大河ドラマ『豊臣兄弟』で注目される賤ヶ岳の戦い。
天正十一年(1583年)4月21日、羽柴秀吉とぶつかった柴田勝家は敗れ、越前北庄城へ向かって落ちますが、このとき勝家の身代わりで犠牲になった武将がいます。
小姓頭とされる毛受勝照(めんじゅかつてる)です。
この毛受、史実と創作で混乱しがちなナゾ多き人物ですが、『豊臣兄弟』にも登場する面白い存在。
本記事のタイトルにありますように「馬印(うまじるし)」がキーワードとなる人物でして、さっそく勝家と共に振り返ってみましょう!
京都まで運ばれた勝家の馬印
「鬼柴田」と呼ばれ、織田軍の最前線で常に戦ってきた柴田勝家。
その馬印は「金の御幣(きんのごへい)」と呼ばれ、戦場では常に勝家と共に輝きを放ってきました。

柴田勝家と金の御幣イメージイラスト
【参考】勝家の金幣馬印を展示用に複製(中日新聞)
馬印とは「我はここにいるぞ!」と大将クラスの武将が敵や味方に示す目印であり、例えば豊臣秀吉なら「千成瓢箪」、徳川家康なら「金扇」を用いたことで知られます。
要は、自分と本陣のシンボルですね。
賤ヶ岳で敗戦した勝家はこれを羽柴軍に奪われ、後に勝利の証として京都まで運ばれたことが、吉田兼見の日記『兼見卿記』に記されています。
勝家にとっては不名誉な話ですが、同時に興味深いエピソードが生まれました。
その主役が毛受勝照なのです。
勝家の小姓だった毛受勝照
毛受勝照は、実在の人物です。
柴田勝家の家臣は、軍記物では数多く登場する割に、史実で確認される人物は決して多くありません。
研究者の和田裕弘氏は著書『柴田勝家 織田軍の「総司令官」』の中で、確実な史料に登場するのは奉行衆や側近、部将クラスに限られると指摘。
そんな状況の中、小姓である毛受勝照の名も伝わっています。
天正二年(1574年)3月10日、多聞山城(大和国)での記録です。
同城に城番として入っていた勝家のもとへ、興福寺の門跡・尋憲(じんけん)から使者が送られ、このとき取次を担当したのが毛受勝助(勝照)でした。
尋憲が書いた日記『尋憲記』に記されていて、賤ヶ岳の9年前、毛受勝照が勝家のそばにいたことがきちんと確定できます。
しかし、実際に毛受勝照を有名にしたのは軍記物です。

毛受勝照(落合芳幾作)の浮世絵/wikimedia commons
史実とは言い難い内容ですが、そこを踏まえて、毛受勝照の経歴ならびにエピソードを見ていきますと……毛受勝照は尾張春日井郡稲葉村の出身。
谷口克広氏の著書『織田信長家臣人名辞典』によると、12才のときから柴田勝家に仕え、成長して小姓頭となり、1万石を与えられたとされます。
ただし、この石高は『太閤記』によるもので、鵜呑みにはできません。
「信頼されていたのは間違いないであろう」という方向でお考えください。
では毛受勝照と勝家の馬印には、実際どんなエピソードがあるのか?
長島で馬印を取り返したのは?
実は柴田勝家は、賤ヶ岳以前にも馬印を奪われたことがあります。
元亀二年(1571年)5月のことです。
織田信長による第一次長島一向一揆討伐があり、西美濃方面の大将を務めた勝家は、結局、戦果が上がらないまま5月16日に撤退となりました。
このとき殿(しんがり)を引き受けた勝家。
大河と山に挟まれた一本道の難所で、織田軍を待ち構えていた敵の一揆勢から、弓と鉄砲によるゲリラ戦を仕掛けられます。
勝家は軽傷を負いながらも、『信長公記』に「高名比類なき」と評されるほどの働きを見せるのですが、その混戦のさなかで「金の御幣」を奪われてしまいました。
共に戦っていた美濃三人衆の一人・氏家卜全(うじいえぼくぜん)も、この撤退戦で討死。
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織田家の一族や有力武将も戦死していた長島一向一揆 誰が犠牲になった?
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それほどの難戦だったのですが、このとき馬印を敵から取り返してきた勝家の“小姓”がいます。
水野次右衛門です。
16才とも17才とも伝わる水野次右衛門は、たった一人で敵中へ駆け入り、見事、金の御幣を奪い返して勝家に差し出しました。
かつてはこの一件が「毛受勝照の功績」として紹介されることもありましたが、現在の研究では『甫庵信長記』や『蒲生文武記』の記述にもとづき、水野次右衛門とするのが一般的。
「毛受勝照であって欲しかった!」
という願望は戦国ファンの勝手な願望でして……ただ、そう思いたくなるのにも理由があります。
毛受勝照は、柴田勝家の身代わりとなり「馬印と共に亡くなった」とされるのです。
これは一体どういうことか?
勝家「心ある者は毛受に従え」
天正十一年(1583年)4月21日、賤ヶ岳の戦い、本戦当日。
佐久間盛政の軍が崩れ、前田利家が戦場を離れたことで、狐塚にいた柴田勝家の本隊にも動揺が広がり、さしもの鬼柴田も対応しきれなくなっていきます。
7000いた兵も逃亡により6000、5000と減少していく中で、それでも狐塚を動こうとはしない勝家。
負けて逃げたとあっては末代までの恥――と考えたのですね。

柴田勝家/wikipediaより引用
このとき、勝家の馬の手綱を押さえていた毛受勝照が、主君の勝家に訴えます。
【意訳】
あなたほど戦場で武功を重ねた方はおりません。ここで自害なさっては、後々までの悪名になります。
北ノ庄までお退きになり、城の中で心静かにお腹をお召しください。
恐れ多いことですが、御馬印を私にお預けくだされば踏みとどまり、敵が10万騎で追ってきても、お姿が見えなくなるまで一人も通しはいたしません。
出典:『賤嶽合戦記』
勝家はついに折れ、金の御幣を勝照に授けました。
そして「心ある者は毛受に従え」と言い残し、馬首を北へ向け――そう、毛受勝照は勝家が城へ逃げるまでの間、自身が馬印を掲げることで囮になろうとしたのですね。
同時代の史料では確認できない場面ですが、軍記物『賤嶽合戦記』ではそう語り継がれています。
話のクライマックスは、ここからです。
林谷山砦に立った金の御幣
柴田勝家を見送った毛受勝照は狐塚を離れ、1kmほど先の砦に入りました。
「佐久間盛政と共に出陣して空になった砦」だったとされますが、史料によって異なり、『太閤記』は「原長頼のいた要害」とし、賤ヶ岳の布陣を整理した研究では「林谷山砦」となります。
林谷山砦のすぐ脇には、現在、毛受兄弟の墓が建てられています。
勝家が去り、馬印を掲げて戦場に残った毛受勝照のもとへ、兄の茂左衛門がやってきました。
兄は弟と共に戦うことを決意。
『太閤記』ではここまでの流れが以下のように記されています。
【意訳】
勝助(毛受勝照)の手勢300人あまり、そのほか勝家の小姓や馬廻の者を少々従えて、原長頼のいた要害が幸いに空いていたので、そこへ入った。
勝助は老母や妻子への形見の品を古参の者に渡し、届けさせた。
砦にはたくさんの酒樽が残されていた。
皆はそれぞれ土器で汲み、死出のはなむけとした。
やがて秀吉方が、林谷山砦で陽光を受けて光る「金の御幣」を見つけます。

金の御幣イメージイラスト
勝家はここにいるぞ!
色めき立った秀吉軍が、砦を十重二十重に包囲しました。
砦方は、敵を引き付けるだけ引き付けてから鉄砲を連射し、ひるんだところへ数十人が討って出て、散々に暴れてはさっと引き揚げる――そんな戦術を何度も繰り返し、羽柴軍を寄せ付けなかったといいます。
しかし、いくら死ぬ気で戦ったところで、毛受方の総勢は500人ほど。
万単位の秀吉軍に敵うはずもなく、出撃のたびに5人、10人と討たれていきました。
「天下にかくれなき鬼柴田とは我ぞ!」
気がつけば、砦に残ったのは14〜15人。
ついに最期のときを迎え、毛受勝照は大声を上げて敵へ突撃しました。
「天下にかくれなき鬼柴田とは我ぞ!」
兄の茂左衛門が弟の突撃を助け、兄弟の勢いに押された秀吉方は2町(約220m)ほど押し込まれたと『太閤記』には記されています。
秀吉を称えるための『太閤記』でここまで肯定的に描かれていると、信じたくなりますね。

毛受勝照(落合芳幾作)の浮世絵/wikimedia commons
一方、『賤嶽合戦記』はかなり異なります。
毛受勝照は兜を脱いで大童(おおわらわ・髪が乱れた状態)となり、こう名乗ったと言います。
【意訳】
我は勝家の家人、毛受庄介という者なり。
このときにあたって命を授かり、身は不肖ながら馬印を受け取り、主君の恩に報いるものである。
堂々と自分の名を明かしているのですね。
『太閤記』と『賤嶽合戦記』で正反対の表現となっていて、何が正確かはわかりません。
ただ、羽柴軍や秀吉が「林谷山砦に勝家はいる!」と思い込み、本腰を入れて攻略に取り掛かったと語られています。
軍記では、足止めは2時間ほど続いたとされ、その間、柴田勝家は余呉からの脱出に成功していました。
そして北庄城で、お市の方と共に自害して果てるのですが、それを踏まえて、毛受勝照の働きも語り継がれたのでしょう。
林谷山の麓に兄弟の墓を建立
毛受勝照の一件は、戦国時代の武士たちにとってもかなり印象的だったようで。
4年後の天正十五年(1587年)。
九州平定の直後、豊前で黒田家の傘下にいた国衆が一揆を起こしました。
父の留守を預かっていた当時20才ほどの黒田長政が敵を深追いし、囲まれて手回りの者100人ばかりを討たれるという危うい場面があります。
小姓の小野小弁らが引き返して長政を助け出したのですが、そのとき人々はこう噂したと『川角太閤記』にあります。
【意訳】柴田殿が賤ヶ岳の合戦に敗れられたとき、毛受庄介が御幣を受け取って柴田殿を居城へ入れた。あれと少しも変わらない。
主君を逃がすために踏みとどまる——その手本として、毛受勝照の名が挙がるようになっていたんですね。
もっとも、当の兄弟の墓は長く忘れられていました。
余呉町教育委員会が編集した『余呉三山』によれば、毛受勝照と兄・茂左衛門の霊は長いあいだ野辺に埋もれたままだったといいます。
これを変えたのが、二代目滋賀県令の籠手田安定(こてだ やすさだ)でした。
明治になって籠手田が林谷山の麓に毛受兄弟の墓を建立し、これを機に南500mほどの曹洞宗・全長寺が菩提寺となって、位牌を安置。
以来、供養が続けられています。

毛受兄弟の墓(滋賀県長浜市余呉町)/wikimedia commons
毛受勝照とは
毛受勝照とは一体何者だったのか?
一次史料『尋憲記』に名前が残る、柴田勝家の家臣だったことは間違いありません。
賤ヶ岳で敗戦となった勝家の馬印「金の御幣」が羽柴軍に奪われ、京都へ運ばれたことも事実です。
しかし、毛受勝照が身代わりとなり、その馬印を最後に掲げたという話は、あくまで軍記物の記録であり、史実とは断言できません。
ただ、それでも、勝家自身が北庄城へ生きて帰り、本懐を遂げるようにお市の方と最期を迎えることはできている。
そのことを考えるだけで、毛受勝照、あるいは別の誰かに涙を誘われそうになるのは、今後も変わらないことでしょう。
なお、賤ヶ岳の戦いで秀吉と勝家がどんな陣を築き、どんな武将を配置したのか?という点については以下の記事をご参照ください。
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史上最大の築城戦とされる賤ヶ岳で羽柴軍と柴田軍はどんな陣を配置した?
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【参考文献】
- 和田裕弘『柴田勝家 織田軍の「総司令官」』(2023年6月 中央公論新社)
- 谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(2010年 吉川弘文館)
- 楠戸義昭『激闘!賤ヶ岳』(2015年3月 洋泉社・歴史新書)
- 志村有弘訳『川角太閤記』(2016年11月 勉誠社)


