1599年7月11日(慶長四年5月19日)は、長宗我部元親の命日です。
大河ドラマ『豊臣兄弟』でも注目される元親は、土佐の一国衆から身を起こし、四国統一目前まで勢力を広げた戦国大名でした。
しかし、その前に立ちはだかったのが織田信長と羽柴秀吉です。
信長による四国政策の転換、本能寺の変、秀吉の四国征伐、そして戸次川の戦いにおける嫡男・信親の死――。
かつて「姫若子」と呼ばれた若者は、いかにして「土佐の出来人」となり、なぜ四国制覇を目前にしながら挫折したのか。

長宗我部元親/wikipediaより引用
本記事で、その生涯を辿ってみましょう。
姫若子と呼ばれた少年時代
長宗我部元親は天文八年(1539年)、土佐国長岡郡岡豊城で、長宗我部国親の長子として生まれました。
当時の土佐は、いわゆる「土佐七雄」と呼ばれる国衆たちが割拠する状態。
長宗我部家はその中でも三千貫程度の所領しかない最小クラスの存在であり、元親の祖父・長宗我部兼序(かねつぐ)の代には周辺豪族に本拠の岡豊城を落とされ、一族は一条家を頼って落ち延びる屈辱も味わっています。
若き日の元親は、背が高く色白で物静か、必要な時以外はほとんど口をきかず、日夜屋敷の奥にこもっていたため、「姫若子」と呼ばれて陰口を叩かれていたと伝えられます。
長宗我部家の後継ぎとしては頼りないと見られていたわけです。
姫若子が「土佐の出来人」に
織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った同じ頃の永禄三年(1560年)5月。
長宗我部家は宿敵・本山氏と長浜の地で激突し、その緒戦「長浜戸ノ本の戦い」で長宗我部元親は初陣を果たします。
このとき22歳。
武家生まれの若者なのに「槍の使い方すら知らなかった」ともされる元親は、この戦いで自ら槍を取って奮戦し、本山勢を退けます。
おかげで周囲の評価は一変し、以降は「土佐の出来人」と仰がれるようになったと伝わります。
そしてこのころ父の国親が病没し、元親が家督を継ぐこととなりました。
研究者の津野倫明氏は、著書『長宗我部元親と四国』のなかで、この「姫若子」という異名は元親の容姿が女性的だったという意味ではなく、物静かで慎重な人物だったのでは?と指摘されています。
だとすれば、物静かな青年が初陣でいきなり槍を振るって奮戦したというギャップも働き、家臣たちを心服させたのでしょう。
土佐統一
姫若子から一国の当主へ。
長宗我部元親は四国進出への道を、本格的に歩み始めます。
家督を継いだ後も本山氏との戦いを継続させ、永禄六年(1563年)には朝倉城を奪取。
永禄十一年(1568年)頃までに本山父子を服属させました。
並行して東の安芸国虎とも争い、永禄十二年(1569年)に滅ぼします。
さらに幡多郡の名門・一条氏(元親自身の岳父筋)とも対立すると「渡川(四万十川)の戦い」で撃破しました。
かなり駆け足での説明となりましたが、元親は天正三年(1575年)頃までに土佐一国をほぼ統一したのです。
織田信長も、家督継承から尾張統一までに約14年を要しましたが、
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元親もほぼ同じ期間で成し遂げたのですね。
阿波進出と織田政権への接近
土佐を固めた長宗我部元親は、そのまま阿波・讃岐・伊予へと矛先を向けていきます。
いよいよ四国制覇へ――と見えますが、実情はそこまで大仰なものではありません。
隣国の阿波・三好家との境界紛争が拡大し、合戦が避けがたい状況となっていたのです。

そんな阿波への侵攻は天正五年(1577年)頃から本格化。
同時に元親は、当時、急速に勢力を広げていた織田信長に対して従属的な姿勢を取り始めました。
嫡男・弥三郎が信長から「信」の字を与えられ「信親」を名乗るようになったのもこの時期とされます。
史料により天正三年(1575年)とも天正六年(1578年)ともされ、確定はしていませんが、いずれにせよ織田政権の威光を利用した外交戦略と言えるでしょう。
織田家の権威を後ろ盾にしながら、自らの手柄として阿波を切り取る。
同時に讃岐・伊予にも勢力を伸ばします。
讃岐では天正七年(1579年)、西讃岐の実力者・香川信景と同盟を締結。
次男の長宗我部親和(ちかかず)を養子として送り込み、これを足がかりに東へ進軍しました。
伊予でも天正九年(1581年)、東予の金子元宅(かねこ もといえ)と同盟を結び、中予の河野氏、南予の西園寺氏らと攻防を繰り広げます。
それまでに伊予では、重臣の久武親信が戦死するなど、犠牲も少なくありませんでした。
こうして天正十年(1582年)前後、元親は土佐を拠点に、阿波・讃岐・伊予という四国各地に足がかりを築いていたのです。
しかし、ここで長宗我部家に激震が走ります。
天正十年(1582年)正月、織田信長が元親に対して伊予や讃岐の返上、ならびに阿波支配の制限を求めてきたのです。

織田信長/wikimedia commons
信長は、すでに阿波・讃岐で三好康長を起用する方針に変えていたのですが、元親にとっては到底受け入れがたい命令でした。
織田信孝による四国征討軍
織田信長の要求に対し、元親は「四国は私自身の手柄で切り取ったものだ」として突っぱねました。
信長は四国への出兵を決定。
三男・織田信孝と重臣・丹羽長秀らに討伐軍を編成させます。

織田信孝(左)と丹羽長秀/wikipediaより引用
興味深いのは、その直後の元親の動きでしょう。
織田軍の渡海直前になって元親は、明智光秀の家臣・斎藤利三に宛て
「城は明け渡します」
という恭順の姿勢を示す書状を送っているのです。
しかし研究者の平井上総は、著書『長宗我部元親・盛親』のなかで、この恭順表明と同時期に元親が讃岐国内で家臣に新たな土地を与えていた事実に着目しています。
元親は、表向き従うふりをしながら、交渉決裂の場合に備え、渡海してくる織田信孝勢の退路を断って撃破するプランも密かに立てていたのではないか、と推測しているのです。
降伏と抗戦、両にらみの戦略を隠し持っていた可能性があるというわけですね。
しかし、そこで思いもよらない大事件が勃発します。
天正十年(1582年)6月2日、本能寺の変が起きて織田信長が横死したため、四国征討軍の上陸が無くなったのです。
九死に一生を得た元親は、その後、どう動いたのか?
中富川の戦いと阿波の制圧
この機を逃す手はありません。
長宗我部元親は同年8月28日、2万3千の軍を率いて阿波へ侵攻。
吉野川支流の中富川で三好方の十河存保(そごう まさやす)軍と激突し、これを撃破しました(中富川の戦い)。
さらには居城の勝瑞城を包囲・開城させ、天正十年(1582年)末までに阿波の主要部をおおよそ制圧します。
ただし、阿波東端の土佐泊城は最後まで攻略できていません。
阿波と並行して、元親は讃岐・伊予にも勢力を伸ばしました。
讃岐では、前述のとおり香川信景のもとへ次男の長宗我部親和を養子に送るなどして、勢力を確保。
これまた前述のとおり、伊予でも東予の金子元宅と同盟を結び、中予の河野氏、南予の西園寺氏らと攻防を繰り広げます。
天正十二年(1584年)には讃岐の十河城を落とすなどして攻勢を強めますが、十河存保が籠る虎丸城、阿波の土佐泊城、伊予方面の諸勢力は最後まで完全には制圧できませんでした。
それでも同年中に、阿波・讃岐のほぼ全域と伊予の一部を手中に収め、四国統一の目前まで支配域は拡大させています。
土佐の一国衆から数え、約20年でここまで登り詰めたのです。
問題は、その後に台頭してきたのが羽柴秀吉だったことでしょう。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
秀吉の四国征伐
同じ天正十二年(1584年)になると、織田政権内では羽柴秀吉が大きく台頭し、主君筋である織田信雄と、それを支持する徳川家康とも対立するようになりました。
元親はそこでどう出たか?
というと、織田信雄・徳川家康方に与する立場を取ります。
要は秀吉と対立関係に入ったわけです。秀吉は当初、元親の「四国切り取り」を認める姿勢も見せていましたが、この対立により長宗我部攻撃の方針を固めます。
そして天正十三年(1585年)、秀吉は弟の羽柴秀長(のち豊臣秀長)を総大将とする本隊のほか、

羽柴秀長(のち豊臣秀長)/wikimedia commons
宇喜多秀家、小早川隆景勢など総勢10万を超える大軍を編成。
阿波・讃岐・伊予の三方面から同時に長宗我部領へ侵攻させました。
元親も、当然、各地で抗戦します。
しかし多勢に無勢で劣勢は否めず、一宮城・木津城などでの攻防の末、秀長の勧告を受けて降伏を決断しました。
結果、阿波には蜂須賀家政、讃岐には仙石秀久、伊予方面には小早川隆景らが配置。
天正十三年(1585年)8月、長宗我部家は土佐一国のみを安堵される状況になってしまうのです。
四国のほぼ全域を手中にしかけていた元親の覇業は、ここで大きく後退しました。
信親の死により崩れゆく晩年
秀吉配下の一大名となった長宗我部元親は、以後は他の大名同様に軍事動員される立場となります。
天正十四年(1586年)12月、九州の島津氏と戦うため、豊後へ出陣し「戸次川の戦い」に参戦しました。
嫡男の長宗我部信親と共に出陣した長宗我部元親は、渡河しての決戦を主張する仙石秀久に反対します。危険すぎる戦術だったからです。

仙石秀久/wikimedia commons
しかし、仙石秀久の強硬な主張に押し切られ、結果は、島津に大敗。
中津留川原で踏みとどまって奮戦していた信親が討ち死にしてしまいました。
元親も自刃を考えましたが家臣に押しとどめられ、わずかな手勢で伊予へ落ち延びます。
かつて信長から「信」の字を与えられ、知勇兼備の将として期待されていた息子を失い、元親は計り知れない打撃を受けました。
研究者の朝倉慶景は『長宗我部元親のすべて』「土佐一条氏の動向」のなかで、信親への期待が大きかっただけにこの打撃も大きく、その後、元親は性格が激変してしまったと指摘しています。
実際に次男の香川五郎次郎や三男の津野親忠を差し置いて誰を跡継ぎにするか定まらず、家中は動揺。
最終的に四男・長宗我部盛親を後継者としますが、この過程で反対した甥の吉良親実らに切腹を命じるなど、粛清のような悲劇も起きるほど。
信親の死を境に、元親は以前のような輝きが一気に失せてしまったとされます。
晩年、そして死
天正十五年(1587年)から土佐では太閤検地を始め、その成果は『長宗我部地検帳』としてまとめられました。
また文禄元年(1592年)からの「文禄・慶長の役」にも自ら渡海して従軍。
信親の死から立ち直ることができたのか。
それとも辛さから逃れるためか。
今となっては元親の心情をはかることはできませんが、豊臣大名としてきちんと領国の支配体制を整えてはいます。
慶長二年(1597年)までには、土佐統治の総決算ともいえる分国法『長宗我部氏掟書』、通称『長宗我部元親百箇条』も制定するに至りました。
姫若子と呼ばれた青年が初陣で変貌し、土佐の一国衆から四国統一目前まで登り詰め、信長・秀吉という二人の天下人と渡り合い、そして最愛の跡継ぎを失いながらも豊臣政権下の大名として生き抜いた。

長宗我部元親像
そんな土佐の出来人である元親は、慶長四年(1599年)5月、伏見の屋敷で61年の生涯に幕を下ろしました。
なお、元親の跡を継いだ長宗我部盛親の奮闘っぷりについては、以下の関連記事を併せてご覧ください。
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長宗我部盛親の生涯|不運の続いた元親の四男 関ヶ原後の改易から大坂の陣へ
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参考文献
- 津野倫明『長宗我部元親と四国』(2014年5月 吉川弘文館)
- 平井上総『長宗我部元親・盛親 四国一篇に切随へ、恣に威勢を振ふ』(2016年8月 ミネルヴァ書房)
- 山本大 編『長宗我部元親のすべて』(1989年8月 KADOKAWA)
- 山本大『長宗我部元親 その謎と生涯』(2010年5月 KADOKAWA)


