ムキムキマッチョが優しい乙女趣味な一面を持っていたり。
外見と内面のギャップは魅力的な個性となり得ますが、戦国時代で言えば公家なんかもそうした対象になりやすいかもしれません。
慶長十九年(1614年)11月25日は近衛信尹(このえ のぶただ)の命日です。
父親は大河ドラマ『麒麟がくる』でも重要な役を担っていた近衛前久。
その息子である信尹の生涯を見て参りましょう。
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摂関家の伝統を潰したと批判される近衛信尹
戦国~江戸時代の公家というと、教科書ではひたすら影が薄いどころか存在しなかったかのような扱いですよね。
しかし、一人ひとりに着目してみると、なかなか面白い人生を歩んだ人もいて、近衛信尹もその一人。
なんせ公的な人生のスタートである元服の際、冠を被せる「加冠役」があの織田信長でした。
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公家にはちょくちょく「信」の字が付く人がおりますが、彼の場合は信長から一字もらったことになっています。
これは時勢上の問題と、小さい頃から父親の近衛前久(さきひさ)と共に地方へ行くことが多かったので、公家同士より武家との付き合いのほうが気軽だったという理由もあるようです。
父の前久は、織田信長や上杉謙信らと親交を持ち、武術にも長けていたスーパー公務員ならぬスーパー公家様でした。
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そんな父親の地位だけでなく能力も授かったのか。
信尹は15歳で内大臣、20歳で左大臣と順調に出世し、その流れで関白の座にも就こうとしておりましたが、ここで暗雲がたちこめます。
日の出の勢いにあった豊臣秀吉&豊臣秀次にその座を譲ることになったのです。
このため信尹は、公家の間で「摂関家の伝統を潰した」とそしられ、孤立して心を病み、27歳で自ら左大臣を辞職することにもなります。つ、つらい……。
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「ならば武士になってやる」と朝鮮出兵に志願
普通の人なら、そのままいろいろな意味で真っ逆さまになるでしょう。
信尹はここで「何がどうしてそうなった」とツッコミたくなるような行動力を発揮します。
なんと、秀吉の朝鮮出兵に際し、名護屋城まで行ってしまったのです。
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「関白になれないならいっそ武士になってやる」と思っていたようです。すごい飛躍ですね……。
当然のことながら後陽成天皇や菊亭晴季(信長と仲良かった貴族)に怒られた上、味方したはずだった秀吉にまで叱られ、結局、薩摩に三年間の流刑となりました(´・ω・`)
29歳のときのことです。
なんだか「遅すぎた中二病」を発揮していた感じですね。
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