織田家

美濃制圧後に迫る“武田信玄の脅威”|織田信長はどう動いたか

大河ドラマ『豊臣兄弟』では現在、墨俣一夜城の攻防が描かれています。

舞台は永禄九年(1565年)とされ、いよいよ織田家による美濃攻略がクライマックスへと進むわけですが、問題はその後の紛争リスクでしょう。

国が大きくなればそのぶん他国との合戦が起きやすくなり、美濃を制した織田家は厄介な相手と直面することとなります。

その人物こそ――武田信玄です。

“甲斐の虎”と恐れられる戦国一の大名を相手に、信長はどんな手段で対応したのでしょうか。

 

全てを一変させた桶狭間の戦い

織田信長武田信玄だけでなく、徳川家や今川家、あるいは北条家など――当時の東海地方の戦力バランスを一変させた合戦があります。

永禄三年(1560年)桶狭間の戦いです。

駿河・遠江・三河を制し、国内でも最大級の大名だった今川義元が、尾張半国しかない織田信長に敗北。

単に負けるだけでなく、首まで取られる展開に心底驚いたのが武田信玄でしょう。

なんせ信玄は、永禄四年(1561年)の第四次川中島の戦いで上杉謙信との激しい消耗戦を経験すると、永禄七年(1564年)の第五次川中島の戦いでは睨み合いで終わり、やがて謙信との争いは終息へと向かいます。

川中島の戦いには永禄十年(1567年)の“第六次”もあるとされますが、こちらも大戦には至っていません。

謙信と争うより、駿河や遠江の今川氏真を倒した方が断然早い――。

信玄がそう考えるのも自然なことでしょう。

義元亡き後の今川当主である氏真は、永禄五年(1562年)から同九年(1566年)にかけて遠江の国衆たちに「遠州忩劇(えんしゅうそうげき)」と呼ばれる反乱を起こされ、足元のおぼつかない状況。

当時の武田は、そんな今川と、さらには北条と「甲相駿三国同盟」を結んでいましたが、同盟を破棄してでも今川家を侵略する方が越後へ向かうよりも現実的となっていきました。

一方の織田信長はどうか?

 


東美濃で武田家と対峙することになる

永禄三年(1560年)5月に今川義元を討ち取った信長は、その1ヶ月後、すぐさま美濃へ攻め込んだとされます。

当時の美濃を支配していた斎藤家は、道三の嫡男である斎藤義龍が当主。

この義龍が織田家にとって強敵であり、信長は永禄三年6月と8月に2度の攻撃を仕掛け、いずれも敗退しています。

斎藤義龍の肖像画

斎藤義龍/wikimedia commons

もしも義龍が一定の寿命を全うしていれば、信長の快進撃は桶狭間の戦いで打ち止めとなり、美濃は諦め、尾張と伊勢を支配する程度の有力大名で終わったのでは?そんな風に指摘されることもあります。

しかし、場面場面で類まれな強運に恵まれるのが織田信長。

永禄四年(1561年)5月、斎藤義龍が享年33の若さで急死しました。

病死と思われる義龍の跡を継いだのは、当時まだ14歳だった斎藤龍興であり、織田家は絶好の状況を迎えます。

隣国・三河の松平元康(徳川家康)とは和睦も済ませており、その翌年に「清州同盟」も結ばれるぐらいですので東側の憂いはない。美濃攻略へ全力投球できる。

と同時に問題も上がってきます。

武田信玄です。

 

武田と織田の甲尾同盟

もしも織田家が美濃を制圧することができれば、同時に東美濃で衝突リスクが高まってしまうのが武田家でした。

万が一の合戦だけは避けておきたい。

ならば一体どうするか?

信長が取った策は武田家と姻戚関係の構築でした。

姻戚関係を利用して同盟を結ぶのは戦国大名の外交の基本であり、信長も武田家と「甲尾同盟」を成立させようと考えます。

そのための打つ手というのが、自身の養女を武田勝頼の妻として嫁がせることでした。

武田勝頼の肖像

武田勝頼/wikimedia commons

養女とは、苗木城主・遠山直廉(苗木勘太郎)の娘であり、信長の妹が遠山氏に嫁いで生まれていました。

信長にとっては姪にあたりますね。

その子を信長の娘(養女)として武田勝頼に嫁がせれば晴れて甲尾同盟も成立――ということで、永禄八年(1565年)9月、さっそく信長は信玄に縁談を申込みます。

武田家としても織田家と戦う気はなく、信玄もこれを快諾。

もともと遠山氏は美濃と甲斐信濃の間にあって織田とも武田とも通じており、当時は絶好の立地にありました(以下のgooglemap参照)。

左から赤色(斎藤家の岐阜城)黄色(織田家の清洲城)紫色(遠山家の苗木城)青色(武田家の躑躅ヶ崎館)/Googleマップより

話はあっという間に決まり、その2ヶ月後の11月13日に輿入れとなります。

しかし、武田家にとって、この婚姻は良いことばかりでもありませんでした。

永禄八年(1565年)10月、いわゆる「義信事件」と呼ばれるクーデター未遂事件が起き、嫡男だった武田義信は幽閉され、その傅役である飯富虎昌などが処刑されたのです。

今川家との関係が深く、駿河へ侵攻する気など無い義信一派。

彼らは、織田家との同盟や勝頼との姻戚などを問題視しており、いよいよ行動に移そうと考えたのか、婚姻が決まった1ヶ月後に「信玄の暗殺計画」が発覚したとして処罰されたのです。

 

信忠と松姫の婚約は解消

遠山氏の娘(龍勝院殿)は結婚から2年、永禄十年(1567年)11月に待望の長男・武田信勝を出産。

織田信長も、同年夏に稲葉山城の戦いを制して斎藤龍興を追放し、晴れて美濃の制圧に成功しました。

信長はその翌年、足利義昭を奉じての上洛まで成就させ、加速度的に西方への支配域も拡大してまいります。

それだけに背後にいる信玄との関係は重要だったことでしょう。

元亀二年(1571年)9月に勝頼に嫁いだ龍勝院殿が亡くなってしまうと、今度は信長の嫡男・織田信忠に、信玄の娘・松姫が嫁ぐことが決定されました。

ただし、婚約成立時の二人は、信忠が11歳で松姫が7歳です。

まだ先の話であり……と思ったら、実際にこの結婚は成立せずに流れてしまいます。

元亀三年(1572年)に武田信玄が西上作戦を強行すると、徳川家康三方ヶ原の戦いに発展、信長も対抗措置として徳川へ援軍を送り、甲尾同盟は破綻します。ここに婚約も消え去ったのです。

織田信長の肖像画

織田信長/wikimedia commons

信長にとって大問題となったのは、単に婚約が解消されただけのことではありません。

武田信玄は信長を潰すために徹底した包囲網を構築。

浅井・朝倉、本願寺、足利義昭など広範囲に渡って連携を取り、信長を絶体絶命の窮地へ追い込むのです。

美濃制圧は終わりではなく、より巨大な戦いの始まりとなったのでした。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

👨‍👦 『豊臣兄弟』総合ガイド|登場人物・史実・出来事を網羅


参考書籍

岡田正人『織田信長総合事典』(1999年9月 雄山閣)
武田氏研究会『武田氏年表(信虎・信玄・勝頼)』(2010年2月 高志書院)

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BUSHOO!JAPAN(五十嵐利休)

武将ジャパン編集長・管理人。 1998年に大学卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として20年以上活動。歴史関連書籍からビジネス書まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、累計4,000本以上の全記事の編集・監修を担当。月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆国立国会図書館データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

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