1851年10月19日は、マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランスが亡くなった日です。
彼女は、ルイ16世とマリー・アントワネットの娘――つまり「フランス最後の王女」とでも呼ぶべき人。
弟のルイ17世と違って天寿を全うすることはできたのですが、それでも幸せとは言いがたい、過酷な人生を送りました。
それは一体どのようなものだったのか?
マリー・テレーズの生涯を振り返ってみましょう。

マリー・テレーズ/wikipediaより引用
プライド高い王家の娘でも気遣いできる少女
マリーの名前は、祖母であるマリア・テレジアのフランス語形です。
母親のファーストネームと同じなのでややこしいですけれども、以下「マリー」とだけ書いた場合はこの王女のこととさせていただきます。
当時、ルイ16世夫妻には子供がなく、世継ぎとなる男子の誕生が待ち望まれていました。
フランス王室のしきたりに従い、マリー・アントワネットは大勢の立会人の中で娘を出産したのですが、あまりにも人が多かったために余計疲労してしまった……といわれています。
そんな中で生まれたのがお姫様だったので、一部の人には残念がる声もありました。
しかし、国王夫妻が問題なく子供を作れるとわかっただけでも、ひとまずは安心というもの。
そのまま男子に恵まれなくても、ルイ16世には弟が二人いましたので、ブルボン家の断絶が差し迫っていたわけでもありませんしね。

マリー・アントワネット/wikipediaより引用
ルイ16世夫妻の間にはこの後、以下の子供たちに恵まれました。
1781年:長男 ルイ=ジョゼフ
1785年:次男 ルイ=シャルル(のちのルイ17世)
1786年:次女 マリー・ソフィー
ソフィーは残念ながら1歳にもならないうちに亡くなってしまいましたので、マリーは弟ふたりのお姉さんとして育つことになります。
彼女たちはブルボン家とハプスブルク家という正真正銘の王家のハイブリッド。そのためマリーも小さい頃からプライドがかなり高かったといわれています。
しかし、自分の足を踏んだ養育係を気遣って怒らなかったりと、心配りもできる少女だったようです。
マリーは母から「モスリン」というニックネームをつけられ、愛されていました。
モスリンは当時流行していた薄手の布地のことで、マリー・アントワネットもこの布で作った軽いドレスを愛用していました。
通常のドレスと比べてあまりにも簡素なので、貴族たちの中には「下着のようではしたない」とする声もあったようです。
マリー・アントワネットが娘にこの呼び名を付けたのは、軽やかで柔らかい雰囲気からでしょうかね。

幼少期のマリー・テレーズ/wikipediaより引用
ルイ16世もマリー・アントワネットも政治的センスはあまりありませんでしたが、人の親としては優れていました。
マリーは弟たちとともに、両親の愛を全身に浴びて育っていきます。
母のお気に入り画家であるヴィジェ=ルブランも、マリーが母や弟たちとともに過ごしている様子を描いた作品を残しています。
マリーの外見的な特徴としては、肖像画からすると子供の頃は父に似てやや丸顔、長じてからは母によく似た細面です。
身長については「母親ほど高くない」という評価があります。マリー・アントワネットは154cmだったといわれているので、マリー・テレーズは現代基準だと結構小柄ですね。
マリーの大人になってからの肖像画は、細面ということもあって背が高そうに見えます。
革命の波に飲まれた王女
ブルボン家が存続できていれば、マリーもいずれどこぞの王侯貴族に嫁いでフランスとの橋渡しをしたのでしょう。
しかし現実には、家族とともにフランス革命の荒波に飲まれることになります。
革命前夜となる1789年の三部会開催とそれに伴う混乱の中、同年6月4日にルイ=ジョゼフが病死。
マリーはもうひとりの弟ルイ=シャルルとふたりきりの姉弟になってしまいました。
そして同年7月14日に民衆が廃兵院とバスティーユ牢獄を襲撃し、革命が勃発。
同年10月には民衆の食料危機に対応しようとしない王室に対し、激怒したパリの民衆がベルサイユ宮殿を襲撃しました。
これによってマリーを含めた国王一家はパリのテュイルリー宮殿に連行され、ベルサイユには二度と戻れませんでした。

ベルサイユ宮殿の王室礼拝堂
民衆の怒りを買った主因のひとつは王妃が散財しまくっていたことですが、それは主に出産前であり、幼いマリーは知る由もないこと。
なぜ民衆がこれほどまでに怒りをぶつけてくるのか、彼女には理解できなかったでしょうし、両親や近臣たちも語らなかったと思われます。
また、バスティーユ襲撃からぴったり一年経った1790年7月14日の「連盟祭」で、ルイ16世は「憲法に従う」ことを宣誓しており、民衆と手を取り合う姿勢を見せていました。
ルイ16世としてはある程度の自由と権力が残るのであれば……という考えだったのかもしれません。
ヴァレンヌ事件
1791年6月、徐々に自分たちの権利が縮小されていくことに耐えきれなくなったルイ16世夫婦は、一家での亡命を計画します。
お膳立ては旧知の仲であるスウェーデン貴族フェルセンの手で行われ、テュイルリー宮殿脱出からほんの数時間はうまく行きました。
しかし、馬車の手綱をとっていたフェルセンが道に迷ったり、護衛とうまく合流できなかったことなどから旅程が遅れに遅れ、結果としてヴァレンヌという村で民衆に見つかってしまいます。
そして憎悪の視線の中、マリーたちはパリへ連れ戻されることに……。

ヴァレンヌからパリへ連れ戻される国王一家/wikipediaより引用
亡命未遂となったこの【ヴァレンヌ事件】を「国王に裏切られた」と受け取った民衆は、もう容赦しません。
マリーたちはタンプル塔という狭い牢獄に一家揃って押し込められてしまったのです。
とはいえ、ここでは両親や弟、そして叔母のエリザベートと間近に過ごすことができ、家庭生活としては悪くなかったとされています。
マリーとルイ=シャルルは両親や叔母から勉強を教わったり、歌を歌ったり、裁縫をしたりしていたとか。
おそらくはそうした子供たちを見て、大人たちも励まされていたことでしょう。
特にエリザベートは一家を支え励まし、洗濯までしてくれていたので、マリーも励まされたと思われます。
しかし1793年1月に父ルイ16世、同年10月に母マリー・アントワネット、1794年5月に叔母エリザベートと、近しい人々が次々に処刑されていきました。

ルイ16世/wikipediaより引用
そして、唯一残った肉親である弟ルイ17世(ルイ=シャルル)とも引き離されることになります。
ルイ17世は下の階にいたため、泣いている声がマリーの部屋まで聞こえてきていたとか。
彼の惨状を考えると、それを聞いていたマリーも相当辛かったでしょうね……。
叔母エリザベートの遺品である毛糸で編み物をしていたことや、カトリックを厚く信仰していたことが彼女の正気を保たせたといわれていますが、心の支えがあったとしても、たった一人でよく耐えたものです。
この頃マリーは10代半ばになっており、精神的にもだいぶ成熟していたからでしょうか。
母マリー・アントワネットの遺言書にも、娘について触れている箇所はありません。
「子供たちを残していくのが気がかりです」といったように、ルイ17世と一緒に言及されている部分はあるのですが。
母親は息子に目が行きがちだから・幼い息子のほうがより気にかかったからであって、「娘のことはどうでもよかった」ということではないと思いたいところです。
「娘はもう大きいし、気丈だから私が心配しなくても大丈夫」と考えていたのでしょうか。
遺言書はエリザベート宛だったのですけれども、検閲に引っかかって彼女には届きませんでした。
エリザベートも程なくして処刑されたためか、どこかのタイミングでロベスピエールの元に渡り、彼が処刑されるまではそのままになっていたようです。
そしてルイ18世に渡されたといいます。
捕虜との交換でオーストリアへ
ここで少し、当時のフランスやヨーロッパの状況を見てみましょう。
フランス革命は、ヨーロッパの多くの国々に「民衆の力への懸念」を抱かせました。
王政がスタンダードだった当時、自分の国でも同じような革命を起こされたらたまらないからです。
そのため武力でフランスを押し込めようとした国が多々あり、当然、フランス革命派はこれに対抗するために兵を集めようとします。
しかし、この時点で革命が盛り上がっていたのは、パリを始めとした都市部のみ。
農村部からすれば、「なんか都会の方で物騒なことになってるけど、ウチには関係ないよね?」といった雰囲気がありました。
フランスは一応「フランス王国・ブルボン家」のもとで統一されてはいたのですが、地方ごとの特色や言語がまだまだ残っており、パリとは精神的に隔絶されていたのです。
そのため革命派が「外国に対抗するため徴兵だ!」と言い出したとき、農村部の人々は反発。
「なんでウチと関係ない革命のために人手を取られないといけないの???」
こうした対応になったのには、もう一つ理由があります。
革命派があまりにも旧体制の否定・脱却を急ぎすぎて、革命に従わないカトリックの聖職者をとっ捕まえたり処刑したりしていたことです。
当時の庶民の生活にとって、教会と聖職者はなくてはならないものでした。毎日の時報の鐘や、冠婚葬祭の際は必ず教会の世話になっていたのです。
日常の生活習慣が「都会で勝手にやっている革命とやら」のためにぶち壊されたのですから、そりゃ地方の人々が怒るのも当然のことです。
そんなわけで、1793年3月にフランス西部のヴァンデ地方で大規模な反乱が発生。
続いて革命派の中でもジャコバン派vsジロンド派の争いが起き、ロベスピエールが実権を握ります。

ロベスピエール/wikipediaより引用
ロベスピエールは自分の立場を確立するため、反対派を次々に処刑していきました。
ろくに裁判もしないわ、処刑される人に同情しただけで罪人にされるわで、当然ロベスピエールへの反感も高まります。
そしてロベスピエールも1794年のテルミドールのクーデターでギロチンに送られ、ようやく革命の波が収まり始めます。
力だけでは事を収束できないどころか、かえって大きくしてしまったという皮肉な結果でした。
そしてテルミドールのクーデターに加わっていたポール・バラスという貴族により、マリーとルイ17世の待遇が改められることになりました。
バラスによってルイ17世は医師の診察を受けたり、新たな心ある世話人をつけられたりしましたが、時既に遅し。1795年6月8日に亡くなっています。
マリーにも1795年7月に新しい世話役の夫人がつけられました。彼女はマリーの境遇を気の毒に思い、マリー・アントワネットやエリザベート、そしてルイ17世の最期を知らせたといいます。
もちろんそれはマリーにとって大きな衝撃でしたが、「ブルボン家の生き残り」としての矜持を持たせることにもなったようです。
そして同じ頃、フランス政府とオーストリア皇帝・フランツ2世との間で
「マリー・テレーズとフランス人捕虜の交換」
が合意され、同年12月にマリーは母の故郷であるオーストリアへ向かいました。マリー17歳のときのことです。
女性であったことと、フランツ2世は母方のいとこだったことが幸いしたと思われます。男子だった場合は、弟と似たような運命をたどったかもしれませんね……。
流浪の王女、しかし矜持は失わず
マリー・テレーズに対し、フランツ2世は比較的優しくしてくれました。

フランツ2世/wikipediaより引用
しかし、ナポレオンの動きや世間の情勢により移動を余儀なくされ、マリーはロシア・スウェーデン・イギリスを渡り歩きました。
ここからマリーは、ほぼ一生流浪生活を続けることになります。
流浪生活で唯一良かったことは、父方の従兄ルイ・アントワーヌ(アングレーム公)とロシア領内で結婚したとき、叔父のルイ18世から両親の形見の結婚指輪を受け取れたことでしょうか。
豊かで幸せだった時期を思い起こして、余計に辛かったかもしれませんが。
ロシア皇帝・パーヴェル1世もマリー夫婦に同情したのか、ダイヤモンドや金、防寒具などを贈ってくれています。
が、やはり情勢の変化によりロシアにもいられなくなり、次はワルシャワへ行くことになりました。
フランスから近いプロイセン=ドイツ一帯にブルボン家の人間を入れることは、ナポレオンを刺激することになるため、もう少し遠くて当時プロイセン領になっていたポーランドへ行くことになったのです。
この処置には、プロイセン王妃ルイーゼが骨を折ってくれています。

プロイセン王妃ルイーゼ/wikipediaより引用
ルイーゼは大のナポレオン嫌いであり、マリー・アントワネットの幼なじみの娘でもあったため、力を貸したいと思ったのでしょうか。
ワルシャワではマリーがカトリック信者であったことなどが幸いし、それまでと比べてかなり良い暮らしができたようです。
余裕ができた分は他のフランス亡命貴族や修道院への支援に回していたといいますから、この辺は母譲りの優しさや「ノブレス・オブリージュ」かと思われます。
が、そのうち人が増えすぎてお金が足りなくなり、パーヴェル1世から送られたダイヤモンドなどを売らねばなりませんでした。
その後は、再度ロシアに行った後、スウェーデン経由でイギリスへ向かうことになりました。
イギリスではロンドンの北東にあるバッキンガムシャーという地域の城を借り、やっと落ち着くことができました。
ロンドンの社交界にも参加し、多少なりとも穏やかに暮らせたようです。
また、マリーはイギリス滞在中、35歳のときに一度だけ妊娠したことがあります。
しかし流産してしまい、その後再び子供を授かることはありませんでした。
現在でも高齢出産になる年齢ですから、当時はかなり難しかったでしょうね……夫婦仲は良かったそうなのですけれども。
とはいえ、女系でもブルボン家の血を直接引く人がいるとなれば、王党派の旗頭にされかねません。特に男子だった場合には。
この後の世界情勢やマリーの立場を考えると、どちらが幸せだったのかよくわかりませんね……。
ナポレオンいわく「ブルボン家唯一の男性」
母国フランスに戻れたのは、ナポレオンがロシア戦役に敗れた後、1814年のことでした。
ナポレオンによって出世した人々には心を許さず、苦難をともにした人々だけを信じていたといいます。そりゃそうだ。
また、このくらいの時期から弟ルイ17世を名乗る人物が現れ、マリーに面会を求めてくるようになったそうです。
マリーはその誰とも会おうとはしませんでしたが、やはりどこかで生きていて欲しいと思っていたらしく、あちこちの関係者に弟の行方を問い合わせています。
結局、検死を行った医師が亡くなってしまったため、彼女がルイ17世の心臓を受け取ることはできなかったのですが……。

ルイ17世/wikipediaより引用
ナポレオンがエルバ島から脱出してからの「百日天下」の際は、ブルボン家の軍に向かって大演説をしてみせたともいいます。
これを評したナポレオンいわく「彼女はブルボン家唯一の男性」だとか。皮肉なのか讃えてるのかどっちなんでしょうね。
ちなみに、母マリー・アントワネットも、革命が起きてテュイルリー宮殿に国王一家が幽閉されていた頃に
「国王のそばにいる男性は王妃だけだ」
と言われたことがあります。
やはり心身ともによく似た母娘だったようですね。
ちなみに、「百日天下」の際、当時の国王ルイ18世はとっとと亡命してしまっていました。
この人はヴァレンヌ事件の際別方向へ逃げていたこともありますし、「機を見るに敏」と言えば、一応褒め言葉になりますかね。
1824年には義父がシャルル10世としてフランス王になり、繰上げでマリーの夫が王太子に。当然マリーも王太子妃となりました。
しかし、シャルル10世は絶対王政の時代に戻すかのような政策を数多く実施したため、1830年に七月革命を起こされ、退位させられてしまいました。
これまた当然のことながら、マリーたちもその地位を失うことになります。
その後はイギリスに向かった後、フランツ2世を頼って当時オーストリア領だったプラハへ引っ越しました。
さらにモラヴィア(チェコ東部)を経てゴリツィア(イタリア北東部)に移り住み、ここで義父と夫を看取っています。
こうしてマリーは亡くなるまで王族としては質素な生活が続き、1851年肺炎で亡くなりました。73歳でした。
長寿ではあるものの、本来は生活苦などという言葉は文字の上ですら知らないような身分の人です。
時代の激動に翻弄され続け、ひとつところに落ち着くこともできなかったと思うと、彼女が可哀想過ぎますね……。
彼女のお墓はイタリアのゴリツィアというところにあるようです。
ルイ16世とマリー・アントワネットの棺、そしてルイ17世の心臓はフランスのサン=ドニ大聖堂にありますので、一家のうち彼女だけが死後も離れ離れということなんですよね。
夫がゴリツィアで亡くなっているので、夫婦揃っての埋葬を選んだのでしょうか。
もしも実家の家族と一緒に葬られたいのであれば、そのような遺言を残したでしょうし。
あわせて読みたい関連記事
-

無実の罪で処刑されたルイ16世|なぜ平和を願った慈悲王は誤解された?
続きを見る
-

理不尽なマリー・アントワネットの処刑「パンがなければ」は完全に誤解
続きを見る
-

ルイ17世マリー・アントワネットの息子が10歳で迎えた凄絶な最期とは?
続きを見る
-

人類史で2番目に多くの首を斬ったアンリ・サンソン 処刑人の苦悩
続きを見る
-

まずは廃兵院を襲撃|フランス革命の始まりはバスティーユ監獄に非ず
続きを見る
【参考】
池田理代子『フランス革命の女たち〈新版〉―激動の時代を生きた11人の物語―』(→amazon)
両角良彦『反ナポレオン考―時代と人間 (朝日選書)』(→amazon)
ほか





