慶長二十年(1615年)5月28日、片桐且元が亡くなりました。
大坂夏の陣で豊臣家が滅んでからわずか20日後のこと。
賤ヶ岳七本槍の一人としても知られる片桐且元は生粋の秀吉子飼いの家臣でありながら、最晩年は大坂城内で疑われ城を退くことになり、ついには大坂の陣が勃発してしまいます。
豊臣家の重臣でありながら、家康とも良好な関係を築いており、両家が交渉を続けるための最後の砦だったとも言えるでしょう。
そんな重要な立場にいた且元が、なぜ城を去らねばならなかったのか。
本当に裏切り者だったのか。

片桐且元の肖像画/wikimedia commons
片桐且元の生涯と共に振り返ってみましょう。
賤ヶ岳七本槍に選ばれて
片桐且元は、北近江の国衆出身。
父は片桐直貞で、天正元年(1573年)に秀吉が長浜城主になった頃に、弟の片桐貞隆と共に羽柴家臣団に入りました。
同じころ秀吉のもとには石田三成や脇坂安治など、後の豊臣政権を支える若者たちも集まっています。
大河ドラマ『豊臣兄弟』では、まさに片桐且元のそうした様子が描かれていましたね。
しかし且元の名が有名になるのは、そこから少し時間が経過してから、天正11年(1583年)のことでした。
秀吉が柴田勝家と真正面から衝突した「賤ヶ岳の戦い」で活躍。

柴田勝家と豊臣秀吉の肖像画/wikimedia commons
以下のメンバーらと共に「賤ヶ岳七本槍」の一人に選ばれています。
◆賤ヶ岳七本槍
・加藤清正
・福島正則
・加藤嘉明
・脇坂安治
・平野長泰
・糟屋武則
・片桐且元
七本槍というと、いかにも「槍働きの勇将」という印象を受けますが、且元の本領は武勇だけではありません。
兵糧や物資の手配、普請、寺社造営など、政権運営の現場でも頼りとされた人物であり、だからこそ秀吉没後の豊臣家でも重く用いられたのでしょう。
その代表例が「方広寺大仏殿」の普請奉行です。
豊臣家にとっては秀吉以来の大事業であり、残念ながらこの方広寺が後の「大坂の陣」へ繋がる火種となってしまいます。
豊臣家老であり幕府国奉行でもあった且元
大坂の陣を遡ること14年の慶長五年(1600年)9月、美濃で「関ヶ原の戦い」が勃発。
徳川家康が勝利した後も豊臣秀頼は大坂城に残りました。
そもそも関ヶ原の戦いとは、豊臣政権の中で起きた徳川家康と石田三成らの対立であり、単純な徳川家vs豊臣家の戦いではありません。
家康はあくまで秀頼の家臣。
そうした豊臣政権の権限を徐々に取り込みながら、徳川政権への移行を進めたのであり、直接的な契機となったのが征夷大将軍の継承でした。
家康は、慶長八年(1603年)に征夷大将軍に就任すると、2年後の慶長十年(1605年)には早くも徳川秀忠へ将軍職の座を譲り、徳川家の世襲を広く示したのです。
武家としての豊臣家は、もう詰んだようなもの。
そんな豊臣家を懐柔するため、家康は孫の千姫を秀頼に輿入れさせます。
秀頼は朝廷から高位を受けており、武家の棟梁としての徳川と、大坂城に残る豊臣という、なかなか危ういバランス状態が続いていました。

豊臣秀頼/wikipediaより引用
その間に立たされたのが、他ならぬ片桐且元です。
且元は豊臣秀頼を支える家老であり、秀頼の養育係や後見的な立場でもありました。
同時に、摂津・河内・和泉の三カ国を管理する奉行として徳川幕府の実務にも組み込まれていたとされ、両家がうまくいっている間は“橋渡し役”として重宝されます。
しかし、いざ両者の関係が悪化した瞬間、この立場は一気に危うくなるのはご想像がおつきでしょう。
豊臣方からは「家康と近すぎるのではないか」と疑われ、徳川方からは「大坂をきちんと説得できるのか」と責任を問われる。
どちらからも厳しい目で見られる、非常に辛い立場となるのです。
方広寺鐘銘事件で且元は駿府へ向かった
慶長十九年(1614年)、方広寺鐘銘事件が起きます。
方広寺の梵鐘に刻まれた銘文「国家安康」「君臣豊楽」に対し、徳川方からクレームが入ったというものですね。
果たしてこれは単なる言いがかりだったのか?

方広寺鐘銘 「国家安康」「君臣豊楽」/wikipediaより引用
「国家安康」は家康の名を分断し、「君臣豊楽」は豊臣を君として楽しむ。
かつては「徳川の言いがかり」という見方もありましたが、当時の呪詛や名前の取り扱いは軽い問題ではなく、豊臣方も確信犯で入れた文言だという指摘もあります。
当時の寿命を考えれば、長寿の家康も先がありませんから、豊臣を危険視するようになった可能性は否めないでしょう。
ただし、この時点で豊臣家を滅亡させる気があったかどうか、そこは不明です。
確かなのは、方広寺鐘銘事件が豊臣と徳川の緊張を一気に高めたということであり、危機を回避すべく、大坂から駿府へ向かったのが片桐且元でした。
方広寺大仏殿の普請奉行でもあり、豊臣家の重臣として徳川との交渉経験もある。
弁明役としては確かに適任でしたが、とにかく苦しい“お題”が課されます。
家康は、具体的な条件を明示せず、「徳川に敵意がない証しを見せろ」として、その方法を且元の判断に委ねたのです。
いったい何をどうすれば……?
且元は、家康の望みを感じ取り、大坂へ戻って豊臣家には受け入れがたい提案をしなければならない。
具体的には、豊臣秀頼を大坂城から退去させ、石高の低い一大名へ格下げさせることでしょう。
徳川に反抗せず、挙兵など望まない状況を証明するには、戦力と経済力を自ら放棄するしかありません。
且元は、こんな無謀な条件を淀殿たちに提示しなければならなくなったのです。

淀殿(茶々)/wikipediaより引用
大蔵卿局への厚遇が、且元への疑念を深めた
方広寺鐘銘事件の解決を巡りましては、片桐且元以外にもう一人の重要人物がいました。
大坂城の大蔵卿局です。
淀殿の乳母であり、大野治長の母でもある――大蔵卿局は城中で大きな影響力を持つ女性であり、彼女もまた駿府の徳川家康を訪ねたのです。
家康の対応は、且元と大蔵卿局で異なりました。
且元には具体的な条件を出さず、厳しい判断を強いる一方、大蔵卿局は手厚く接し「秀頼に対する敵意などない」という好意的な態度を見せたとされます。
家康が、何を正確に狙っていたかはわかりません。
しかし、ここでの食い違いは大坂城内に大きな混乱をもたらして当然でしょう。
大蔵卿局が「家康様はご機嫌だった」という報告をする一方、且元は「徳川に敵意がない証しを示さねばならない」として厳しい妥協案を提案したのです。

絵・小久ヒロ
大蔵卿局には優しく、且元には厳しい、家康の態度の違い。
これは一体どうしたことか?
もしかしたら且元は自己保身のため、わざと徳川方に有利な条件を示し、自分だけ優遇してもらおうという腹積もりでは?
そんな疑念が生まれても何ら不思議ではないでしょう。
家康が、且元と大蔵卿局を異なる形で扱ったことにより、大坂城内には大きな疑念と不和が生じたのですが、その背景には家康の巧みな使い分けが影響していたのですね。
二つの妥協案が大坂城を怒らせて
大坂へ戻った片桐且元は、実際にどんな案を提示したのか?
その後も家康から具体的な要請がない以上、自らの頭で「徳川に敵意がない証し」を考えねばなりません。
苦肉の策として捻り出したのが、以下の二案です。
・秀頼あるいは淀殿が江戸に在府すること
・秀頼が大坂城を出て他国へ移ること
片方が人質となり、大坂城という超巨大城郭から本拠地を移動させるならば、力は一気に削がれ、反乱リスクは激減するでしょう。すなわち家康にも認められるはずです。

徳川家康/wikimedia commons
しかし大坂城中の人々にとって、豊臣家はただの一大名ではありません。
秀頼は天下人・豊臣秀吉の子であり、淀殿はその母です。
そんな豊臣家のシンボルである大坂城を退去して、秀頼あるいは淀殿が江戸へ行って人質生活を送るなど、とても受け入れられる話ではありませんでした。
しかも大蔵卿局と片桐且元の言い分が食い違っていて、とにかく納得できるはずがない。
結局、且元案は、戦を避けるための現実的な妥協案でしたが、大坂城中では裏切りのように映ってしまったのです。
片桐且元にとっては不運というしかありません。
片桐且元は本当に裏切り者だったのか
もはや豊臣家の中で交渉役を続けることは難しい。
そう判断した片桐且元は、慶長十九年(1614年)10月、弟の片桐貞隆と共に大坂城を退き、貞隆の居城である茨木城へ向かいました。

片桐且元(大坂城を離れる且元とそれを引き留める木村重成)
無念だったでしょう。
豊臣家を存続させる道を探って家康と交渉を行ったのに、あろうことか裏切り者呼ばわりされて、城を出なければならなくなったのです。
豊臣家と徳川家の交渉人が消えた――。
この時点で家康は、穏便に済ませる方策が尽きたことを悟ったでしょう。
同年冬に大坂冬の陣が始まり、翌年慶長二十年(1615年)5月8日、大坂夏の陣で秀頼も淀殿も大蔵卿局も、全員が死を迎えたとされます。
片桐且元は徳川方として生き残り、大和国竜田に陣屋を置き、後の竜田藩の基礎を築きました。
しかしその時間は長くありません。
豊臣家滅亡からわずか20日後の慶長二十年(1615年)5月28日、且元は病により世を去ったのです。
なお、秀頼と淀殿については別記事「豊臣秀頼の生涯」「淀殿の生涯」をご覧ください。
参考文献
- 『国史大辞典』(吉川弘文館)
- 峰岸純夫・片桐昭彦編『戦国武将合戦事典』(2005年 吉川弘文館)
- 歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(2009年 学習研究社)
- 滝沢弘康『秀吉家臣団の内幕 天下人をめぐる群像劇』(2013年 SBクリエイティブ)
- 藤井讓治『天下人の時代 日本近世の歴史』(2011年 吉川弘文館)
- 藤井讓治編『織豊期主要人物居所集成〔中編〕』所収 藤田恒春「片桐且元の居所と行動」
【TOP画像】片桐且元の肖像画/wikimedia commons
