明智光秀が本能寺の信長を襲うと決めたとき、最初に打ち明けた重臣が四名いると言われています。
明智左馬助(秀満)、斎藤利三、藤田伝吾……そして今回の主役となる明智光忠。
光秀の従兄弟とされる人物です。
この光忠、丹波八上城を任されるほど信任の厚かった武将ですが、彼もまたナゾ多き明智一族の人物。
前半生の記録は暗闇の中にあり『明智軍記』をもとにした推定の話が多くなります。

明智光秀/wikipediaより引用
その点を踏まえながら生涯を振り返ってみましょう。
明智光忠もまたハッキリしない前半生
明智光忠は、光秀の叔父・明智光久の子として生まれたとされます。
ただし出典が江戸時代の軍記物(小説)である『明智軍記』のため、確証は得られません。同書には、虚偽や誤りがあることをご理解ください。
なんせ「明智光忠」という名前すら確実なものではなく、「明智次右衛門」とか「高山次右衛門」という別名で史料に記載されることもあるほど。
その上で話を進めますと、光忠の父・明智光久は、光秀の後見人であった明智光安と共に美濃の明智城を拠点に活躍していたと言われます。
光安とは、大河ドラマ『麒麟がくる』で西村まさ彦さんが演じられた武将であり、その息子が明智左馬助という設定でしたね。

「湖水渡り」で知られる明智左馬助(歌川豊宣作)/wikipediaより引用
一説によれば、光久も斎藤道三に仕えており、弘治2年(1556年)に道三とその息子・斎藤義龍が争った【長良川の戦い】では、どちらの勢力につくかの判断を迫られました。
最終的に、光秀の叔父・光安が「日和見」を決定。
明智城に籠城すると、その対応を義龍に許されることはなく、明智城は攻め込まれてしまいます。
結果、敗北。
寡兵の明智勢はよく戦いながらも、光安、光久が討死してしまいました。
このとき光秀も死を決意しておりましたが、事前に光安や光久が制止し、彼らの息子である明智秀満や明智光忠の将来を託したという有名なエピソードもあります。
明智光忠の活躍については、この後、光秀が信長に仕えるまで有力な史料には登場しません。単純に考えれば、光秀の従兄弟として付き従ったのでしょう。
そうなると光秀と共に越前・朝倉義景を頼ったと考えられますが、

朝倉義景/wikipediaより引用
これも『明智軍記』を典拠とした話で真偽の程は不明。
単に、越前領内で臥薪嘗胆の時を過ごした可能性もあります。
丹波攻略戦の後 八上城を任される
明智光忠の名前が史料上に登場するのは、すでに光秀が織田信長の重臣として活躍していた天正5年(1577年)のことです。
当時、丹波国の攻略を任されていた光秀は、京都の亀岡に「亀山城」という平山城を建造。
丹波攻略の拠点であるだけでなく、将来的には丹波地方全体の中心として重要な役割を果たす城になります。
そしてこの城の守備を任された人物として光忠の名前が浮上してきます。
このような要衝に配置されるということは、すでに光秀の信頼が厚かったことを窺わせますね。
系図類においては、光忠が光秀の従兄弟であるだけでなく、光秀の次女を妻としていたという記述も見られ、二人の間には単なる主従以上の関係があったとも考えられます。
光秀の丹波攻略戦は、光忠ら家臣の貢献もあり無事に勝利で幕を閉じました。
丹波を征服した光秀には丹波一国がそのまま与えられ、織田家の筆頭家臣としての地位を確立するのです。
光忠も、戦で滅亡に追い込んだ波多野氏の居城であった八上城を任されており、依然として有力な家臣であったことがわかるでしょう。

光忠に任せられた八上城(高城山)/wikipediaより引用
光秀の謀反を相談され共に天下を目指した
重臣としての地位を確立した光秀。
天正10年(1582年)6月に、突如として信長を裏切り【本能寺の変】を引き起こしたことは皆さんもご存じでしょう。
光秀の動機については現代でも特定されていませんが、彼はことを起こす直前に信頼の厚い重臣4名に計画を打ち明けたといいます。
前述のとおり
◆明智左馬助(明智秀満)
◆斎藤利三
◆藤田伝吾
そして光忠といった顔ぶれです。
彼らの間でどのようなやり取りが交わされたかについては想像で補うほかありません。

『月百姿 月下の斥候』の斎藤利三/wikipediaより引用
ただ、本能寺の変を引き起こすことができたということは、彼らの同意を取り付けたのが事実と見て間違いないでしょう。
そして、天正10年6月2日未明。決行の時がやってきました。
いざ本能寺へ!
日付は前日の夜。
本能寺の信長は家臣らと語り合った後、彼らと別れて寝所へ入ったと言われています。

織田信長/wikipediaより引用
そこへ未明になって、乱入したのが光忠や秀満、利三らの家臣。
当時、本能寺の周辺にはほとんど兵力が残っておらず、夜襲は極めて効果的でした。
襲撃のとき、肝心の光秀は現地におらず、約8km離れた鳥羽にいた――というニュースも出ておりましたが、信頼できる家臣団が圧倒的大軍で本能寺を囲んでいれば問題なしと判断した可能性もありますね。
◆光秀、本能寺には行かず? 金沢の古文書、家臣の証言(→link)
結果、信長はアッサリと自害に追い込まれたとされ、その後継者で既に家督を継いでいた織田信忠も自害を余儀なくされます。

織田信忠/wikipediaより引用
こうして戦勝を収めた明智勢でしたが、ご存知のとおり彼らの天下は長くは続きません。
中国地方から舞い戻った羽柴秀吉によって窮地に追い込まれ、まもなく【山崎の戦い】で敗れました。
光秀は、戦場から逃走する際、落ち武者狩りに遭い、亡くなったと伝えられます。
一方で光忠は、山崎の戦いに参加することはできなかったとも伝わります。
本能寺へ攻め込んだ後、織田信忠が籠る二条御所を攻撃したときに負傷したというのです。
戦に参加することはなかった光忠。
そのもとに「光秀が敗れた」という知らせが入りました。
燃え盛る坂本城を見ながら……
この時点で光忠は、自身および明智家の末路を悟ったでしょう。
彼は「死に場所」を求めるようにして、本拠であった坂本城へ。
たどり着くと、死を前にして城の天守へ火を放ちました。
ただし、城に火を放ったのは明智秀満であるという記載も残されており、放火の主は誰なのか、いまいちハッキリしておりません。
いずれにせよ、燃え盛る坂本城を眼前に光忠が亡くなったことは間違いないでしょう。
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なぜ光秀が築いた坂本城は織田家にとって超重要だった?|軍事経済面から徹底考察
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一世一代の大勝負に参加できず、力を出し切ることがないままこの世を去ることになった光忠。
最期にド派手な逸話を残した左馬助(秀満)に比べるとやや地味な印象もぬぐえませんが、重臣として明智家を支えました。
彼がどのような心情で焼け落ちていく坂本城を眺めていたのでしょうか。
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【参考文献】
谷口研語『明智光秀:浪人出身の外様大名の実像』(→amazon)
小和田哲男『明智光秀・秀満(ミネルヴァ書房)』(→amazon)
渡邊大門『明智光秀と本能寺の変(筑摩書房)』(→amazon)
「明智光秀の親族・家臣団と本能寺の変」『女性歴史文化研究所紀要』18巻(京都橘大学女性文化研究所)田端泰子
明智光忠/wikipedia






