大河ドラマ『豊臣兄弟』で注目される小牧・長久手の戦い。
天正十二年(1584年)3月に始まった
羽柴軍6万
vs
織田・徳川連合軍2〜3万
の合戦として知られ、一見すると羽柴軍が圧倒的有利に見えるでしょう。
しかし、序盤に起きた「長久手の戦い」で勝利したのは徳川軍です。
しかも単なる勝ちではなく、羽柴軍重臣の池田恒興と森長可を討ち取るという凄まじい戦果であり、負けたほうの秀吉は大激怒。
大将の豊臣秀次(羽柴秀次)がこっぴどく叱られたとも伝わりますが、なぜ、そんな状況に陥ってしまったのでしょうか。
羽柴軍は数だけで脆弱だったのか。

豊臣秀次/wikimedia commons
大河ドラマ『豊臣兄弟』では山田涼介さんが演じることで話題の豊臣秀次と長久手の戦いを史実面から振り返ってみましょう。
秀次は自ら二万余の大将を望んだのか
天正十二年(1584年)3月、織田信雄と徳川家康が秀吉に対して挙兵し、小牧・長久手の戦いは始まりました。
信雄・家康方は小牧山城。
秀吉方は楽田城(がくでんじょう)に本陣を設置。

左から織田信雄・徳川家康・豊臣秀吉の肖像画/wikimedia commons
双方にらみ合いが続いて戦線が膠着すると、羽柴軍内で浮上してきたのが「家康が不在で手薄になった本国・三河を別動隊で突く」という作戦です。
通称“三河中入り”とも呼ばれるこの戦術。
秀吉が4月8日付で出した書状には、動員した兵数が「二万四~五千」と記されています。
実数は1万6000ほどだった可能性も指摘されていますが、いずれにせよ2万前後の大軍です。
一方、それを引き連れる武将のメンバーを見ると、どうにも違和感が否めません。
◆先陣……池田恒興・元助・照政父子
◆二陣……森長可(ながよし)
◆三陣……堀秀政・長谷川秀一
◆本隊……羽柴孫七郎信吉(後の豊臣秀次)
※当時の名乗りは「信吉」であり「秀次」が確認できるのは同年10月以降(本記事では秀次で表記)
先陣の池田恒興にせよ、二陣の森長可にせよ、三陣の堀秀政にせよ、いずれも歴戦の武将です。
一方、大将に据えられた秀次は数えで17才。
誰がどう見ても圧倒的に経験が足りていないのに、なぜ大将なのか。
研究者の小和田哲男氏は『豊臣秀次 「殺生関白」の悲劇』の中で、甥の羽柴秀次がひとかどの大将になりたいと願い出たため、秀吉が許す気になったと記しています。
仮にそれが本当だとしても、疑問は残ります。
そもそも秀次は別動隊の「大将」に据えられていたものの、作戦立案や各部隊への指揮権がどこまであったのか確認できません。
少なくとも、若い秀次が2万余の軍勢を意のままに動かしていたとは断定できない。
しかも秀次の本隊は最後尾に置かれていました。
徳川の領内に入って、もしも後方から敵に襲われたら、最初に攻撃を受ける配置です。
なぜそこに、堀秀政なり森長可なり手練れの部隊を回して、戦に不慣れな秀次部隊を一歩前に配置しておかなかったのか。

織田信長の側近・堀秀政を描いた落合芳幾の浮世絵/
ほんの小さな油断が大事故に繋がるのは世の常。
崩壊は突如やってきました。
白山林で朝ごはんを食べていたら
天正十二年(1584年)4月9日の明け方。
後世の軍記物によれば、豊臣秀次の本隊は白山林(はくさんばやし・愛知県尾張旭市)で軍勢を休ませ、朝ごはんを取っていました。
※以下、白山林の描写は『太閤記』『長久手戦記』『小牧陣始末記』などに記述された伝承です
すると何やら軍勢の近づいてくる気配がする。
それに気づいた者が、いないわけではない。
秀次家臣の一人も「あれは戦意を持っている」と周囲へ伝えるのですが、一里も先にいて正体不明であり、まさか敵対する徳川軍だとは思わずに眺めているだけでした。

『小牧長久手合戦図屏風』/wikipediaより引用
しかし、人夫たちが追い散らされ、ようやく現場に緊張感が走ります。
敵襲だぞ!
秀次軍の将兵たちが気づいたところで時すでに遅し、すでに榊原康政の軍勢が背後へ回り込み、襲いかかってきました。
兵糧や荷物を運ぶ小荷駄隊が真っ先に崩れ、兵たちは狼狽するばかりで組織的な抵抗はできません。
秀次は、家臣の田中吉政に、池田・森・堀隊へ救援を頼むよう命じました。
ところが、です。吉政がいざ堀秀政の陣に着くと
「組頭ともあろう者が使者を務めるとは、逃げてきたと言われても仕方がない!」
と一喝されてしまいます。
助けを呼びに行った先で、まず説教されている。
いやいや、そんな場合じゃないんだよ!というところですが、そのころ別動隊の大将だった秀次自身が、混戦のなかで自分の馬を見失ってしまうのですから目も当てられません。
秀次の近臣だった木下兄弟が、たまたま通りかかった可児才蔵(かにさいぞう)に「馬を譲ってくれ」と頼んでも、あっさり断られる始末。

『関ヶ原合戦図屏風』に描かれた可児才蔵/wikimedia commons
結局、木下利匡(としただ)が自分の馬を降りて秀次を逃がし、そのまま討死したと伝わります。
秀次は細ヶ根などで陣の立て直しを試みたとされますが、形勢は変わらずそのまま敗走となりました。
池田恒興と森長可まで討死する大敗
そのころ先陣の池田恒興と森長可の部隊は、岩崎城を攻撃。
守将の丹羽氏重以下、約200人が戦死する激戦の末に城を落とし、休息をとっているところで秀次敗走の一報を受けます。
まさに青天の霹靂。
両者が慌てて引き返そうとすると、その先で待っていたのが徳川家康の本隊でした。
森長可は突撃の最中に眉間へ銃弾を受けて落馬し、周囲が駆け寄ったときには、すでに息絶えていたと伝わります。
享年27。

森長可/wikipediaより引用
森勢が崩れると、池田勢だって支えきれません。
後方から崩れていく裏崩れを起こし、気づけば恒興の周囲にはわずかな家臣しか残っておらず、ついに乗馬まで失っていました。
そこへ馬上から槍で挑みかかったのが徳川家臣の永井直勝(ながいなおかつ)。
49才の恒興は討ち取られ、嫡男・池田元助も同じ戦場で命を落としました。

池田恒興/wikipediaより引用
とても敗戦の一言では済まされない、凄まじいまでの負け方です。
救援に向かった三陣の堀秀政は、追ってきた徳川勢を檜ヶ根(ひのきがね)で待ち構え、十分に引きつけてから一斉射撃を浴びせて撃退しています。
同じ別動隊でありながら、最後尾と三陣では結果がまるで正反対。
さすがにこれは「秀次を大将に据えた秀吉の失策」とも言えそうですが、果たしてその後はどうなったのか?
秀吉から秀次へ 容赦のない5ヶ条
徳川軍と羽柴軍でにらみ合いが続いていた9月23日、秀吉から秀次へ長い書状が送られた――そう伝えるのが、江戸時代に山鹿素行が編纂した『武家事紀』です。
一体どんな内容だったのか?
原文書は伝わらず、同書に写しが残るのみですが、秀吉の容赦のない言葉をご覧ください。
◆秀吉から秀次への書状(要約)
・甥であることを鼻にかけるな
・一時はお前を殺そうとさえ思った
・名のある武将たちを討ち死にさせたのは、とんでもない振る舞いだ
・行いを改めないなら首を切る
・養子の秀勝が病弱なので、お前を名代にしようと考えていた
脅しているのか、期待しているのか。
いくら怒り心頭でも、数少ない親類(姉ともの実子)であり、跡取り候補でもある以上は手放せない、そんな秀吉の複雑な思いがにじみ出ていますよね。

絵・富永商太
それを裏づけるように、汚名返上の場は意外なほど早く用意されました。
翌天正十三年(1585年)3月の紀州攻めで、秀吉が副将に指名した二人が、弟の羽柴秀長と甥の羽柴秀次だったのです。
『紀州御発向記』によれば、このとき秀次は根来衆が籠もる千石堀城へ真っ先に攻めかかり、首も取らずにひたすら斬り捨てるという苛烈な戦い方を見せたと伝わります。
研究者の小和田氏も、二度と同じ失態を演じれば秀吉に見放されてしまう、という気負いがあったとみています。
秀次は本当に「肩書だけの大将」だったのか
豊臣秀次を大将とする三河中入軍が、長久手の戦いで惨敗したのは動かしがたい事実です。
しかし軍記物が伝えるように最後尾の本隊が背後を突かれたのだとすれば、敗戦の責任を秀次一人になすりつけるのは、やはりおかしな話でしょう。
そもそも作戦自体がかなり強引なものでした。
研究者の平山優氏は、秀吉の書状に九鬼嘉隆の船団派遣まで記されていることから、大規模な三河侵攻は秀吉が発案したとみるのが自然だと指摘しています。
なお、そもそも秀吉と対峙した家康に“勝算”はあったのか?という関連記事が以下にございますので、よろしければ併せてご覧ください。
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秀吉と戦う家康に勝算はあったのか?全国を巻き込んだ反秀吉包囲網
続きを見る
小牧・長久手の戦いそのものの経過は、以下の記事へ。
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小牧・長久手の戦いで勝ったのは秀吉か家康か?決着をつけたのは織田信雄だった
続きを見る
参考文献
- 平山優『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相』(2024年12月 KADOKAWA)
- 小和田哲男『豊臣秀次 「殺生関白」の悲劇』(2002年3月 PHP研究所)
- 黒田基樹・柴裕之編『戦国武将列伝 別巻2 豊臣編』(2026年7月 戎光祥出版)※諏訪勝則「羽柴秀次」


