織田信長の葬儀が二度も行われたのは、果たして史実だったのか?
大河ドラマ『豊臣兄弟』をご覧になり、そんな疑問を持たれた方は少なくないでしょう。
お市の方が妙心寺で法要を開いたかと思ったら、秀吉は大徳寺で大々的な葬儀を執り行う。
敵愾心を剥き出しにしたあまりにも露骨で生々しい行動であり、さすがにそこまでやらないのでは?とも思いたくなりますが、実際はどうだったのか。
信長の葬儀を振り返ってみましょう。
最初に供養したのは秀吉でもお市でもなく
天正十年(1582年)6月2日に本能寺の変が起き、清須会議で新たな織田体制が決められたのが6月27日のこと。
その後、最初に信長の供養を行ったのは、実はお市の方でも秀吉でもありません。
池田恒興の実母・養徳院です。
なぜ恒興の母が?
と言いますと、彼女が信長の乳母だったからでしょう。

養徳院(池田恒興の母)/wikipediaより引用
本能寺の変から2ヶ月半後の8月18日、養徳院が妙心寺で法華経を書写して冥福を祈っていたことが、楠戸義昭氏の著書『激闘!賤ヶ岳』の中で取り上げられています。
清須会議で四宿老の一人に数えられ、秀吉に味方した恒興の実家が、いち早く動いていたんですね。
もっとも、これは個人の追善供養であり、政治的な要素はそこまで濃くない。
彼女が本心から行ったものでしょう。
問題は、その翌月です。
秀吉より先に動いたお市
天正十年(1582年)9月11日、北庄城にいたお市の方が京都まで出てきました。
そして妙心寺で、信長の「百箇日法要(卒哭忌)」を執り行います。

お市の方/wikimedia commons
兄を弔う妹。
普通の家族であればそんな美談にも見えるかもしれませんが、事は織田家の新体制に関わる極めて政治的な話です。
お市の方の意志もあったでしょうが、それ以上に夫の柴田勝家や甥の織田信孝を含む政治的な意味も帯びていたと見るべきでしょう。
百箇日法要を営む自分たちこそが信長の正当な後継者である――。
この法要は、勝家・信孝・お市の方陣営による「我々が本流である」宣言に他なりませんでした。
秀吉は、同席していません。
そもそも呼ばれてもいない。
清須会議では事を有利に運んだ秀吉が、信長を弔う場からは締め出されていたわけです。
ドラマではその状況を何ら気にしていない様子でしたが、果たして史実ではどう感じていたのか。
ド派手すぎる秀吉の信長葬儀
秀吉は、敢えて先に葬儀を執り行わせ、“後出しジャンケン”を狙っていたのかもしれません。
なぜなら翌月の天正十年10月、京都・大徳寺で信長の葬儀を強行したのですが、とにかくその規模が凄まじいものでした。
費用は一万石相当。
10月11日から17日まで、計7日間におよぶ派手なパフォーマンス葬儀を行ったのです。
費用の一万石を現代の金額で表示するのは難しく、ざっくり数億円、あるいは小大名一年分の収入とイメージしてください。
とりわけインパクトが強かったのが“信長の遺体”でしょう。

織田信長/wikimedia commons
あれ?
信長の遺体は、本能寺で焼けて発見されなかったんだよね?
というのは、そのとおり。
そこで秀吉が用意したのが、これでした。
【意訳】
棺(ひつぎ)は金紗金襴(きんしゃきんらん・金糸を使った高級織物)で包み、軒には瓔珞(ようらく・宝飾品)、欄干の擬宝珠(ぎぼし・宝珠に似た装飾金物)にはすべて金銀をちりばめた。
八角の柱にも丹精を尽くし、八軒の間を彩り飾っている。
遺骨の代わりには、沈香で仏像を彫刻して、棺のなかへ納め奉った。
出典『惟任謀反記』(『天正記』の一部)
意訳の3行目をごらんください。
信長の遺体の代わりに、沈香から仏像を彫り、それを棺に納めたとあります。
沈香とは東南アジア産の香木で、焚けば香りが立つ高級材ですから、それはもう凄まじいインパクトだったでしょう。
これでは、先に行われたお市の方たちの百箇日法要は、世間的には、完全に霞んでしまいますよね。面目丸潰れで勝家ブチギレだったかもしれません。

柴田勝家/wikipediaより引用
なお、信長遺体の棺を担いだのは、前が池田古新(後の池田輝政・恒興の次男)で、後ろが信長の五男で秀吉の養子だった喪主の御次秀勝。
秀吉は太刀を持って付き従いました。
信長の実子を従えて歩く――わかりやすい権力図を京都中に見せつけたんですね。
こうした状況は秀吉の右筆・大村由己が『惟任退治記』に記したものであり、全てを鵜呑みにはできないとされますが、それでも、葬儀がおおむねド派手だったことは間違いないでしょう。
なんせ興福寺僧侶の『多聞院日記』には
【意訳】信長の葬儀が行われたが、それはもう、たいそう物々しいものだったそうだ
【原文】信長の葬礼の儀式これあり、事々敷儀也と云々
と記されるほど。
隣国の大和(奈良)までそう伝わるほどですから、もっと遠方になればさらに尾ひれがついて話が回ったでしょうか。
なんせ、お市の方と秀吉の2人が争ったのは葬儀だけでなく、「法号」もまた露骨なものでした。
法号の奪い合いが生々しい
葬儀には戒名が必要となります。
お市の方が妙心寺の法要で使った法号は以下の通り。
別の法要を行う場合、普通ならこれを引き継ぎます。戒名は、そう何度も変えるものではありません。
しかし、秀吉はこれを拒否。
わざわざ朝廷から
総見院殿贈大相国一品泰巌大居士(そうけんいんでん ぞうだいしょうこく いっぽん たいがん だいこじ)
という諡号を賜り、その位牌を手にしていたといいます。
寺がつけた法号ではなく、朝廷から賜った諡号――格が違いますね。
しかも秀吉は、信長に従一位・太政大臣を追贈するよう朝廷に働きかけていました。
武家の頂点へ祭り上げ、その後継者として自分を位置づけるためです。

豊臣秀吉/wikimedia commons
戒名まで政治の道具になるとは、世知辛い話です。
しかし「総見院」という名は、そのまま大徳寺の塔頭の名になりました。
秀吉が信長の菩提のために建立したもので、いまも織田一族の墓が並んでいます。
ここでも後出しジャンケンだった秀吉のほうが、お市の方よりも一枚上手だったんですね。
警固の大将は羽柴秀長だった
大徳寺での葬儀は警備体制も異例でした。
責任者は小一郎こと羽柴秀長。

豊臣秀長/wikimedia commons
以下のように、警備に費やされたのは3万人で、道路の左右に弓・槍・鉄砲部隊が並んだといいます。
【意訳】羽柴小一郎秀長を警固の大将とし、大徳寺から1500軒ものあいだ、警固の侍3万ばかりが道の左右を守った
【原文】羽柴小一郎秀長を警固の大将として、大徳寺より千五百軒のあいだ、警固の侍、三万ばかり、路の左右に守護
出典『惟任退治記』
もはや葬儀というより合戦ですやん――そうツッコミたくなるように、この数字には注意が必要です。
前述の通り、出典の『惟任退治記』は秀吉礼賛の書籍。
特に、盛られた数字には気をつけなければならず、研究者の河内将芳氏は著書『図説 豊臣秀長』の中で「実際は千人ほどだったのでは?」と指摘しています。
秀吉が秀長に宛てた書状の中で「来る十五日京都御仏事」のため「千ばかり召し連れ」と記されているのです。
ただまぁ、千人でも相当厳重な警備体制ですよね。
まとめ
お市の方も、秀吉も、己の権力を手繰り寄せるために開いた――信長の葬儀をめぐる流れを整理しておきましょう。
◆天正十年(1582年)織田信長の葬儀
8月18日……妙心寺で信長の乳母だった養徳院(池田恒興の母)が追善供養
9月11日……妙心寺でお市の方が百箇日法要を行い、勝家と信孝陣営の後継者アピール
10月11日〜17日……大徳寺で秀吉が葬儀を挙行し、喪主は信長五男で秀吉の養子だった御次秀勝が務めた
法号……お市の「天徳院殿」を秀吉が拒否し、朝廷から「総見院殿」を賜る
同じ織田家の重臣たちであるのに、互いを除け者にし、格式を競い、戒名まで競いあう。
なかなか醜い権力争いになっていますよね。

柴田勝家(左)と豊臣秀吉/wikimedia commons
なぜ、こんな悲しい展開になってしまったのか?
というと、最後まで信長の遺体が見つからなかったからかもしれません。
「誰が正式に弔っているか?」という一点に、織田権力の正統性が集約されたのです。
そして当時の記録を見るかぎり、
・葬儀は秀吉の勝ち
だったように思えてなりません。
翌天正十一年(1583年)4月、柴田軍は賤ヶ岳の戦いに敗れ、勝家とお市は北庄城で命を落とします。
葬儀を制した秀吉が、その後の主導権を握っていきました。
なお、大河ドラマ『豊臣兄弟』最新話の史実解説については、以下の記事をご覧ください。
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秀吉は清須会議後に実際どれだけ織田家諸将を調略した?豊臣兄弟第31回史実解説
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【参考文献】
- 楠戸義昭『激闘!賤ヶ岳』(2018年7月 洋泉社)
- 和田裕弘『豊臣秀長 「天下人の賢弟」の実像』(2025年10月 中央公論新社)
- 河内将芳『図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石』(2025年5月 戎光祥出版)
- 柴裕之『太閤記解剖図鑑』(戎光祥出版)
- 『惟任退治記(惟任謀反記)』『天正記』『多聞院日記』『宗及他会記』『蓮成院記録』/橋本卓容氏所蔵文書
【TOP画像】羽柴秀吉とお市の方の肖像画/wikimedia commons

