大河ドラマ『豊臣兄弟』で、なんだか気になってしまう。
けれど調べようもないな……と思われるのが、前田利家が柴田勝家を呼ぶときの呼称、「おやじ殿」ではないでしょうか。
一体あれは本当なのか。
2人は当然、実の親子ではありませんし、さらに言えば利家は勝家の家臣でもありません。
利家はあくまで信長の直臣であり、柴田勝家のもとには与力(ヘルプ)かつ目付(監視)として、北陸方面で一揆軍や上杉軍などの諸勢力と戦っていたのです。
それはどんな関係だったのか。

前田利家/wikipediaより引用
まずは両者の原点から振り返ってみましょう。
笄斬りで命を救った勝家と森可成
前田利家は永禄二年(1559年)、信長の同朋衆・十阿弥(拾阿弥)を斬りました。
年次には諸説あり、通説に従い進めますと、この事件は「笄斬り(こうがいぎり)」と呼ばれます。
利家がまつから貰った笄(こうがい・刀の装身具)を十阿弥に盗まれたうえ陰口まで叩かれ、ついに信長の見ている前で斬ってしまったのです。
悪いのは明らかに十阿弥ですが、信長も怒りを抑えられません。
利家の成敗を命令したところで動いたのが柴田勝家でした。
研究者の和田裕弘氏は著書『柴田勝家 織田軍の「総司令官」』の中で「柴田勝家と森可成(よしなり)が執りなしたことで一命は助けられ、追放処分で済んだ」と説明しています。
つまり勝家は、利家の命の恩人。
しかも牢人後も気をかけてくれたのは勝家であったと、利家が次のように振り返っています。
「日頃親しかった者でさえ音沙汰がなくなるなか、助力してくれたのは勝家と森可成、あとは小姓が2~3人だけだった」
意外にも秀吉ではなく勝家の名前が出てくるんですね。
和田氏も「利家は勝家に対し、この時の恩義を感じていたようである」と指摘しています。

柴田勝家/wikipediaより引用
笄斬りだけではなく、相続についても勝家の助けが入ったとされます。
四男の利家がなぜ家を継げたのか
前田利家は四男でありながら、信長の命で兄を差し置いて家督を継ぎました。
兄を差しおいての相続ですから当然トラブルに発展。
その揉め事を収めたのも柴田勝家と佐久間信盛たちでした。
つまり利家は
・笄斬りでは信長の勘気から命を救われ
・牢人時代も何かと気をかけられ
・家督相続の揉め事も収めてもらった
わけであり、これだけ世話になっていれば「おやじ殿」と呼びたくなるのも無理はないでしょう。
ちなみに笄斬りにはもう一人の当事者がいます。
十阿弥の側に立ち、その助命を嘆願していたのが佐々成政でした。

佐々成政/wikipediaより引用
黒母衣衆出身の佐々成政と、赤母衣衆出身の前田利家は何かと相性が悪く、後に合戦にまで発展する間柄であるのはよく知られていますが、和田氏によると「笄斬りの時点から不仲になっていた」のですね。
この2人を勝家の与力として派遣した織田信長は何を考えていたのでしょう。
織田家が誇る有力武将を互いに競い合わせて、上杉家と対峙する北陸方面軍を強くしようとしたのか。
信長の真意は不明ですが、こうした“強すぎる2人”が派遣されたことが、後の勝家の不幸に繋がってしまいます。
それは一体どういうことか?
「おやじ殿」制度としては正しい
天正三年(1575年)9月、柴田勝家は越前一国を任されました。
このとき前田利家は、佐々成政と共に勝家の与力として付けられます。
与力と、それを預かる立場の関係を、当時は「寄親・寄子」と呼びました。
寄親とは「親子に似せた主従関係の主人」つまり、親子になぞらえた関係のことであり、「おやじ殿」という呼び方は感情的なものだけでなく制度の呼び名としても正確なのですね。
しかも、2人の場合は、制度にとどまりません。
ドラマ時代考証者・柴裕之氏の編書『戦国武将列伝 別巻1 織田』によると、利家が勝家を「おやぢ」と呼んで慕っていたと記されています(『利家公御代之覚書』)。
つまりドラマの「おやじ殿」は、脚本の創作ではなく、史料に出てくる呼び方だったのです。
意外だったでしょうか。
ドラマの利家は、間違ったことを言ってなかったんですね。
しかし問題は、この先です。
ただし利家は勝家の家臣ではない
柴田勝家と共に、越前二郡に所領を与えられた有力武将が三人いました。
◆不破光治
◆佐々成政
◆前田利家
後に「府中三人衆」と呼ばれる面々です。
織田信長は、この三人へ朱印状を出しているのですが、

織田信長/wikimedia commons
その中見がなかなかインパクトありまして。
【意訳】三人は柴田の目付として置く。
柴田の善悪を包み隠さず報告せよ。逆に三人の善悪は柴田に報告させる。
互いに磨き合うようにせよ。手心を加えたら罪だ!
一言でいえば「相互監視」ですね。
利家は、勝家に付けられた与力であると同時に、信長が置いた監視役でもあったのです。
しかも勝家も、三人を見張るように命じられている。
先ほど申し上げましたように、彼らはあくまで信長の直臣であって勝家の家臣ではなく、親子になぞらえた関係ではあっても主従ではない。
互いを見張れと命じられている複雑な関係。
「おやじ殿」という呼び方には、親しみ以外の緊張感も込められているのでした。
※不破家については、領国支配の実務は嫡男の直光が担い、目付の役割は父の光治が務めたとされます
本能寺の3ヶ月前に信長討死の虚報
天正十年(1582年)3月、越中で妙な事件が起きます。
「織田信長・信忠父子が武田勝頼に討ち取られた」
そんな虚報が流れたのです。
本能寺の変の3か月前の話ですから、歴史を知る私達からすれば一瞬ドキッとする話ですよね。
当時もこれを信じる武将がいて、小島六郎左衛門と唐人親広(かろうど ちかひろ)が一揆を起こし、城主の神保長住(じんぼう ながずみ)を城内に幽閉して3月11日に富山城を乗っ取りました。
そこで柴田勝家は佐々成政・前田利家・佐久間盛政らを率いて城を包囲。
このときの利家の書状が残っています。
3月24日付で兄の安勝に宛てたもので、富山城については「城中からしきりに降参を願い出てくるので2~3日中には落とせる」と伝えています。
続く4月2日付の書状では「魚津城攻めが順調であること」も報告していました。
なお、3月24日付の書状には生々しい追伸もついています。
降伏を願い出た籠城衆をどう扱うか。
勝家と成政の意見が真っ向から割れ、しかも城中の者に成政の関係者が討たれるという不慮の事態まで起き、話はこじれました。
これを収めたのが利家です。
笄斬りで関係が悪化していた相手と、命の恩人おやじ殿――その間に立って仲裁したと伝わります。
かように彼らは、北陸方面軍として、確かに共に戦っていました。

前田利家と柴田勝家/wikimedia commons
しかし同時に難しいのが、彼らの関係性です。
研究者の和田氏は、勝家が秀吉に後れをとった理由のひとつとして「勝家は、三人の与力を完全に掌握しきれていなかった」と指摘しています。
秀吉の配下は全般的に小粒である一方、勝家につけられた与力たちは織田家のツワモノ揃い。
北陸の一揆勢や上杉軍を相手に戦う以上、有力武将が出向くのは当然のことですが、本能寺の変という想定外の重大事件が起き、信長というカリスマ主君がいなくなれば、途端に制御が難しくなるのは無理もありません。
そして迎えたのが天正十一年(1583年)賤ヶ岳の戦いだったのです。
まとめ
柴田勝家と前田利家の関係は深かった。
命を救われ、牢人時代に助けられ、家督のもめ事まで収めてもらっていて、「おやじ殿」という呼び方も寄親寄子の制度に照らせば正しいものでした。
ただし、その仕組みを設計したのは信長です。
利家を勝家に付けたのも信長なら、互いに監視し合えと命じたのも信長であり、二人の関係は織田家の仕組みがあってこそ成り立つものだったのでしょう。
その信長が、本能寺で消えた以上、利家が自らの動向を自ら決めても致し方ありません。
ただし、賤ヶ岳の戦いで、利家が勝家を裏切ったというのは明確な史料がなく、おそらく後世の誤解だということは以下の記事に記しましたので、よろしければ併せてご覧ください。
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前田利家は賤ヶ岳で勝家を裏切り秀吉に寝返ったのか?豊臣兄弟第32回史実解説
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賤ヶ岳での利家は「おやじ殿」に対してどうにもならず、ただただやるせない気持ちだったのではないでしょうか。
【参考文献】
- 和田裕弘『柴田勝家 織田軍の「総司令官」』(2023年6月 中央公論新社・中公新書)
- 柴裕之『戦国武将列伝 別巻1 織田』(2025年10月 戎光祥出版)
- 大西泰正『前田利家・利長―創られた「加賀百万石」伝説』(2019年4月 平凡社)
【TOP画像】前田利家(左)と柴田勝家の肖像画/wikimedia commons

