宝暦四年(1754年)4月14日は、宝暦治水事件における最初の犠牲者が発生した日です。
インフラ整備である治水工事で「犠牲者」というのもピンとこない話ですが、当時の社会事情や技術的な問題が絡みあっての悲劇でした。
順を追って、経過をみてみましょう。
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長良川・木曽川・揖斐川が複雑に……
この件に大きく関わる治水工事が行われたのは、現在の岐阜県にある長良川・木曽川・揖斐川(いびがわ)です。
通称「木曽三川」とも呼ばれますし、地理の授業で「これが三角州だよ」「堤防で囲ってあるところが輪中だよ」なんて例に挙げられたりするので、写真をご覧になると「あ、見たことある」と思われる方も多いでしょう。
また、長良川は戦国時代において斎藤道三・斎藤義龍父子が争った「長良川の戦い」でも有名ですね。
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三つの川が合流と分岐を繰り返す、大変複雑な地形のところです。
現代ですらこうですから、江戸時代やそれ以前はいうまでもありません。
それだけに幕府も放っておけず、たびたび工事を命じています。
これは地元の人々のためだけではなく、「工事には金がかかるから、藩の力を削げて一石二鳥だぜ」という理由もありました。
江戸時代も中頃になると、どこもかしこも財政は火の車。
それでいて戦をやる気力も技術もほぼ失われていますから、ある意味経済的な争いに移行していたわけです。
裏に「藩の力を削ぐ」という目的があるわけですから、当然真っ先に狙われるのは外様の大藩です。
その次が親藩の中でアヤシイところ、外様で逆らいそうなところ……という感じになっていきます。
そして、宝暦治水事件の際、この工事を言いつけられたのは薩摩藩でした。
御公儀であれば逆らえず、歯噛みする思いで向かった
全国第二の大藩ですし、加えて関が原の戦い以来、幕府にとってはうまく舵を取りたい相手です。
藩主の島津家は鎌倉時代以来、ずっと薩摩の地を領していますから、徳川家より由緒正しい家と見ることもできます。
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そりゃ、幕府からすれば目の上のたんこぶですよね。遠国だったのが幸いしましたが。
しかし、薩摩藩も決して懐に余裕があったわけではありません。
むしろ、随一の遠国として、参勤交代で莫大な費用がかかっていました。
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大河ドラマ「篤姫」でも、江戸に行くまでの道のりが非常に長いことは描かれていましたね。
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それでも「ご公議である」と言われれば参勤交代だろうが、よその工事だろうが、従わなければなりません。
なにか不手際があれば藩主、もしくはお家が罰されるのは目に見えています。
薩摩の人々は、歯噛みする思いで見も知らぬ木曽三川に向かったことでしょう。
地元では「藩主様だけじゃ無理っていうし、公方様何とかしてくだせえ」(※イメージです)という声がたびたび上がっていたので、決してポッと出てわいた工事ではなかったのですが。
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