大河ドラマ『豊臣兄弟』第36回では四国攻めが描かれましたが、皆さん、画面を見ていてなんだか違和感ありませんでした?
そう、女物の着物に執着する長宗我部元親です。
当初は、羽柴軍を相手に「降伏らあせぬ!」と鬼の形相でキレておきながら、ドラマが進むにつれチラチラと女物の着物への関心を隠さなくなり、

最終的には秀長から贈られワンワン泣きだしてしまう。
女々しいというか、戦国大名っぽくないというか。
いったい長宗我部元親とはどんな人物だったんだ?
あの描写には何らかの根拠があるのか?

長宗我部元親に注目しながら第36回放送を史実面から振り返ってみましょう。
第36回あらすじ
まずは今回のあらすじを手短に確認しておきましょう。
――小牧・長久手の戦いを終え、徳川家康から人質として次男の於義伊(後の結城秀康)が羽柴家へ送られた。
「本当の子なのか?」と石川数正に問われた家康は「示しがつけばそれでよいのじゃ」と受け流し、羽柴軍が越中・四国・紀州攻めで疲弊した後が狙い目だと野心を隠さない。
そのころ四国では、長宗我部元親が悲願の四国一統を目指していた。

阿波・讃岐・伊予を返せば土佐を安堵するという条件を秀吉から提示され、嫡男の長宗我部信親は激昂し、元親は「おまえはしょせん、鳥なき里のコウモリじゃと」と信長に言われたことを思い出す。
井の中の蛙、と言われたわけだが、元親は険しい表情で引く気配はない。
「織田の次は羽柴か、まことデカい鳥ばかりじゃのう」
そんな長宗我部に対し、大坂では紀州攻めを終えた秀吉が、四国攻めの総大将に秀長を指名。
元親からは、伊予と土佐が認められれば阿波と讃岐を差し出すという折衷案が出てくるも、秀長はこれを飲むわけにはいかないと言う。
伊予は、毛利に与える条件だったからである。
軍議では上陸の方法が問題になった。
海を埋め尽くすほどの大軍で一気に攻め込むため、秀長が船が千艘必要だと言い、その準備のため紀伊湊の代官・吉川平助を呼び寄せる。
そこで「肝心なときに秀吉がおらぬ」と漏らす蜂須賀小六に対し、兄は京にいると答える秀長。
そのころ秀吉は、公家の近衛前久と向き合っていた。

関白になるためだった。
五摂家の猶子にならなければ、その地位には就けない。
前久は「そなたのような大きな子は欲しゅうない」と突き放すが、秀吉は朝廷を支えてきたのは自分だと説き、帝からの文まで見せる。
「なんで将軍にならんのや」
あらためて前久が問うと、将軍は武家の棟梁に過ぎず、関白は帝の代わりにすべての民の上に立つ者だと秀吉は答える。
前久はやがて折れ、私の子にしてあげよう、どこまで行けるかと言いながら部屋を出ていった。
天正十三年(1585年)6月、四国攻めが始まった。
圧倒的大軍で攻め寄せる羽柴軍を前に、四国勢は各地で次々に崩されていく。
一宮城に残った元親腹心の谷忠澄は秀長と対面し、介錯を頼むと申し出るが、秀長はこれを断り、元親との橋渡しを願った。
いま降れば土佐一国は認めるという書状を持ち帰った忠澄に、元親は般若の形相で「降伏らあせぬ!」と吠える。
なかなか折れない元親に対し、イライラを募らせる秀吉。
大坂から秀吉出陣の報せが届いても秀長は「元親も迷っている」と言い切り、長宗我部の降伏を待つ時間を作るため、蜂須賀小六が大坂へ走り、秀吉から三日の猶予を取りつけた。
そして忠澄が、元親に一つの箱を渡す。
中には衣装。
秀長からの贈り物である。
女物の着物をまとった元親は秀長の前に現れ、人を殺すのが恐ろしかったと号泣しながら語る。

秀長は、出会いが違えば友になれたかもしれないと応じ、元親は臣下となることを誓った。
そして天正十三年(1585年)7月11日、秀吉は関白に就いた――ということで、以上があらすじですが、やはり気になるのが長宗我部元親のキャラクターですよね。
メソメソしている一面と、ブチきれる一面と、とにかくギャップが激しくて、なんだか精神的に不安定に見える。
そうした描写には根拠があるのか。史実面を見てまいりましょう!
女物の着物を好む根拠は「姫若子」か
劇中では、女物のような着物がキーアイテムになっていました。
まるっきり根拠がないわけではありません。
長宗我部元親の外見について、『土佐国古城伝承記』ではこう記しています。
生まれつき背が高く色白・柔和であり、容姿・体格の素晴らしいことは比類ないものであった。
用事があるとき以外はしゃべらず、人と対面してもにっこりと笑うだけで挨拶もしない。
日夜奥に籠もっていたので「姫若子」とあだ名をつけられ、上も下もあざ笑っていた。
研究者の平井上総氏が『戦国武将列伝10 四国編』の中で紹介している長宗我部元親像であり、家臣たちからも舐められていたようで、父の長宗我部国親が深く嘆いていたとも記されます。
土佐では男子のことを「若子」と言い、それに「姫」がつけられ姫若子(ひめわこ)。
「姫」は女物の衣装や女性的な容姿を指すのではなく、深窓の姫君のように奥へ籠もっていたことを表す軍記上の比喩です。武家の子としては散々な言われようですね。
しかし、22才のとき、この評価がひっくり返ります。
元親は初陣で、たちまち三騎の敵を討ち取ると、退却した敵が城に籠もっていないことを兵書の記述と城の様子から見抜いた。
長宗我部軍の将兵たちもこれには感嘆し、以後、元親は「土佐の出来人」と仰がれるようになった――そんな筋書きです。

長宗我部元親像
ドラマの元親が鬼の形相で「降伏らあせぬ!」と発言するのは、まさにこの生まれ変わった姿。
一方、やたらと女物の着物に興味を示し「これを着ていると自分になれる♪」といった発言をしているのは「姫若子」だった頃を根拠にしているのでしょう。
しかし、ひとつ問題があります。
前述の通り「姫若子」はおとなしい女の子っぽい男児という表現であって、女物の着物を好んだことにはなりません。
決して肯定的に描かれたわけでもない。
それが、戦国大名になってまでそのような好みがあったように描くのは拡大解釈が過ぎると指摘される可能性もあるでしょう。
しかも、この姫若子という描写には、もっと根深い問題もあります。

長宗我部元親/wikipediaより引用
そもそも姫若子なんて言われていたの?
そもそも長宗我部元親は本当に「姫若子」と呼ばれていたのでしょうか?
大河ドラマ『豊臣兄弟』第36回放送のサブタイトルは「姫若子と鬼若子」であり、
・姫若子(初陣に出るまでの元親)
・鬼若子(初陣で豹変して土佐の出来人となった元親)
というように描かれていましたので、史実でもそうだったように思えてきます。
中川清秀の裏切り描写が炎上したときに、番組プロデューサーが「史実は外していない」という趣旨の発言をされていましたので、信じる方もいらっしゃるかもしれません。
◆【豊臣兄弟!】「史実は外していない」制作統括の驚くべき発言(デイリー新潮)
しかし、この姫若子については、研究者の平井上総氏も「他の軍記では見られない」と指摘。
確かに、元親が初陣で活躍した話そのものは複数の軍記にも記されているのですが、「姫若子」と呼ばれていたシーンは出てこない。
もちろん同時代の他の史料にはない。
つまり「姫若子」の逸話は、後世に加えられた可能性がかなり高いんですね。
引きこもりの女の子っぽい若君が、初陣で豹変して四国の覇者になるというのは、話としては確かに面白い。
ただ、さらにそれを飛躍させて、戦国大名である長宗我部元親が女物の着物が好きで、それを着ていると「心地よい♪」と、

うっとり話させるのは、さすがにやり過ぎな気もします。
坂本龍馬ほどではないにしても、土佐では今なお長宗我部元親が慕われているとも聞きますので、かなり危うい描写ではないでしょうか。
一方、もう出てこないだろう……と諦めていたエピソードがここへ来て急に出て参りました。
「鳥無き島の蝙蝠(こうもり)」です。
※ドラマでは「鳥なき里の蝙蝠」
劇中で、突然回想が始まったので、おそらく大半の方がわけわからなかったと思います。
なかなか印象的な逸話ですので、こちらも確認しておきましょう。
鳥なき里の蝙蝠(こうもり)
鳥なき里の蝙蝠(こうもり)とは、一言でいえば「井の中の蛙」が近いですね。
ドラマでは里が用いられていましたが、出典となる『土佐物語』では「鳥無き島の蝙蝠」と記されました。
島=四国に喩えた言葉であり、長宗我部元親が、織田信長に言われたとされます。
『土佐物語』は江戸時代の軍記であり、実際は以下のように記述。
【意訳】信長が笑いながら「長宗我部元親は、所詮、鳥のいない島の蝙蝠にすぎん」と言ったところ
【原文】信長卿莞爾と笑はせ給ひ、元親は、無鳥島の蝙蝠なりと仰せければ
注意していただきたいのが、信長が直接これを言った相手です。

織田信長/wikimedia commons
実は元親ではありません。
長宗我部家から織田信長のもとへ派遣された使者・中島可之助(べくのすけ)に向かって、そう言ったのです。
『土佐物語』では、信長が長宗我部元親のことを、にっこり笑って(莞爾と笑はせ給ひ)対応したとされますが、家臣としては「井の中の蛙」と言われて気持ちが良いものではないでしょう。
しかし、それに対する中島可之助の答えがぶっ飛んでました。
使者・可之助の回答がぶっ飛んでいる
信長の言葉を受けた長宗我部の使者・中島可之助は、こう切り返したのです。
蓬萊宮のかんてんに候
意味、わかります?
あるいは想像つきます?
この言葉については、色々と謎解きをされる戦国ファンの方もいらっしゃいますが、現状は分からなくて正解。
原文でも「かんてん」は漢字が当てられておらず、いったい何を指すのか?依然として確定していません。
例えば研究者・山本大氏の編書『長宗我部元親のすべて』では、この返答を「出まかせ」と評している。
しかしいつの時代も、ぶっ飛んだ感性とぶっ飛んだ感性というのは共鳴し合うのでしょう。
信長は、これを聞いて大いに感心します。
【意訳】その場で即座に切り返す、たいした使者だ
【原文】當座卽妙の返答使なるかな

絵・富永商太
中身が出まかせでも、主君を馬鹿にされて黙っていなかった点を買ったということでしょうか。
信長は元親の嫡男へ「信」の一字を与え、弥三郎は長宗我部信親と名乗ることになりました。
このように『土佐物語』では、元親が一方的に嘲弄された話ではなく、使者の切り返しによって信長の評価を得た長宗我部の外交成功譚となっています。
※ただし他の史料では、中島可之助に当たる人物が見当たらず、こちらも創作の可能性が否定できず
そんな長宗我部家中にあって、ドラマで目立っていたのがやはり谷忠澄(たにただずみ)でしょう。
覚悟ある武士として、非常にカッコよい。
あの武将は何者なんだ?
堀部圭亮さんが演じられていた、元親の腹心にも注目!
降伏を説いた谷忠澄とは?
谷忠澄は、もともと土佐一宮である土佐神社の神職でした。
それを元親が見出して家臣に抜擢。
知謀に長けていたため外交と行政を任され、阿波・讃岐・伊予に通じる白地城を預けられたこともありました。

そして天正十三年(1585年)、阿波の一宮城に籠もります。
羽柴秀長の軍と対峙した忠澄は、圧倒的な戦力差を目の当たりにして、元親へ和睦を申し入れるよう進言しました。
『元親記』によれば、この提言に元親は激怒。
劇中でも般若の形相で拒んでいましたが、忠澄は一歩も引きません。
家老・重臣たちを説き、彼らと共に三日かけて元親を説得したと『元親記』は伝えています。
この忠澄の話には、続きがあります。
翌天正十四年(1586年)12月、九州で起きた「戸次川の戦い」で長宗我部信親が討死すると、忠澄が敵の島津方へ出向き、信親の遺骸を受け取りに行っています。
遺骸は荼毘に付され、遺灰は高野山の奥の院へ納められました。
そして戦死した土佐兵700人のために、供養の石塔婆を建てています。
元親の四国進出に際して、谷忠澄の人柄や智謀が大いに役に立ったことは間違いないでしょう。
では最後に、時系列をまとめておきましょう。
まとめ
劇中の秀吉は、蜂須賀小六に向かって「関白のワシの戦を日ノ本じゅうが見ておる」と言っていました。

あれは正しいのか?
◆天正十三年(1585年)6月 四国攻めが始まる
◆7月11日 秀吉の関白就任
◆7月25日 秀長が谷忠澄へ起請文を送り、その後、7月下旬に長宗我部が降伏
◆8月 四国の国分けが決まる
史実の関白就任は、戦の真っ最中に行われていました。
ドラマでは、先に長宗我部元親が降伏を認め、その後、秀吉の関白姿が映され、順番が入れ替わっていましたね。
そうした順番はさておき、今回の四国攻めでは、あまりにも「姫若子」と「女物の着物」に重きが置かれすぎた気がしてなりません。

長宗我部の魅力は、そこじゃないんだよォ……。
そう脱力、あるいは歯ぎしりしながら視聴された方もいらっしゃったでしょう。
なお「なぜ秀吉が四国攻めを強行したのか?」という点については以下の関連記事を併せてご覧ください。
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なぜ秀吉は四国攻めで長宗我部元親を追い込んだのか|伊予を毛利に渡すため?
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参考文献
- 平井上総編『戦国武将列伝10 四国編』(2022年12月 戎光祥出版)※平井上総「長宗我部元親」
- 平井上総『長宗我部元親・盛親 四国一篇に切随へ、恣に威勢を振ふ』(2016年8月 ミネルヴァ書房)
- 山本大編『長宗我部元親のすべて』(1989年8月 新人物往来社)

