大河ドラマ『豊臣兄弟』の第39回放送で最も衝撃的だったのは石川数正でしょう。
間もなく放送終了という場面で羽柴秀長を訪れたかと思ったら、突然「徳川家を出奔してきました」と告げる。
いったい何事か???
数正と言えば、長年にわたって家康を支えてきた腹心中の腹心であり、とても徳川家を飛び出すような立場の人物ではありません。
それだけに『どこからどこまでがフィクションなの?』と疑問に思われた方もいらっしゃるでしょう。
そこで第39回放送の史実解説は、石川数正の出奔に注目。
「茶々と秀吉の結婚」については以下の記事に譲り、
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秀吉に茶々との結婚を勧めたのは秀長だったのか?32才差夫婦が結ばれた経緯
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今回は家康・秀吉・数正の複雑な関係を史実面から振り返ってみたいと思います。

石川数正イメージイラスト
【三行あらすじ】
天下人・秀吉に子がなく豊臣家の将来を不安視する豊臣秀長は、茶々との結婚を思いつくが、寧々との関係を大事にする秀吉は大反対。
豊臣家の行く末を案じる寧々は、茶々と弓矢勝負をして惜しくも敗れてしまうも、結局、茶々は秀吉との結婚を快諾する。
一方、秀吉との再戦に備えて血気盛んな徳川家で、一人冷静だった石川数正は徳川家を出奔して、大坂へやってくるのだった。
数正は岡崎城代で秀吉との交渉役
石川数正は、徳川家の中でも別格の重臣です。
家康の嫡男・松平信康が亡くなった事件のあとは、三河の岡崎城を預かる城代に就任。
後には秀吉との外交の窓口となる「取次(とりつぎ)」まで務めました。

石川数正/wikipediaより引用
小牧・長久手の戦い後の和睦交渉でも働いており、天正十三年(1585年)3月までには名を「康輝(やすてる)」に改めています。
「康」の字は当然、家康から与えられたものであり、数正がどれほど頼りにされていたかもご理解いただけるでしょう。
しかも数正の息子・勝千世は、家康の次男・於義伊(のちの結城秀康)と共に秀吉のもとにいます。
秀吉の力の大きさを、徳川家の誰よりも肌で知っていたのが数正でした。
それだけに、もしも家康が上洛と従属を拒めば秀吉との合戦となり、それは徳川家の滅亡につながると危ぶんでいたと研究者の平山優氏は著書『徳川家康と武田勝頼』の中で指摘しています。
膠着する両家の状況が動いたのは、天正十三年(1585年)6月のことです。
秀吉が越中の佐々成政を攻めようとするなか、家康と成政が裏で通じているという噂が立ったのです。
秀吉の人質要求で家中が割れた
もともと佐々成政は、秀吉と折り合い悪い関係でした。
賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いでもことごとく対立し、秀吉は7万もの大軍での越中征伐(富山の役)を進めようとします。
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一方、家康は、小牧・長久手の戦いで成政と共闘。
それだけに両者が通じているという疑いは妥当ともいえ、織田信雄は家康に対して忠告を入れます。
「義伊や勝千世とは別に、重臣からも人質を出したほうがよい」
この動きが秀吉にも伝わると、徳川家に対して臣従の証しを求める催促が強まっていきます。
しかし徳川家は、ドラマでもそう描かれたように主戦強行派がイケイケで一歩も引く気がありません。

本多忠勝/wikimedia commons
一人だけ冷静だったのが交渉役の石川数正。
「人質を出すべきだ」と主張しますが、家中の多くは首を縦に振りません。
本多忠勝や榊原康政といった若手が力をつけ、数正の発言力は相対的に下がっていたとも指摘されます。
真田と小笠原が相次いで秀吉方へ
家中が揉めている間に、信濃でも徳川家の足元が揺らぎ始めます。
まず6月、真田昌幸が徳川家から離れ、越後の上杉景勝を頼りました。
怒った家康は軍勢を送りますが、閏8月の第一次上田合戦で手痛い敗北を喫しています。
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この戦いには続きがあります。
10月になり真田が秀吉に保護を求めると、同じころ信濃の小笠原貞慶までもが徳川家を離れて秀吉に従うようになったのです。
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これが数正にとっては致命的な動きとなりました。
真田の寝返りではなく、小笠原です。
実は本能寺の変のあと、小笠原貞慶が旧領・信濃深志(松本)を取り戻そうとしたとき、家康へ取りなしたのが数正でした。
以来、貞慶の後見役を務めてきたのが数正であり、その貞慶が秀吉方へ走ったのですから、数正の責任も避けられません。
秀吉との融和を説く数正の言葉は、ますます徳川家中で浮いていきます。
10月28日の評議で数正は孤立した
秀吉へ新たな人質を出すのはやめよう――。
天正十三年(1585年)10月28日、徳川家はついにその方針を決定。
同時に、同盟を結んでいた北条家とは重臣同士で起請文を交わし、秀吉への対応を確認し合いました。
秀吉とは手を結ばず、北条と組んで対抗する。
あらためて家中や家康の答えは、石川数正の主張とは正反対となったのです。

徳川家康/wikimedia commons
研究者の柴裕之氏は著書『徳川家康 境界の領主から天下人へ』の中で、この政争での敗北は、数正にとって家中での立場はおろか、石川家そのものの将来が断たれることを意味したと指摘しています。
戦国時代は同じような境遇に立たされた重臣が少なからずいて、こうした場合は新たな仕官先を求めて出奔するか、現状を打ち破るために謀叛に向かうか、どちらかを選ぶしかありませんでした。
そうした状況で石川数正が選んだのが、出奔だったのです。
では数正は、具体的にどのような手順で徳川家から離れていったのか?
数正「徳川家を出ます」
家康「うむ」
なんて展開にはなるわけはなく……。
家族と小笠原の人質を連れて岡崎を去った
天正十三年(1585年)11月13日、石川数正は家族を連れ、岡崎から秀吉のもとへ向かいました。
このとき数正は、徳川家で預かっていた小笠原貞慶の子も連れています。
ドラマでは身一つで大坂城へ現れたような印象でしたが、きちんと計画的に進められたのですね。
研究者の野田浩子氏は著書『井伊直政』の中で、小笠原の人質を連れて岡崎を去った以上、小笠原の離反に影響されての出奔だったことは間違いないとしています。
重臣の突然の出奔――。
徳川家の衝撃は大きく、翌14日には重臣の酒井忠次らが、16日には家康自らが岡崎城に入り、事態の収拾にあたりました。

岡崎城
数正が預かっていた岡崎城は、徳川家にとって三河の要であり、その城代が、内情を知り尽くしたまま敵方に移ったのですから、家康が慌てるのも無理はありません。
秀吉のもとへ移った数正は、やがて秀吉から一字を与えられ「吉輝(よしてる)」と改名。
その後、信濃松本の城主となるまでの歩みについては、以下の記事で詳しく扱っています。
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石川数正の生涯|なぜ秀吉の下へ出奔したのか 豊臣政権の崩壊後はどうなった?
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問題は、数正を失った徳川家です。
重臣に去られた家康は、戦う気をなくしたのか?
それでも家康は秀吉と戦うつもりだった
石川数正の出奔後、家康は信濃に出していた兵をすぐに引き上げさせ、岡崎城の守りを固めました。
さらに三河の東部城(とうべじょう・愛知県幸田町)などで城の普請を進め、秀吉の来襲に備えます。
一方の秀吉も、人質を拒んだ挙句、交渉役まで失った徳川家に対し、「家康成敗」として翌年春の出陣を表明しました。

豊臣秀吉/wikimedia commons
北条と同盟を結び直した家康と、天下人となった秀吉。
もはや両者の激突は避けられない状態に陥ります。
では、そのような状況で、その先はどうなったか?
数正が秀吉のもとへ走ったのは、そんな徳川と豊臣の衝突を避けるためではないか?という見方もありますが、実際は不明であり、だからこそフィクションでは自由に描ける場面であります。
大河ドラマ『豊臣兄弟』第40回放送で描かれると思いますので、またその時に注目しましょう。
なお、今回のドラマで注目された秀吉と茶々の結婚については、以下の関連記事をご覧ください。
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参考文献
- 柴裕之『徳川家康 境界の領主から天下人へ』(2017年7月 平凡社)
- 平山優『徳川家康と武田勝頼』(2023年5月 幻冬舎)
- 野田浩子『井伊直政』(2017年9月 戎光祥出版)






