天正元年(1573年)8月28日、浅井長政の居城である小谷城が落城しました。
浅井氏が滅びるこの合戦の結果、運命が劇的に変わった意外な人物がいます。
海北友松です(かいほうゆうしょう)。
武家としての生き方を望みながら、絵師として名を残した、友松の生涯を振り返ってみましょう。

海北友松/wikipediaより引用
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海北友松は浅井氏家臣の出だった
海北友松は、お父さんが浅井家の家臣でした。
三男とも五男とも言われており、食い扶持を減らすためでしょうか、幼少のころから寺に預けられています。
そうこうしているうちに、浅井家が滅亡。

浅井長政/wikipediaより引用
友松は父や兄たちが皆死んでしまったため、家を再興するため40歳で還俗したといいます。
しかし、お家再興はそうそううまくはいきません。
友松は歯噛みし『何とか実力者と交流を持つための方法はないか?』と考えました。
そこで思いついたのが、連歌や絵画などの文化的な技術を身につけ、名のある武将たちと知り合うきっかけをつくることだったのです。
友の亡きがらを奪い取るカブキぶり
彼は当時広まりつつあった「茶の湯」にも親しみ、明智光秀の家臣・斎藤利三(さいとうとしみつ)などの武将や東陽坊長盛(とうようぼうちょうせい)といった僧侶と親交を結ぶことができました。
特に利三とは仲が良かったらしく、光秀が滅びた後は処刑された利三の遺体を「ダチを返さんかい!!」と槍を振るって奪い去り、手厚く葬ったという説もあります。

『堅田浦の月』の斎藤利三(月岡芳年『月百姿』より)/wikipediaより引用
芸術修行もしたとはいえ、やはり元は武家ですから、武家として家を再興したい――。
どうしようかと再び悩む友松に、決断させたのはその頃天下人になっていた秀吉でした。
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「お前、絵を描くほうが向いてそうだからそっちに集中しろよ」
秀吉が友松の気持ちを知っていたかどうかはわかりません。
が、皮肉なことに手段が目的になってしまいます。
友松は納得いかなくても、相手が天下人ですからその命令には逆らえませんでした。
友松の作品「雲龍図」は建仁寺にあった
絵画の道に生きた友松は、数々の名画を生み出していきます。
でもやはり本望ではなかったのか「オレ、やっぱり芸術家よりも武家として生きたかったよ。年取っちゃったけど、まだどこかにチャンスないかなあ」なんてボヤキが残されています。
未練を抱えていながらも、重要文化財級の絵画を描けたのですから、秀吉の見立ては当たっていたのでしょうね。
そんな友松のお墓は、京都の建仁寺というところにあります。
友松の作品のひとつ『雲龍図』が有名ですね。

建仁寺雲竜図
ここは教科書や資料集によく載っている『風神雷神図』もあるお寺です。

建仁寺の『風神雷神図屏風』(絵・俵屋宗達)/wikipediaより引用
ちなみに、友松のお墓の隣には親友・斎藤利三のお墓もあります。
「オレが死んだら、友達の隣に墓を作ってくれ」と言い残していたそうです。
雲竜図などの名画は、もしかすると利三供養の意味もあったのかもしれませんね。
本望ではなかったものの、人に見出されて立派な作品を残した友松。
我々凡人から見たら羨ましい限りですが……。
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参考
- 『国史大辞典』(吉川弘文館, 書籍版刊行: 1979–1997, 全15巻17冊)
ジャパンナレッジ: 公式ページ - 京都国立博物館「桃山の絵画」
リンク (最終閲覧日: 2025年8月28日) - 「海北友松」『ウィキペディア日本語版』(最終閲覧日: 2025年8月28日)
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