天正十年(1582年)6月2日に本能寺の変が勃発。
一報を聞いた羽柴秀吉は急いで毛利との和睦を結び、備中高松城から約190km離れた尼崎城まで急行すると、弟の秀長と再会を果たします。
果たして明智光秀とはどう対峙するのか?
大河ドラマ『豊臣兄弟』第29回放送は、秀吉が主君筋である織田信孝を総大将として軍議に臨むシーンからスタート。
なぜ、山崎が戦場となったの?
光秀はどんな最期を迎えたの?
と、ドラマで気になるシーンを史実面から確認しながら振り返ってみましょう!
山崎の戦い→最期の茶会→与一郎の死
まずはサックリと今回の流れを確認しておきますね。
注目は以下の3点。
・光秀率いる明智軍に対し、織田信孝を総大将とした織田軍が山崎で激突
・光秀の最期は秀吉と茶会
・与一郎の死
勝龍寺城を防衛城の拠点として、山崎に布陣した明智軍。
「信長の代わりなどいない」
そんな余裕のある光秀に対し、織田方は、信長の三男・織田信孝を総大将として、山崎で軍議を開いておりました。

羽柴秀長と黒田官兵衛の献策により、一時は光秀をジワジワ追い詰める作戦が採用されます。
しかし、信長次男の織田信雄から書状が届くと、対抗心バリバリの信孝はすぐに総攻撃を命令!
いざ合戦が始まると、いまいちよくわからない状況となっていきます。明智光秀がずっと余裕綽々な態度なので、どちらが優勢なのか、よくわからない合戦になってまして。
気がついたら敗色濃厚になった光秀が竹林を進み、待ち伏せしていた石田三成に捕まり、秀吉と茶会をしておりました……って、なんじゃこの驚きの展開!
ということで、ドラマの内容を史実面から振り返ってみましょう。
なぜ山崎の地が戦場となった?
なぜ明智光秀は山崎周辺へ兵を進めたのか?
これはもうドラマ通り、西国方面から迫りくる織田軍を食い止めるためでしょう。
山崎は天王山と淀川に挟まれ、西国街道が通る京都盆地西側の入り口。
大軍が通れる経路が限られていて、主に織田軍を防ぐ場所として先手の明智軍は有利なポジションを取れるところにありました。

「山崎合戦之地」の石碑(天王山/京都府乙訓郡大山崎町)
光秀は山崎だけでなく、八幡や淀周辺にも兵を配置しながら、京都へ通じる複数の経路を警戒していたされます。
ただし、光秀が最初から山崎を最適な決戦場として選び抜いていたのか、その点は疑問。
想定よりもかなり早かったであろう羽柴軍の進軍を受け、やむなく防衛線を敷いた可能性も十分に考えられます。
そこで浮かび上がってくるのが勝龍寺城です。
勝龍寺城はどんな城?
勝龍寺城は、山崎の戦い以前から光秀方の軍事拠点として利用され、敗戦後には光秀の退却先にもなりました。
合戦当日の光秀は、同城から前線へ出て御坊塚(おんぼうづか)に陣を置き、秀吉方を迎え撃ったと考えられています。
御坊塚は古墳群にあって、各種の史料にも登場。
近年注目されている『乙夜之書物(いつやのかきもの)』にも記述され、長岡京市のレポートにも詳細があります。
しかし、光秀は結局敗戦。
いったんは勝龍寺城へ退きましたが籠城はせず、夜間に少数の家臣と共に城を脱出したと考えられています。
勝龍寺城は、合戦前後を通じて明智軍の重要拠点でした。
序盤は明智軍が優勢だった?
ドラマでは、高山右近と中川清秀の部隊が明智軍の誘いに乗り、苦戦を強いられたと説明されていました。
他の作品や軍記物でも、斎藤利三らの猛攻を受け、序盤は秀吉方が苦しめたと描かれがち。
しかし、合戦後に出した秀吉の書状には「明智軍をすぐに崩した」と記され、公家の日記でも短時間で明智方が敗れたことを思わせる記述があります。
史実面からすると、短時間で明智軍が敗れたというのが正解かもしれません。
ただし、秀吉の書状はあくまで勝者の戦果報告です。
勝ったほうはいくらでも盛ることができる。
実際、宣教師ルイス・フロイスの記録では、高山右近が先に明智軍と衝突し、その後に中川清秀や池田恒興らの軍勢が加わって、明智軍が崩れていった様子が記されています。
開始直後の前線で、たがいに競り合った可能性は否定できないんですね。
しかし、ドラマを見ていて驚いたのは、この戦いが始まったとき、豊臣兄弟が全く別らしき場所にいたことかもしれません。
何やら寺のような場所で兄弟トーク。

本作は、いざ戦闘が始まっても首脳陣が離れたところで話し込むシーンが目立ちますが、今回ばかりはさすがに戦場にいるべきでは……。
しかも、内容がくだらないんですよ。
「信長様を死なせてしまった……」
そう落ち込む兄の秀吉を、弟の秀長が慰める……って、何度も言いますように、この2人は劇中で45才ぐらいですからね!
悲しむのは後にして、なぜ目の前の大事(明智軍との合戦)に立ち向かえないのか。戦場を俯瞰して、本当にこの配置で勝てるのか?とか、そういったことで頭を抱えてくれよ~!
今週も、2人がまったく成長していない。
安西先生を登場させたくなるぐらい成長していない。
天王山が戦いを制した?
天王山を制する者が天下を制す――。
勝敗を分ける分岐点として有名な「天王山」は、この山崎の戦いを元にした話ですが、果たして史実ではどうだったのか?
実際は『太閤記』などの物語で広まった可能性が指摘されています。
同時代の史料では確認できない、要はフィクションということで『豊臣兄弟』でも注目されませんでしたね。
ただし、天王山が実際の戦場と無関係だったわけではなく、秀吉の書状から羽柴秀長や黒田官兵衛らが“山の手を進んだ”ということは確認できます。

黒田官兵衛と豊臣秀長の肖像画/wikimedia commons
つまりは山側にいた者が勝ったという結果論であり、天王山の奪い合いが勝負を分けたというわけではないんですね。
実際の戦闘は、西国街道や淀川沿いを含む山崎周辺の平地と山麓で行われたと考えられています。
二人の別働隊が明智軍の側面へ回り込み、劣勢だった戦況を劇的に逆転させたとまで具体的に確認できるわけではありません。
ドラマでは、池田隊の参加もあり、徐々に形勢逆転していったと描かれましたね。
ちなみに両軍にどれだけの兵力差があったのか?
という点について、正確には記されていません。
『太閤記』などの軍記物では秀吉約4万、明智約1万5000などとされていますが誇張が含まれる可能性は否定できず、別の研究では秀吉約2万数千、明智約1万数千と、推計には幅があります。
ただし、織田軍は高山右近、中川清秀、池田恒興、織田信孝、丹羽長秀らの軍勢がいて、明智軍は、細川藤孝や筒井順慶らの協力を得られておらず。
最初から織田軍が優勢だったのは間違いないでしょう。
となると、なぜ光秀は決戦に及んだのか?ドラマで描かれたように「信長が不在だからって明智軍に勝算はあったのか?」という疑問も湧いてくると思われます。
明智光秀の敗因
明智光秀が勝てる見込みはあったのか?
光秀は細川藤孝や筒井順慶ら畿内の有力者にそっぽを向かれ、兵力はほとんど増強されず。
一方の織田軍は、信長の三男である織田信孝が総大将であり、戦意や名目はバッチリだけに数多の諸将が加わり、戦力も充実していました。

織田信孝(神戸信孝像)/wikipediaより引用
光秀は本能寺の変後、京都や近江の掌握、朝廷への働きかけ、諸将の調略などを同時に進めておかねばならず、合戦に向けて十分な体制が整っていたとは言えません。
山崎の地形を利用して織田軍を食い止めようにも、すべてにおいて不利な状況でした。
もちろん、合戦というのは何が起きるかわかりません。
特に織田軍は「桶狭間の戦い」も経験する一方、浅井長政に裏切られたり、一向一揆に苦しめられるなどのピンチを何度も経験しており、最初から光秀の負けが決まっていたとは言い切れないでしょう。
ただし、土壇場で兵力の少ない軍が逆転勝利するには、高い士気が必要。
劇中の光秀は「信長の代わりはいない」と言っていましたが、その信長の「仇を取る!」という名目で、織田軍のほうがテンション高くなるのは明白なはずなんですよね。
光秀は坂本城を目指した?
山崎の戦いに敗れた光秀は、いったん勝龍寺城へ退きました。
しかし、そこで長期間籠城することはせず、夜間に少数の家臣を伴って城を脱出。
同行者については、溝尾庄兵衛ら数人だったとする軍記物の記述もありますが、正確な人数や顔ぶれは確定できません。
光秀は勝龍寺城から伏見・小栗栖・山科方面を経て、自らの本拠地である坂本城を目指したと考えられています。
ドラマでもそう描かれていましたね。
敵の追撃や検問を避けるため、主要街道ではなく、田の畔や藪、細い道を進んだとする記述もあり、実際どうだった可能性は高いでしょう。
しかし、具体的な道は不明。
その途中の山科・小栗栖周辺で命を落としたという話が伝わっています。
光秀は村人の竹槍で殺された?
勝龍寺城から坂本城までは20数キロ。
騎馬なら余裕のある移動距離であり、徒歩でも一日かければ到着できる。
しかし実際は、そう単純な話ではありません。
敗軍の将に対しては、羽柴軍による追撃や検問が実施されるだけでなく、周辺の農村では落ち武者狩りが行われ、金目のものだけでなく命まで奪われてしまいます。
当時の庶民は、か弱い存在ではありません。
彼らは、近隣の敵対する農村や、攻め込んでくる賊を相手に普段から戦い慣れており、例えば本作で直が死んだのも、村人の水争いに巻き込まれたのが原因でしたね。

実際、山科や醍醐周辺では、敗走する明智兵が襲われていたことが『兼見卿記』でも記されていて、村人たちはここぞとばかりに襲いかかったのでしょう。
そんな状況で明智光秀が坂本城まで逃げることなどできるのか?
答えは否。
同時代の日記である『多聞院日記』では、光秀が山科周辺で殺害されたとする内容が記されています。
少し後に成立した『太田牛一旧記』では、小栗栖辺りで竹槍のような武器に突かれ、しばらく進んだ後に絶命と記述。
一方、後世の『明智軍記』では、致命傷を負った光秀が家臣の溝尾庄兵衛に介錯を命じ、自らの首を刎ねさせたと描かれます。
武士らしく描くため、介錯したと盛られた可能性が考えられますね。
実際は、山科・小栗栖周辺の村人に襲われて死亡したのが現実なのでしょう。
と、その前に、ドラマでは石田三成らが光秀を捕縛して、秀吉と茶室で話したことが描かれましたね。

なかなか荒唐無稽な展開ではありましたが、それを見てふと気になりました。
秀吉と光秀が、過去に同じ茶会で席を共にしたことはあったのか?
秀吉と光秀の茶会
明智光秀と秀吉が茶会で同席した記録、実は存在します。
天正六年(1578年)正月一日、織田信長が安土で開いた茶会に両名が招かれていたことが『信長公記』に記されているのです。
このときの信長は、諸国の大名や武将たちから新年の挨拶を受けるのに先立ち、主立った家臣12人を呼び寄せ朝の茶会(茶の湯)を催しました。
お茶を点てる役の茶頭(さどう/さじゅう)は松井友閑(ゆうかん)。
同席したメンバーは、信長の嫡男・織田信忠をはじめ、武井夕庵、林秀貞、滝川一益、細川藤孝(当時は長岡藤孝)、明智光秀、荒木村重、長谷川与次郎、羽柴秀吉、丹羽長秀、市橋長利、長谷川宗仁となっています。
信長は、天下の名物を用いて重臣たちをもてなしました。
ドラマでも、この茶会のシーンが事前に盛り込まれていれば、光秀の最期を前にして視聴者も色々な想い出が蘇ってきたかもしれません。
林秀貞や藤孝、あるいは村重まで参加してますしね。
しかし秀吉と光秀の最期の茶会で明かされたのは、光秀が慕っていたのは足利義昭だったということでした。

確かに、あの義昭は、なんだか魅力のある人物でしたよね。
ならばなぜ光秀は、もっと前の段階で織田家を出奔し、義昭のいる鞆(とも)へ向かわなかったのか。
「もう面倒には関わりたくない」と義昭から拒絶されたのであれば、なおさら本能寺の変を起こす理由が不明。うーん、どういうこっちゃ?
最期までモヤモヤが残る光秀像でした。
なお、山崎の戦いの詳細については、以下の記事をご覧いただければ幸いです。
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山崎の戦い|秀吉と光秀が正面から激突!勝敗のポイントは本当に天王山だった?
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参考文献
- 福島克彦『明智光秀――織田政権の司令塔』(2020年12月 中央公論新社)
- 柴裕之編『明智光秀 織豊大名の研究』(2019年5月 戎光祥出版)
- 柴裕之編『図説 明智光秀』(2018年12月 戎光祥出版)
- 洋泉社編集部編『ここまでわかった 本能寺の変と明智光秀』(2016年10月 洋泉社)
- 太田牛一著/中川太古訳『地図と読む 現代語訳 信長公記』(2019年9月 KADOKAWA)
- 柴裕之編著『図説 豊臣秀吉』(2020年 戎光祥出版)
- 藤井讓治編『織豊期主要人物居所集成【増補第3版】』(2024年10月 思文閣出版)
