筒井順慶と松永久秀――。
大河ドラマ『豊臣兄弟』でも描かれたように、この二人は戦国時代における大和国では絶対に避けては通れない宿敵です。
まさにお互いが不倶戴天の敵なのでしょう。
ドラマでは竹中直人さんの松永久秀に同情の念が寄せられ、ともすれば筒井順慶は悪役にも見えましたが、ことはそう単純でもありません。
最初に大和に勢力を根ざしていたのは筒井であり、そこへ割り込んできたのが松永久秀だったのです。
それだけではありません。
大和国では、従来から大勢力だった興福寺だけでなく、三好氏、足利義昭、織田信長など、近郊の有力者たちも絡んで争いは激しくなり、筒井と松永の紛争は実に十数年にも及ぶことになるのです。
一体それはどんな戦いだったのか?
そもそも両者はいつから対立が激化したのか?

筒井順慶/wikimedia commons
まずは大和国の特殊な事情を踏まえから、筒井と松永の歴史を振り返っていきましょう。
戦国大名が支配する国ではなかった大和
大和国は古来より、全国でも屈指の特殊なエリアです。
戦国時代ともなれば、室町時代の守護大名が戦国大名となったり、有力守護代が守護家のポジションを奪ったり、通常であれば武家が台頭するものです。
しかし、大和で大きな存在感を持っていたのは興福寺でした。
大寺院の興福寺は、藤原氏の氏寺だけあって単なる宗教施設ではありません。
寺領を持ち、武装した衆徒を抱え、地域政治にも大きな影響力を持つ存在であり、例えば2024年大河ドラマ『光る君へ』でも、藤原道長のもとへ強訴(武力を背景とした訴え)に来ていましたね。

興福寺の僧兵/wikipediaより引用
財力と武力に勝る者が最大の権力を得る――。
こうして大和国では興福寺を中心に、彼らと関係を持つ国衆たちが複雑に絡み合いながら、政治秩序が保たれていました。
その中で、際立った存在だったのが筒井氏です。
彼らは単なる地方武士にはあらず。
研究者・金松誠氏の『シリーズ・実像に迫る019 筒井順慶』によると、筒井氏は興福寺一乗院方の衆徒であり、大和武士を編成した戌亥脇党(いぬいわきとう)を率いていました。
官符衆徒(かんぷしゅうと)の棟梁を世襲する立場とされ、一言でいえば「名門」ですね。
つまり、松永久秀が大和へ入るということは、筒井氏から見れば敵から本拠地を攻め込まれているわけで、1ミリたりとも認められる話ではありません。
しかも三好長慶のもとで力をつけてきた久秀は、畿内政治を動かす実力者。
筒井順慶にとっては筒井家そのものを揺るがす非常事態の危機でした。
幼い順慶を襲った家中の不安定
筒井順慶は、まだ幼い時期に筒井家を継ぎました。
誰が実権を握るのか。
どの家臣が主導権を取るのか。
幼君が立つ家は家中が不安定になるだけでなく、河内・山城・摂津・近江などとの繋がりが濃い大和は、周辺勢力が入り込みやすい地域でもあります。
要は、畿内の政局に強く影響される。
室町幕府、三好氏、松永久秀、足利義昭、織田信長。
大和の国衆たちは常に政治変動に巻き込まれてきており、順慶の前半生は「家中の派閥争いに巻き込まれた幼少期」だったことが金松氏の『筒井順慶』でも指摘されています。
順慶は、最初から安定した大名として登場したわけではありません。
幼い当主として家中をまとめ、周囲の敵に対応しなければならなかった。
そんな最悪のタイミングでやってきたのが松永久秀です。

松永久秀像(高槻市立しろあと歴史館蔵)/wikimedia commons
松永久秀に大和の中心から押し出され
松永久秀は、もともと大和の国衆ではありません。
畿内の実力者・三好長慶に仕え、家臣として頭角を現した人物であり、三好政権が大和へ影響力を伸ばすときに実行役となったのが久秀でした。
久秀が、満を持して大和へ侵出したのは永禄二年(1559年)のこと。
筒井順慶は、三好長慶と対立する河内の諸勢力と手を結んで対抗していましたが、そこへ送り込まれたのが久秀であり、筒井方の居城である筒井城は攻め落とされてしまいます。
順慶にとっては悪夢のような出来事です。
戦国武将にとって居城を奪われることは、単に住まいを失うという話にとどまりません。
支配の拠点であり、家の象徴であり、家臣や国衆を繋ぎ留めておくための重要拠点であり、筒井城を失った順慶は大和支配の中心から押し出されるほかない。
順慶にとって、さらに屈辱的だったのは、松永久秀が興福寺との関係にも踏み込んできたことでしょう。
久秀は、順慶に代わって自らを「官符衆徒の棟梁」に公認させたのです。
一言で言えば「大和武士たちの頂点に立つ資格を得た」ということであり、力ずくで奪ったとも言い切れません。
一応は興福寺側の承認は取れている。
しかし、順慶から見ればどうか。
筒井城を奪われるだけでなく、大和支配の正統性を支えていた興福寺との関係まで久秀に奪われ、家の存続そのもが問われる重大案件となりました。

興福寺五重塔
順慶から見た久秀は筒井家の正統性まで踏みにじろうとする憎き相手だったのです。
椿尾上城からの再起と辰市合戦
では筒井順慶は、久秀に一方的にやられ続けたのか?
というと、そうとは言い切れません。
居城の筒井城を失いいったんは山奥へ逃げ込むも、息を潜めるようなことはせず、椿尾上城(つばおかみじょう)を拠点に再起を画策。
大和の国衆をまとめながら反撃の機会を伺っていました。
チャンスが訪れたのは元亀二年(1571年)になってからのことです。
この頃すでに三好長慶の姿はなく、三好家自体が揺らぎ始めており、順慶は、久秀と敵対する三好三人衆とも結ぶなどしてチャンスを待ち続けていました。
そこで元亀二年(1571年)8月に訪れたのが「辰市合戦」です。
筒井順慶が辰市(奈良市)に築いた砦に、松永久秀・松永久通・三好義継らの軍勢が襲いかかってきたところ、これを返り討ちにして、久秀の甥や多数の重臣を討ち取り、死傷者約千名という大打撃を与えたのです。
順慶にとっては、久秀に奪われた立場を取り戻す大きな転機となりました。
しかし、すぐに大和全体を取り戻せるわけでもなく、松永久秀は依然として多聞山城を拠点とし、奈良市中の支配権や税の徴収権を保っていました。
辰市合戦は順慶の大勝利となるも、支配構造を引っくり返すほどではない。
それでも筒井家再興のキッカケとなりました。
信長はなぜ順慶に大和支配を任せたのか
筒井順慶と松永久秀の対立が難しいのは大和国内の両者だけでは完結しなかったことでしょう。
やがて足利義昭と織田信長の関係も絡んできます。
元亀年間に入ると、信長と義昭の関係は次第に悪化していきました。

足利義昭(左)と織田信長の肖像画/wikimedia commons
義昭が順慶を支え始め、久秀は大和支配の立場が揺らいでいく。
やがて順慶が政治的に浮上してくると、信長に取り入るようになり、大和の支配を認めてもらるようになっていきます。
これは久秀にとっては、到底受け入れがたい状況だったでしょう。
大河ドラマ『豊臣兄弟』でも竹中直人さん演じる久秀が「大和だけは譲れない」と主張しておりましたが、これまでの流れを見れば確かにそうなる。
久秀は、政治的にも外交的にも順慶に敗北したのです。
それにしても、なぜ筒井順慶は、そこまで織田信長に取り入ることができたのか?
順慶が織田軍として各地で活躍したこと、信長との間に姻戚関係を結んだこと、さらに大和国人の筆頭格として地元に精通していたことなどが評価されたと、金松氏は著書『筒井順慶』の中で指摘されています。
大和の安定的支配には、在地に基盤を持つ順慶のほうが都合がよい――信長がそう判断するのは合理的ですが、順慶を100%信頼して、大和を完全に任せたわけではなかったようです。
「知行宛行権」つまり順慶自らが家臣に領地を与える権限までは与えられなかったとされます。
あくまで織田政権の統制下に置かれた立場だったんですね。
それでも久秀にとっては許しがたい状況です
自身が長年こだわってきた大和で、宿敵の順慶が織田政権に公認されたのですから。
多聞山城の破却は久秀父子への屈辱だった
松永久秀を語るうえで、外せない城郭があります。
多聞山城です。
久秀が奈良に築いた重要拠点であり、同時に権威を示す城でもありました。

大和国多聞城諸国古城之図「浅野文庫」所蔵/wikimedia commons
しかし天正四年(1576年)、この精神的シンボルとも言える城が信長の命により破却へと追い込まれます。
久秀にとっては、大和で築いた自分の成果を全否定されるに等しい出来事だったことでしょう。
しかも解体作業の奉行に命じられたのが、息子の松永久通だったことです。
自分たちが築いた城を、自分たちの手で破壊しなければならない――屈辱の極みとも言える所業ですよね。
順慶が大和支配で浮上する一方、どんどん立場が弱まっていく中で、多聞山城まで失われる。
こうした積み重ねが、松永久秀の心理に強く作用しないわけがない。
天正五年(1577年)8月、松永久秀は再び信長に背き、信貴山城に籠もりました。
信貴山城の戦いで宿敵関係は終わる
「なぜ松永久秀は、またもや織田信長を裏切ったのか?」
梟雄だから、野心家だから、そんな単純な答えではな無いことがご理解いただけるでしょう。
順慶は当然、信長方として松永討伐軍に加わり、長年の宿敵を討つ側に回りました。
織田信忠を総大将とする織田軍は約4万ともされる大軍であり、松永軍は約8千で援軍に来てくれる味方の当てはない――信貴山城の戦いで久秀と久通父子は奮闘するも、戦いは数日間で終わり、10月10日に終了しました。
久秀の最期は「平蜘蛛の茶釜と共に爆死」という有名な逸話があります。
大河ドラマ『豊臣兄弟』でも少し変化を入れて採用されていました。

松永久秀が平蜘蛛を割る場面(月岡芳年)/wikipediaより引用
しかし、同時代史料である『多聞院日記』などには、松永久秀が切腹し、自ら火を放って焼死したとされる記述はありますが、茶釜を抱えて爆死とは記されていません。
やはり後世の軍記物などで広まった俗説でしょう。
松永久秀は、後世に「梟雄」として語られてきました。
しかし近年の研究では、そのイメージはかなり見直されています。
歴史学者の天野忠幸氏は『松永久秀と下剋上 室町の身分秩序を覆す』の中で、久秀を単なる裏切り者ではなく、三好氏や足利氏のもとで働いた官僚・武将として捉える視点を示しています。
「裏切り者だから裏切った」
そう考えれば話はわかりやすいですが、それでは戦国大和の複雑さは見えてきません。
久秀は大和支配に本気だった。
多聞山城を築き、興福寺との関係にも手を伸ばし、奈良市中を支配しようとした。
しかし、順慶から見れば大和の強奪であり、許しがたい行状であるがゆえに抵抗するしかない。
結果、両者は最後まで衝突し続け、順慶に軍配が上がったのでしょう。
二人の対立は「領地争い」だけではなかった
最後に整理しておきましょう。
大和国には、興福寺を中心とする独自の秩序があり、筒井氏は長年、宗教的・政治的な地位を築いてきました。
そこへ、三好政権を背景にした松永久秀が外から入ってきた。
久秀は筒井城を奪い、興福寺から官務として公認されることで大和支配の正統性にも手を伸ばしますが、それは順慶にとっては最大の屈辱。
家の立場、興福寺との関係、大和国衆としての誇りを脅かされる危機であり、ゆえに順慶は久秀と徹底的に争います。
久秀もまた、大和支配を譲れません。
そこで大きな変化が訪れたのが、永禄十一年(1568年)9月、織田信長の上洛でした。
当初は久秀を支持していた信長も、紆余曲折を経て順慶に大和支配を任せる方向へ傾き、久秀はどんどん追い込まれていきます。
結果、久秀は二度目の謀反を起こして滅びていったのです。
自爆ばかりにスポットライトが当てられ、忘れ去られがちな、宿敵同士の長い戦いが大和でずっと続いていたのでした。
参考文献
- 金松誠『筒井順慶 シリーズ・実像に迫る019』(2019年3月 戎光祥出版)
- 天野忠幸『松永久秀と下剋上 室町の身分秩序を覆す』(2018年 平凡社)
- 天野忠幸編『戦国武将列伝8 畿内編 下』(2023年 戎光祥出版)
- 太田牛一著・中川太古訳『現代語訳 信長公記』(2013年10月 新人物文庫)
【TOP画像】松永久秀と筒井順慶の肖像画/wikimedia commons
