豊臣秀吉と柴田勝家といえば、一般的に“犬猿の仲”として知られる。
織田信長の死後に「賤ヶ岳の戦い」で覇権を競った二人であるから、そう思われるのも自然なことだが、実はそれ以前にも両者の間では大きなトラブルがあった。
勝家が北陸へ出陣したとき、従軍していた秀吉がその戦場を離れ、勝手に帰ってしまったのだ。
これには当然、織田信長も激怒。
大河ドラマ『豊臣兄弟』でも注目されるこの出来事の顛末、史実では一体どうだったのか?

豊臣秀吉/wikipediaより引用
秀吉のその後と織田家の事情を見てみよう。
勝家の北陸出陣に秀吉も加わった
問題の舞台となったのは、天正五年(1577年)の北陸方面である。
この年、織田家は各方面へ勢力を広げていた。
というのも元亀四年(1573年)に武田信玄が亡くなると、同年に浅井・朝倉を滅ぼし、さらに天正三年(1575年)長篠の戦いでも武田勝頼に大きな打撃を与えて、戦力に余裕が生まれていたのだ。
信長はこの年、右近衛大将にも任ぜられて事実上の天下人となっており、朝廷との関係でも大きな地位を得ながら、各方面へ有力武将を配置していった。
中国方面には豊臣秀吉。
畿内や丹波方面には明智光秀。
そして北陸方面には柴田勝家である。

柴田勝家/wikipediaより引用
北陸方面での対峙が意識された相手は上杉謙信である。
信玄亡き後、信長にとって上杉謙信は警戒すべき存在であり、北陸方面は決して軽い戦線ではない。
研究者の和田裕弘氏は『柴田勝家 織田軍の「総司令官」』の中で、勝家を「信長の重臣」と位置づけ、その歩みを信長政権の展開と重ねて論じている。
そこで天正五年(1577年)8月8日、信長は勝家を中心とする軍勢を北へ向かわせた。
以下のように、織田家中の有力武将が名を連ねた大部隊である。
◆柴田勝家軍
・滝川 一益
・羽柴 秀吉(豊臣 秀吉)
・丹羽 長秀
・斎藤 新五
・氏家 直通
・安藤 守就
・稲葉 一鉄
・不破 光治
・前田 利家
・佐々 成政
・原 政茂
・金森 長近
『信長の野望』でいえば、統率力100の謙信に対し、95の勝家や91の秀吉たちが向かっていくような構図であろう。
しかし、当然ながら現実の戦場はゲームのようには進まない。
この北陸出兵の途中、あろうことか秀吉が勝手に戦場を離れてしまったのだ。
なぜ秀吉は勝手に帰ったのか
なぜ豊臣秀吉は、北陸の戦場を離れたのか。
柴田勝家と反りが合わなかったのか。
上杉謙信を警戒したのか。
あるいは、別の事情があったのか――。
後の「賤ヶ岳の戦い」を知っている私たちからすれば、「やはり勝家と秀吉は最初から合わなかったのでは?」と見たくなる。
しかし、当時の秀吉が何を考えていたのか、勝家との関係がどこまで直接の原因だったのか、そこまで踏み込める材料は乏しい。
はっきりしているのは、信長の命を受けた北陸方面軍の中で、秀吉が持ち場を離れたということだ。
むろん、これは軽い話ではない。
勝家は、織田家の北陸方面を担う重臣である。
そこへ秀吉、丹羽長秀、滝川一益、前田利家、佐々成政らが加わっていた。
前述の通り、これは単なる局地戦ではなく、対上杉を見据えた織田家全体の重要な軍事行動であり、秀吉の離脱は単なる“勝家との仲違い”では済まされない。
途中で勝手に帰ったとなれば、信長が怒るのも当然だろう。

絵・富永商太
信長の事績を記した『信長公記』でも、このときの秀吉について「進退に窮した」という趣旨で記されている。
では、厳しい立場へ追い込まれた秀吉は、この窮地をどう切り抜けたのか?
信長は、どんな処分を下したのか?
秀吉は処分されたのか
結論から言えば、豊臣秀吉に対して重い処分が下された形跡は見当たらない。
織田信長の怒りが消えたのか。
秀吉を使い続けるしかない理由があったのか。
断定できる記述は残されていないが、当時の状況から浮かんでくるヒントはある。
同年の天正五年(1577年)8月に起きた松永久秀の謀反だ。
勝家軍が北陸へ向かった直後、松永久秀が信貴山城に立てこもり、信長に対して反旗を翻した。

松永久秀像(高槻市立しろあと歴史館蔵)/wikimedia commons
北陸の上杉方面だけでなく、畿内でも火の手が上がった織田軍。
岡田正人氏『織田信長総合事典』のような事典・年譜類で天正五年前後の動きを確認すると、北陸方面への出陣、松永久秀の謀反、中国方面への展開が近い時期に続いていたことがわかる。
秀吉の北陸離脱だけを単独事件として見るより、信長政権が複数方面を同時に動かしていた時期の一件として見た方が、流れはつかみやすいだろう。
要は織田家のピンチであり、いわゆる「第三次信長包囲網」と呼ばれる状況の中で、信長は複数方面への対応を迫られていた。
こうなると秀吉を処分している場合ではない。
久秀に対しては、織田方の松井友閑によって説得工作が進められたが効果はなく、信長は天正五年(1577年)9月27日、嫡男の織田信忠に進軍を指令。
10月3日から戦いが始まると、その一週間後、松永久秀は信貴山城で滅亡した。
北陸から離れた秀吉の処分は?
重い罰を受けるどころか、その後、再び重要な任務を与えられるのである。
中国方面へ向かった秀吉
天正五年(1577年)10月23日、豊臣秀吉は毛利攻略のため中国方面へ向かった。
いわゆる「中国攻め」である。
北陸方面で信長の不興を買ったはずの秀吉が、シレッと中国方面の攻略という大役を任されるのだから興味深い展開であろう。
信長に叱責されただけで秀吉の役割は消えちゃいない。
なんせ実際に秀吉は播磨へ進むと、赤松広秀の龍野城、別所長治の三木城、小寺政職の御着城など、各地の勢力を次々に織田方へと引き寄せていく。
そして姫路城に入ると、そこには『軍師官兵衛』でお馴染みの黒田官兵衛がいた。

黒田官兵衛/wikimedia commons
官兵衛から居城を提供された秀吉は、そこを拠点として中国攻めを進め、少なくとも表向きには、北陸の一件で役割を失ったようには見えない。
ここに織田政権における人事の厳しさと柔軟さが見えてくる。
失敗や叱責があっても、すぐさま干されるわけではない。
しかしその後の働きで結果を出せなければ、立場は一気に危うくなる。
例えば、秀吉よりもずっと以前からの重臣だった佐久間信盛は、本願寺攻めなどをめぐる働きを信長に厳しく咎められ、後に織田家を追放されている。
結局、信長は北陸の一件だけで秀吉を切るのではなく、なお使うべき武将として中国方面へ向かわせたのだろう。
しかも、である。
秀吉は間もなく、信長から褒美まで与えられることになる。それは一体なんだったのか?
乙御前の釜を与えられる
天正五年(1577年)10月から中国攻略を始め、まずは播磨方面で一定の成果を上げた豊臣秀吉。
赤松広秀、別所長治、小寺政職らを織田方へ従わせると、播磨の国衆への働きかけを進めていく。
この一連の成果が評価されたのだろう。
織田信長は秀吉に対して『乙御前の釜(文化遺産オンライン)』を与えている。
少なくともその後の秀吉が、重い処分で政治・軍事の表舞台から外されたわけではないことがうかがえる。
逆に「なんで秀吉ばかり贔屓されんだよ!」と勝家も怒りそうだが、「最初からそうなるように秀吉はすべて計算していた」とまで言い切るのは危ういだろう。

絵・富永商太
確かに北陸で勝家のもとに留まっていれば、上杉謙信との戦いに巻き込まれていた可能性はある。
逆に秀吉軍がいれば勝利できた可能性もあるわけで、何とも言えない。
とにかく秀吉は中国方面の攻略を任されたことで、自らの働きを示す別の場を得た。
結果から見れば、北陸離脱で苦境に立たされた秀吉が、中国方面で再び存在感を示した、という事実だけを押さえておくのがよさそうだ。
なお、両者の事績についてはそれぞれの別記事「柴田 勝家の生涯」「豊臣 秀吉の生涯」をご覧いただければ幸いである。
参考文献
和田裕弘『柴田勝家 織田軍の「総司令官」』(2023年6月 中央公論新社)
日本史史料研究会監修・渡邊大門編『信長軍の合戦史 1560-1582』(2016年7月 吉川弘文館)
岡田正人『織田信長総合事典』(1999年9月 雄山閣出版)
太田牛一著・中川太古訳『現代語訳 信長公記』(2013年10月 KADOKAWA)
【TOP画像】柴田勝家と豊臣秀吉の肖像画/wikimedia commons
