摺上原の戦い小田原参陣

伊達政宗/wikipediaより引用

伊達家

政宗の二大イベント「摺上原の戦い・小田原参陣」は共に6月5日に勃発していた

2025/06/05

旧暦6月5日は伊達政宗にとって二つの大きなイベントがあった日です。

一つは天正十七年(1589年)の摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)。

もう一つはその翌年、天正十八年(1590年)の小田原参陣です。

これだけ近接した出来事ですので、もちろん密接に関わっています。

伊達政宗の肖像画

伊達政宗/wikipediaより引用

一つずつ見ていきましょう。

 


摺上原の戦いと小田原参陣は1年ズレの同日

まず摺上原の戦いとは、福島県・磐梯山の裾に広がる平原での戦です。

現在の場所で言うと、ホテル経営で著名な「星野リゾート アルツ磐梯」の付近で行われた戦いであり、東からの伊達軍と、西からの蘆名軍がぶつかりました。

地図で確認しておきますと……。

蘆名側の戦死した3名の家臣を後世に伝えるため「三忠碑」が建てられていて、その辺り一帯が戦場になっています。

「三忠」の中には、地元の戦国ファンや『戦国大戦』というゲーム好きには著名な金上盛備さんも3名の一人に含まれています(詳細は以下の記事へ)。

金上盛備
金上盛備の生涯|伊達vs蘆名のキーマンとなった戦国武将が摺上原に散る

続きを見る

この戦いに至るまでの経緯はなかなか複雑なものがありました。

伊達政宗は18歳のときに家督を継ぎ、父・伊達輝宗以上の積極的攻勢を取りました。

しかし、この過程で撫で斬りなど周辺諸国の恐怖と怒りを買ってしまい、畠山義継という大名に父親を連れ去られてしまいます。

両家の境界線まで追いすがった政宗でしたが、輝宗を救うことはできず、義継諸共射殺せざるをえませんでした。

伊達輝宗/wikipediaより引用

※輝宗の死に方には諸説あり

 


人取橋の戦いを経ての決戦

父を殺すことになってしまった政宗は、その原因となった畠山家を当然憎みます。

しかし、父親を殺されたのは畠山家の幼い跡継ぎ・国王丸も同じ。

これに「政宗ムカツク」な諸大名がくっつき、人取橋というところで

伊達家
vs
畠山家・蘆名家含むその他東北大名+佐竹家

の戦が起きました。

絵・富永商太

人取橋の戦いでは諸々の要素が重なって、奇跡的に伊達家が勝ったものの、波乱はここでは収まらず、蘆名家とのリベンジマッチになったというわけです。

蘆名家の跡継ぎ問題も絡んでおり、なかなか背景事情が複雑なんですがここでは割愛。

摺上原の戦いの結果は、犠牲を払いつつも伊達家が勝ち、蘆名家を滅ぼしました。

蘆名家が治めていた会津一帯は政宗の領地となったのです。

某ゲームの”奥州筆頭”は多分この辺のイメージなんでしょうね。

 

豊臣秀吉の戦争禁止令に違反

しかし、上方からするとこれは大問題でした。

既に豊臣秀吉が関白になっており「勝手にドンパチをやらないように!」という命令(惣無事令)が出ていたからです。

豊臣秀吉/wikipediaより引用

政宗も一応知ってたんですがガン無視。

タダで従うような人でもないですしね。

年内は蘆名家の残党平定などでバタバタしていたのですが、年が明けてから状況が一変します。

秀吉が小田原の北条家を討つべく、関東へやってきたのです。

上方に比べれば、関東と東北は目と鼻の先も同じ距離。

いよいよ無視できない状況に陥っていきます。

 


参陣というより小田原に出頭命令

伊達家の家臣たちは温厚派と抗戦派に分かれてしまいます。

温厚派「すぐ行って詫びを入れたほうがいいんじゃないですか?一応関白だし」

抗戦派「素性の知れないサルなんぞに頭下げられるか! 家が滅びても断固戦うべき!!」

このとき、伊達家の将来を案じた政宗の母・義姫(保春院)が政宗に毒を盛ったとか盛らなかったとか、弟・小次郎を斬ったの斬らないの話もありますが、その詳細は以下の記事へ。

義姫
義姫の生涯|伊達政宗の母で義光の妹 最上家の危機を救った抜群の交渉術とは

続きを見る

すったもんだの末、政宗は秀吉へあいさつに行くことを選びました。

この後の行動を考えると、降伏しに行ったというより「今だけちょっと頭下げといて、そのうちまたケンカふっかけてやろう」くらいの考えだったんじゃないかという感じがふつふつとしますが、それでこそ政宗ですね。

とはいえ既に小田原城の包囲が済んでいたところ。

小田原征伐の陣図 photo by R.FUJISE(お城野郎)

支城へも攻め手が向かっていたタイミングだったので、これ以上はないほどギリギリでした。

政宗はビクビクせず、むしろ横柄とも取れるような態度で「冥土の手土産に、千利休殿の手ほどきを受けたい」と言ったりして秀吉の歓心を買ったといわれています。

そして丸腰・白装束といういわば”まな板の上の鯉”状態で秀吉に謁見し、お詫びをして何とか攻め潰されることを防ぎました。

実際には兵をロクに率いていないので”参陣”よりは”参上”のほうが近いんですが、慣習的にこの出来事を小田原参陣と呼んでいますね。

 

たった1年で会津とバイバイ

こうして政宗の首は繋がりましたが、やはり法令違反には違いないのでタダでは済みません。

摺上原の戦いなど、東北諸大名と戦ってやっとの思いで手に入れた領地を、たった1年でまるっと取り上げられてしまったのです。

伊達政宗/wikipediaより引用

しかし政宗はここでも表向きは逆らわず、黙って元の領地・米沢城とその周辺へ引っ込みました。

その後の行動を考えると心服してたとはお世辞にも言えないんですけどねHAHAHA!

伊達政宗本人の事績や、その腹心で【摺上原の戦い】や【人取橋の戦い】でも活躍した伊達成実片倉景綱については、より詳細な一生は以下に記事がございます。

蘆名氏関連の記事とも併せてよろしければご覧ください。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


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【参考】
国史大辞典
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon
遠藤ゆり子『伊達氏と戦国争乱 (東北の中世史)』(→amazon
摺上原の戦い/wikipedia
小田原征伐/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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