むしろ失敗をバネにして大成功を収めた人物こそ「英雄」と呼ばれるようになるのでしょう。
1805年10月21日は、ナポレオン戦争における最大の海戦・トラファルガーの海戦があった日です。
ナポレオンのイケイケドンドン時代における数少ない大敗として有名ですね。
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ナポレオン戦争の概略
フランス史、そして世界史の中でも、フランス革命~ナポレオン戦争~共和制移行の流れはかなりややこしいですよね。
先に「ナポレオン戦争がどんな流れだったのか」をざっくり掴んでおきましょう。
「勝利」と「敗北」はフランス軍からみたものです。
【ナポレオン戦争 12のポイント】
①1796年~翌年 第一次イタリア遠征&第一次対仏大同盟
・当時オーストリアの支配下だった北イタリアにフランス軍が介入して勝利
↓
②1798年~1801年 エジプト・シリア戦役(エジプト遠征)
・ロゼッタストーン他お持ち帰り&遺跡調査
↓
③1798年 第二次対仏大同盟
↓
④1799年 ブリュメール18日のクーデターでナポレオンが独裁権を握る
↓
⑤一時休戦の後、再び戦争開始
↓
⑥1804年 帝政開始
↓
⑦1805年 第三次対仏大同盟
・トラファルガーの海戦で敗北←今回ここ
・アウステルリッツの戦い(三帝会戦)で勝利
↓
⑧1806年~翌年 第四次対仏大同盟
プロイセンに勝利、大陸封鎖令(ベルリン勅令)を発布
↓
⑨1808年~1814年 スペイン独立戦争
・ナポレオンが無理やり自分の兄をスペイン王位につけようとして戦争開始・敗北
↓
⑩1809年 第五次対仏大同盟
・オーストリアに勝利、賠償金でホクホク
・ナポレオン、ジョゼフィーヌと離婚
↓
⑪1812年 ロシア戦役
夏に出発したのに、てこずっているうちに冬が来て自滅
↓
⑫1813年 第六次対仏大同盟
諸国民の戦い=ライプツィヒの戦い、ナポレオン戦争における最大の戦闘
「○次対仏大同盟」というのは、その都度フランス以外のヨーロッパ諸国が結んでいた軍事同盟と思っておけばとりあえず良いかと。
各国入り乱れすぎてこんがらがるんですよね……。
本当はこの後「百日天下」や復帰戦などもあるのですが、長くなりますのでとりあえずこの辺で。
トラファルガーの戦いへと進みましょう。
大英帝国前日でもイギリスには精鋭艦隊がいた
破竹の勢いでヨーロッパの表舞台に躍り出たナポレオン。
しかし、それは陸上でのことであり、海を渡るにあたってある国が行く手を阻みます。
イギリスです。
当時のイギリスはまだ「大英帝国」と呼べるほどの植民地は持っていなかったものの、海軍にはホレーショ・ネルソン率いる精鋭が揃っていました。
上のまとめでは省略しましたが、ネルソンはナポレオンのエジプト遠征でもフランス軍を破ったことがある名将です。
ナポレオンからすれば、海においてはイギリスに頭を押さえつけられているような感じであり、ネルソンは因縁の相手だったということになります。
そりゃ、どうにかしたいと思いますよね。
そこで、当時フランスの支配下にあったスペインと連合艦隊を結成。
イギリスの本拠・グレートブリテン島上陸のため、戦いを挑んだのが【トラファルガーの海戦】です。
数で言えば、仏西連合艦隊のほうが上でした。
しかし、戦争は兵の数だけで決まるものではありません。
特に、個々人が勝手に動けない海上では指揮官の能力がものをいい、イギリスは伝統的に海軍国家でフランスは陸軍国家でした。
海軍力についてはイギリスの後塵を拝していたわけです。
これをひっくり返すには、相当の準備と作戦が必要になります。
しかもイギリスの指揮官は上記の通り、既にフランスを破ったことがあるネルソンでした。
対して仏西連合艦隊は、指揮官同士の連携が取れていない状況です。
特に、ネルソンに敗れた仏海軍では士官が逃げてしまい、にわか仕込みの後任者ばかり就任する、最悪のシチュエーション。
そんな状態では、いくら数で有利でも勝てないとわかりそうなものですが……ナポレオンとしては、
「一気に海を押し渡り、ブリテン島に上陸してしまえばこっちのもの」
ぐらいに考えていたようです。さすがに楽観的すぎでは……。
まぁ、陸戦では連戦連勝だったナポレオンですから、そう考えるのも無理はないかもしれませんが。
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