてめでたいことづくしと致しやす。
んじゃ、後半はどうかってぇと、それは後日のお楽しみ。

蔦屋重三郎/wikipediaより引用
てなわけで、前編の総評、お付き合いいただければかたじけ茄子!
『べらぼう』の埋めた空白
思えば大河ドラマの歴史は長い。
放送事情でみれば百年目にあたるのが2025年――そんな記念すべき年に『べらぼう』は、長い歴史の中でとりこぼした要素を拾ってきました。
徳川幕府十五代将軍の中で唯一、大河ドラマに不在だった徳川家斉がようやく登場。

徳川家斉/wikipediaより引用
舞台となる江戸中〜後期も、実は初となります。
スッキリとした割線がないからつまらない。そんな懸念は放送前だけでなく、いざ放送が始まってからもありました。
しかし、歴史的に見ると、実はこの時代こそ重要なターニングポイントと言えます。
日本という国家が近世において成立する邦画。国を代表し、現代にまで伝わる文化芸能が生まれてゆく。そんな国家としての黎明期にあたるのですね。
その暁光を描いたのが今年の『べらぼう』であるといえるでしょう。
近代的な国家とは、自国の国境や民族としての規定をしてゆくことで成立します。
その芽生えを今までどうして放置してきてのか。そう思えてくるほど巧みな時代選択です。
私個人としての思いを明かさせていただきますと、2018年の正月時代劇『風雲児たち』を見て以来、この時代を大河ドラマにしてくれないものか?と考えていました。
今年は、そんな宿願が叶ったことで感無量。いよっ、めでてぇな!
と、浮かれはしゃぎたいのも、実はこの時代が重要度高い割に、そう認識されていないなと長らく懸念していたからです。
戦国末に来日した外国人は、明や朝鮮と日本を比較し、教養や文化の程度において日本は劣るとみなしました。
無理もない話です。長く戦乱が続いており、文化や社会制度の整備が後回しとされたからには、仕方のないことでしょう。
しかし、その状況が逆転してくるのが、実はこの時代です。
日本人の美点とされる機転や柔軟性は、江戸前期の安定した統治の結果であり、そこに強みが生まれてきます。
隔年で江戸大河でもよいのではないか?と思うほど、あっしゃー重要だと思っていやす。

鉄拳さんが演じた礒田湖龍斎『雛形若菜の初模様 金屋内うきふね』/wikipediaより引用
おとなの「歴史総合」
もう少し、歴史背景についての意義を振り返らせてくだせぇ。
2022年度から高校必修科目として「歴史総合」が導入されました。
日本人の歴史認識における弱点を補う秀逸な科目であり、その始点は18世紀後半。
いわば『べらぼう』は、歴史総合を学んでこれなかった世代にとって、その代替とも言える作品ではないでしょうか。
田沼意次が贈収賄まみれの悪徳政治家という印象はもう古い。

田沼意次/wikipediaより引用
米本位から経済政策を転換させようとしたのに、挫折してしまう。
黒船来航よりはるか前に、ロシアの南下が脅威として存在していた。
こうしたドラマの中核にあった要素がまさしく歴史総合です。
私が驚いたのは、序盤における田沼意次と平賀源内の対話場面でした。
二人は外国の脅威を語ります。
この「外国の用意」を、黒船来航まで飛ばす感想が、SNSやネットニュースでは大量に見られました。
私は「んなもんロシアに決まってらァ!」と強気だったわけですが、それでもちっとビビるくれえの勢いでしたからね。
大手メディアですらそんな調子で、各媒体のライターさんも編集さんも、そこに疑念を挟まなかったということが浮かんできます。
さほどに黒船の存在が大きく、ロシアは意識されていなかった。
もうひとつ、劇中の平賀源内が怪しげなタバコを吸わされ、中毒症状を起こす原因となる薬物が、薩摩経由で清から輸入した阿片だと推理考察されていたこと。
阿片は国産もできないわけでもありませんし、清が阿片に悩まされるのはもっと後の時代。
田沼時代の清は世界一の大国でした。
こうした感想を見ていると、近世以降の歴史認識が危ういと思わされたもんでやんす。
大河ドラマ視聴者は、そうでない方より歴史に詳しいという自認があると思うのです。そうした方々でも、これじゃァどうにもいけねェなぁ!と、本作が問題提起できていたとしたら、てぇしたもんですよ。
公共放送の受信料の使い方としてこれ以上はねえんじゃないかい!
もうみんな、江戸中期にはロシアが脅威だったって理解したよな!
ついでにいえば、関連番組の『3ヶ月でマスターする江戸時代』も素晴らしいものでした。再放送もあるでしょうからお見逃しなく。

ひょうろくさんが演じた松前廣年(蠣崎波響)作『夷酋列像 シモチ(失莫窒)アッケシ脇乙名』/wikipediaより引用
敢えて避けずに吉原へぶつかる覇気
蔦屋重三郎を主役にすることは是が非か?
このことはずっと指摘されておりやす。最大の問題点とされたのが、彼は吉原で生まれ育ったという点です。
「吉原を美化するドラマだ」
そんな批判は果たして正しいのかどうか? まず、歴史的観点から見てみましょう。
この時代、職業選択の自由はあってないようなものです。
蔦重は親に吉原に置き去りにされ、児童労働をさせられ、吉原で働くことになりました。彼自身の選択の結果ではないため、そこは汲むべき事情がある。
江戸時代の身分制度を考えるうえでも重要でしょう。吉原に暮らす人々は、女郎以外も被差別者であることはきちんと描かれています。
大河ドラマには、自らの選択で女性の性売買に積極的に関わったうえに、それを免罪されてきた人物もおります。
2015年『花燃ゆ』のヒロイン周辺は、この観点から考えると最悪といえます。
高杉晋作は女郎を転売することで利益をあげ、それを「やんちゃ」のように語るほど性的に逸脱していました。
高杉は明治時代を迎える前に亡くなった一方、生き延びた伊藤博文や井上馨はさらに酷い。
当時はそんなものという擁護もありますが、当時から下劣で「売淫国の棟梁」扱いされ、明治天皇すら呆れ果てるほどです。
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そんな伊藤と井上と女遊び友達だったのが、渋沢栄一です。
彼らが関わった朝鮮半島での政策は、現在にまで禍根を残すほどの性的搾取の問題をもたらしましたが、『花燃ゆ』や『青天を衝け』のときにはきちんと批判を行ったかどうか。
毎回、表明してきたのであれば、真面目で信念ある方だと思います。
しかし、今回になって急に言い出したのだとすれば、あっしとしちゃァ、権力に弱いんじゃねえかと疑いたくもなっちまうんでさ。
NHKという公共放送が、吉原を扱うなぞけしからんという指摘もあります。
残念ながら、NHKは『べらぼう』放映前も、後も、吉原について扱うことが最も頻繁な放送局でやんす。
なぜか?
って、江戸文化を語る上では吉原はどうしても外せません。
これは他の国や文化圏でも直面する問題といえる。性的搾取や人種差別を含めた文化をどう表現するか。臭いものに蓋をしているわけにはいきません。
その点『べらぼう』は極めて慎重に挑んだと言えるでしょう。
インティマシー・コーディネーターの起用。
性を売買することがどれほどの負担であるかの表現。
借金で助労を縛り付ける吉原の搾取構造。
その背後にあった将軍の権力。
吉原者が直面する差別。
問題は吉原だけにあるわけでもなく、男性である唐丸や、耳の聞こえないきよも性的に搾取される構造を描きました。
吉原をキラキラ美化させているのではないか。そんな批判も未だにありますが、その手の批判はアップデートが止まっているがゆえに出てくるものと推察できます。
この手の吉原美化のピークは、1990年代後半から2000年代にかけての歴史修正主義と連動していました。
それより前の吉原を舞台とする映画『吉原炎上』は、女郎の悲惨な境遇を取り上げておりました。このころまでは吉原女郎と、戦時戦後まもなくの性的搾取を重ね合わせ、悲哀を感じさせる描写がむしろ主流でした。
貧しいから身を売る女性というイメージは、日本の経済成長と共に薄れてゆきます。
1990年代後半には「ブランドバッグ欲しさに気軽に下着や我が身を売る愚かな女子高生」というイメージがマスメディアによって作られてゆきます。
そうした像を見て「吉原女郎だってそんなもんじゃないか」と誤誘導される人が発生したということです。典型例として漫画原作で映画にもなった『さくらん』を挙げておきましょう。
『鬼滅の刃』にせよ、『べらぼう』にせよ、こうした往年の“キラキラ吉原”への警戒感による批判があったと思います。
それを打ち消すためにか、初回で朝顔の遺骸が「投げ込み寺」こと浄閑寺に葬られる衝撃的な場面がありました。
死骸役がセクシー女優であったことが客引きと批判されましたが、あれは肌を見せてもよい契約を条件に募集した結果とのこと。
『べらぼう』は果敢な体当たりをしたものですね。
江戸時代、こと文化を描くとなれば、避けて通れない吉原に正面からぶつかっていった。
こういう覇気は、あっしの大好物でやんす。江戸っ子の好みにもあってますぜ。

喜多川歌麿『松葉屋内市川』/wikipediaより引用
東(あずま)の誇りを示す
大河ドラマの舞台について、ちったぁ考えてみてもくだせえ。
西日本が多いんですよ!
これだけ東日本を舞台に物語が繰り広げられる大河ドラマというのは、近年に絞ってみますと『鎌倉殿の13人』、『べらぼう』、『逆賊の幕臣』くれぇじゃねえすかね。
『八重の桜』でも東日本中心だったのは中盤まで。『どうする家康』でも東日本中心となるのは最終盤でやんす。
日本史の大きな特徴で、西日本が政治の中心だった時代が長く、鎌倉時代と江戸時代以降が例外となる。
明治以降、首都圏は東日本になるものの、体制としては西日本上位と言えるでしょうか。
と、歴史蘊蓄を語っても多分しらけるだけかもしれねえんですが、もうとっと続けさせてもらいやすと、この時代を舞台とするならば文化大河になるのは必然とも言えるんですな。
『鎌倉殿の13人』を思い出してみてくだせえ。
坂東武者は読み書きからしてあやうい。

『鎌倉殿の13人』では佐藤浩市さんが演じた上総広常/wikipediaより引用
人名からして「三郎」だの「四郎」だのシンプル極まりない。
劇中では北条義時にせよ、政子にせよ、鍛錬を積んでいたことがわかります。
なにせ源平合戦の時点では、平家の御曹司と違って坂東武者は和歌すらろくに詠めないと言われたほどです(劇中では誇張もありますが……)。
この状態は長く続き「東夷(あずまえびす)」という自嘲的な認識が残り続けていました。
それが江戸時代になってようやく、日本を代表する文化が東上位となりやす。
地本問屋はその象徴で、江戸で本を作るから「地(現地・江戸ということ)」とつくわけです。
浮世絵。歌舞伎。蕎麦。鰻。天ぷら。江戸前寿司。
劇中でも見られて文化は、実はこのころから確立していったものであり、特にそれを意識していたのが松平定信でして、西に負けるわけにはいかないという矜持をドラマで見せつけていましたね。

勝川春章『初代中村仲蔵の斧定九郎』/wikipediaより引用
文化大河の果たした大いなる使命
2024年『光る君へ』は、西日本代表の文化を示しました。
その翌年に『べらぼう』で江戸文化を示したことは、実に大きな意義がある。偶然ではなく必然でしょう。
必然といえば、大河効果の奇跡として『婦女人相十品』「ポッピンを吹く娘」の再発見もあげておきたい。
こうした再発見こそ、大河ドラマが文化と歴史に貢献することの証明となります。
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『べらぼう』43年ぶりに国内で発見された歌麿『ポッピンを吹く娘』の何が一体凄いのか
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喜多川歌麿『寛政三美人』/wikipediaより引用
大河ドラマの何より素晴らしいところは、テーマの関連事項が盛り上がること。
文化大河も、様々な重要を喚起します。
『べらぼう』関連イベントでは、江戸の技を伝える伝統的なものが販売され、実に嬉しくなりました。
『べらぼう』は、大河ドラマの異端児どころか、効果を最も賢く発揮した、稀有な傑作だとあっしは思いやす。
歴史を、合戦だの乱世に限定することがそもそもおかしい。
西日本ばかりで歴史を回すってぇのも、どうかと思う。
歴史をジェンダー視点から見直すことも、いうまでもなく重要。
歴史総合視点を入れていかねえと、今どきさすがにヤバいぜ。
時代劇衰退が叫ばれて久しい。
このまま座して滅びるのを待つつもりかえ?
ってなモヤモヤを吹き飛ばす、まさしくありがた山、こんな大河ドラマを待っていたという理想的な展開でした。

大河ドラマ『べらぼう』ガイドブック(→amazon)
願わくばこうした大河ドラマを、十年に一度か二度は作る。そんなペースでいて欲しいものです。
関連番組。美術。所作指導。音楽。考証。そして熱演されたキャストの皆様。
ありとあらゆる要素が高水準にあった素晴らしい作品でした。
このような傑作を作り上げた皆様に感謝申し上げる次第です。
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