1625年10月22日(寛永二年9月21日)、中国地方の戦国武将・吉川広家が65歳で亡くなりました。
毛利元就の孫にして、猛将・吉川元春の三男。
それほどの血筋でありながら、広家には「毛利家の裏切り者」というレッテルがつきまといます。
関ヶ原の戦いで、主君の毛利輝元が西軍の総大将を務めていたのに、徳川家康とひそかに通じていたとされるからです。
一方で、こんな美談もよく語られます。
戦後、家康から自分に与えられるはずだった領地を辞退し、その代わりに毛利家を残してほしいと願い出た――。
それが本当なら、広家は裏切り者どころか、主家を救った功労者でしょう。
いったい、どちらが本当の姿なのか?

吉川広家/wikimedia commons
関ヶ原での広家を振り返ってみましょう。
吉川広家はなぜ裏切り者とされたのか
慶長五年(1600年)7月、石田三成らが打倒・徳川家康で立ち上がると、毛利輝元は大坂城に入り西軍の総大将に担がれました。
吉川広家は、毛利秀元や安国寺恵瓊(あんこくじえけい)と共に毛利勢を率いて出陣。
伊勢の安濃津城(三重県津市)攻めなどを経て、9月10日頃には、関ヶ原の東にある南宮山(岐阜県垂井町)に陣を構えました。
その裏で広家は、黒田長政とその父・官兵衛から、家康との和睦勧告の書状を何度も受け取ります。

黒田長政/wikipediaより引用
岐阜城の陥落、安濃津城攻めでの味方の損害、そして家康自身の西上など。
東西両軍の情勢を踏まえて広家は、家康に通じることを遂に決意します。
決戦前日の9月14日になると、徳川家の重臣・本多忠勝と井伊直政からは、広家と毛利家の重臣・福原広俊にあてて起請文(誓約書)が出されました。
主な内容は次の通りです。
◆9月14日の起請文で約束されたこと
・家康は輝元をおろそかに扱わない
・毛利の領国はすべて安堵する
・黒田長政と福島正則も約束を保証する
毛利勢は戦わない。
そのかわり毛利家の領地には手を出さない。
関ヶ原の前日、広家だけでなく福原広俊ともこんな取引が結ばれていたのです。
実際、翌15日の本戦で南宮山の毛利勢は動くことなく、西軍の敗北を見届けて引き揚げました。
総大将サイドの軍勢が一戦も交えずに帰ってきたのですから、西軍から見れば広家は紛れもない裏切り者でしょう。
では、毛利勢を動かさなかったのは、広家ひとりの仕業だったのでしょうか?
毛利軍を一人で止めたわけではない
よく知られた話では、南宮山の最前列に陣取った吉川広家が道をふさいだため、後ろにいた毛利秀元の軍勢は出撃できなかったとされます。
そのため長宗我部盛親らから参戦を催促されても、秀元は「いま兵に弁当を食べさせている」と言い逃れた――。
有名な「宰相殿の空弁当」ですね。

関ヶ原の戦い布陣/wikipediaより引用
しかし、どちらの話も近年は疑われています。
まず空弁当について。
研究者の中脇聖氏は『関ヶ原大乱、本当の勝者』の中で、同時代の史料はもちろん、秀元の死の直前にまとめられた一代記にも出てこず、後世の創作であるという見解を示しています。
もう一つの「広家が道をふさいだ」という話は?
こちらは研究者の光成準治氏が著書『毛利輝元』の中で、吉川家の文書には“山頂から下った最前列に安国寺恵瓊の陣があった”という記述に注目。
広家の陣が最前列だったというのは戦後の広家自身の言い分にすぎないとしています。
同書では、毛利勢が戦わなかったことは恵瓊も黙って了承しており、

月岡芳年が描いた安国寺恵瓊/wikipediaより引用
福原広俊が密約に加わったのも、輝元の意向をくみ取った動きだったと見ています。
西軍が勝ちそうなら山を下りて東軍を叩き、負けそうなら密約で身を守る――輝元は、西軍が敗れたときの保険として広家ルートを使い、南宮山の陣は解かずにおいた、というわけです。
広家ひとりが主家に逆らって軍を止めたというのは、かなり話が変わってきますね。
しかし、そうなると気になるのが、家康に了承されたという「領国安堵という約束」です。
これは一体どう処理されたのか?
家康は本領安堵の約束を反故にした
関ヶ原のあと、話はとんとん拍子で進むかに見えました。
9月17日、黒田長政と福島正則は「家康が毛利輝元を粗末に扱うつもりはない」と伝える書状を輝元に送っています。

毛利輝元/wikipediaより引用
これを受け、輝元は19日付の返事にこう書きました。
【意訳】とりわけ、領国はこれまでどおりとの誓約をいただき、安心しました
出典:慶長五年9月19日付 毛利輝元書状(『毛利家文書』)
さらには25日に藤堂高虎・浅野幸長・黒田長政・福島正則・池田輝政の5人が連名で、忠勝・直政の起請文に偽りはないとまで誓っています。
二重三重の保証を得た輝元は9月25日頃、大坂城の西の丸を出て、木津の毛利屋敷へ移りました。
しかし、です。
その約2週間後の10月10日、徳川家康が輝元に言い渡したのは周防・長門の2か国という大減封だったのです。
戦前に散々交わされた約束は一体なんだったのか?
輝元はそんな話をスンナリ呑み込めたのか?
輝元にも負い目があった
関ヶ原での動きをあらためてチャートで確認しておきましょう。
9月14日:本多忠勝・井伊直政が「領国はすべて安堵」と誓う
↓
9月15日:関ヶ原の本戦で毛利勢は動かず
↓
9月25日頃:毛利輝元が大坂城西の丸を出る
↓
10月10日:徳川家康が周防・長門2か国への減封を言い渡す
領国安泰の言葉を得て、輝元が大坂城をでてからわずか2週間。
約束は反故にされ、約119万石の大大名がわずか2か国約30万石へと押し込められてしまいました。
いったい何が起きていたのか。
毛利輝元が豊臣秀頼を抱えて大坂城に籠もったら危険だ――そんな状況を恐れた家康が、城を出るまでは所領安堵をちらつかせ、その後、約束を反故にしたと光成氏は見ています。

徳川家康/wikimedia commons
そもそも起請文に署名して安堵を約束していたのは、忠勝や直政、長政、正則など東軍の諸将ばかり。
肝心の家康本人は署名しておりません。
しかし、こんな調子では家康のことなど誰も信用しなくなるのでは?
と思いきや、そんな風に反発できない負い目が輝元にもありました。
関ヶ原の裏で、伊予や阿波、豊前などへ兵を送り、東軍大名の領地を奪おうとしていたのです。
家康にしてみれば、減封の口実など事欠かなかったでしょう。
かなり強引ながらも、いざとなれば諸勢力を結集させて毛利家を滅亡させる展開だってあり得るわけで、輝元も黙り込むしかありません。
では、広家が「自身の領地と引き換えに毛利家を救った」という話は、一体どこから出てきたのか?
「広家が主家を救った」という文書は本物か
美談の出どころは、吉川家の岩国藩がまとめた『吉川家譜』の3通の文書です。
それは以下のような内容でした。
『吉川家譜』の3通に書かれた筋書き
◆10月2日付の黒田長政の起請文1通(吉川広家あて)
→毛利輝元は西軍の一味で許しがたいが、律儀な吉川広家には中国地方で1〜2か国を与える、という家康の方針を伝える
◆10月3日付の広家からの書状2通(福島正則と黒田長政あて)
→輝元は首謀者ではないと弁明し、自分が大名になるのは本意ではないとして、毛利家の存続を願う

吉川広家/wikimedia commons
この願いが聞き入れられ、毛利家は周防・長門の2か国で存続できたというのが、よく知られたストーリーですね。
しかし同書によれば、この3通は、後世に作られた偽文書の可能性があるといいます。
理由はいくつかあります。
◆偽文書と疑われる理由
・原本が吉川家に伝わっていない
・広家の書状を受け取ったはずの黒田家にも残っていない
・毛利本家がまとめた記録にも収められていない
・同じ10月3日付で広家らが徳川方に出した別の書状(『福原家文書』)は、毛利の領国がそのまま安堵されることを前提にしていて、2日付の起請文と話がかみ合わない
まるで原本が伝わってないばかりか、岩国藩では『関ヶ原軍記大成』などの軍記に「吉川家の手柄を書き込ませる働きかけまでしていたこと」が明らかとなります。
なぜ岩国藩はそこまでしたのか?
江戸時代の吉川家は、毛利本家から家臣並みの扱いを受け、支藩としての家格をめぐり本家と対立していました。
そこで自分たちの立場を上げるため、
「自ら大名になることを断ってまで本家を救った」
というストーリーを作り上げ、家格を高めようとした可能性が指摘されています。
では、関ヶ原のあと、広家自身はどうなっていたのでしょうか?
関ヶ原後の広家はどうなった?
慶長五年(1600年)11月2日、吉川広家は周防国の玖珂郡と大島郡で、3万4千石余りの領地を受け取りました。
与えたのは家康ではなく、毛利家です。
広家は毛利家の一門として、岩国(山口県岩国市)を拠点とすることになります。
しかし、戦後の広家を待っていたのは感謝ではありませんでした。

岩国城/wikipediaより引用
本家の毛利輝元は、広家とともに密約を進めた福原広俊に対しては、9月19日付で直接お礼の書状を送っています。
【意訳】和睦がまとまったのは、広家とあなたの才覚のおかげであり、めでたいことです
出典:慶長五年9月19日付 毛利輝元書状(『福原家文書』)
一方で、輝元が広家本人に礼を述べた書状は見つかっていません。
福原がその後も重く用いられたのに対し、広家は家中の席次こそ筆頭でも、藩の政治にはほとんど関わらせてもらえませんでした。
慶長六年(1601年)とされる広家自筆の覚書案からは、和睦について世間から批判を浴び、輝元に弁明しようとしていた様子がうかがえます。
そして前述の通り、1625年10月22日(寛永二年9月21日)に逝去。
享年65。
毛利家や江戸幕府から“毛利の家臣”扱いされていた岩国の吉川家が、正式な藩として認められたのは、広家の死から240年以上たった明治元年(1868年)のことでした。
★
広家は、毛利家を確実に救った英雄ではありません。
かといって、私欲で主家を売った裏切り者でもない。
輝元の意向をくんだ可能性もあるなか、敗戦に備えて徳川方との交渉ルートを作り、最後は家康に約束を覆された。
主家からも世間からも報われなかった不運の現実派というのが実像に近いのかもしれません。
なお、広家と同じく関ヶ原で話題になる小早川秀秋や、広家の主君・毛利輝元の生涯については、以下の記事で扱っています。
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参考文献
- 光成準治『毛利輝元 ミネルヴァ日本評伝選』(2016年5月 ミネルヴァ書房)
- 白峰旬編著『関ヶ原大乱、本当の勝者 朝日新書』(2020年6月 朝日新聞出版)
- 笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣 戦争の日本史17』(2007年 吉川弘文館)
- 長谷川泰志「小早川隆景の遺言と安国寺恵瓊」(『広島経済大学創立五十周年記念論文集 下巻』2017年)


