会津恵日寺焼き討ち事件

会津恵日寺金堂(復元)/wikipediaより引用

蘆名家

政宗の会津恵日寺焼き討ち事件1589年|絶対に焼いてはイケない寺を焼いた

2024/12/23

戦国大名といえば、戦乱ドタバタの中で寺社を焼いてしまう&宗教と対立する――そんなイメージがあるものです。

織田信長の比叡山しかり(※誇張があるようですが)。

松永久秀の大仏殿しかり(※完全に冤罪ですが)。

一向一揆の討伐しかり(※長島や三河が有名ですね)。

そういったイメージがあまり無い伊達政宗にも、同様の歴史があったのです。

ただし、政宗の場合は、他の武将と違って、本人が調子に乗っていたきらいがあり、

『嗚呼、なんてコトしてくれてんだよ……』

と目を覆いたくなるような顛末になってしまいます。

天正17年(1589年)6月5日に勃発した【摺上原の戦い】で蘆名に大勝すると、その勢いで会津の恵日寺(えにちじ)という寺を焼いてしまったのです。

百歩譲って他の寺は良しとしても(もちろん良くはありませんが)、恵日寺だけは手を出したらアカン!

そんな場所で、なぜそんなことに?

伊達政宗/wikipediaより引用

恵日寺の歴史と政宗のやらかしを遡ってみましょう。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

 


最澄 vs 徳一の「三一権実諍論」

空海と最澄といえば、日本史の授業でもおなじみの存在ですよね。

そんな彼らに対抗した、平安初期仏教・第三の男をご存知ですか?

その名は“徳一(とくいつ)”。

9世紀初頭、名だたる僧侶たちと熱い論争を繰り広げていた法相宗の高僧です。

当時、奈良の法相宗は、唐帰りの最澄がもたらした天台教学に完全に駆逐されていました。

「法相宗はじめ南都仏教は旧仏教で時代遅れ、もうおしまいになるよ♪」

なんて言われて黙ってられんわ!

と、奈良の僧侶たちが望みを託したのが、東大寺や興福寺で修行を積んだ徳一だったのです。

最澄vs徳一、両者の対決を

『三一権実諍論』さんいちごんじつ の そうろん

と言います。

知名度から言って、最澄が一蹴した圧勝に思われますか?

最澄/wikipediaより引用

いえいえ。この論争、実に数年、一説によれば12年も続いているのです。

論旨を短くまとめると、こんなところ。

最澄:人は誰でも仏になれます。

徳一:いや、資質があるでしょ。そんなに簡単に仏になれるなら、苦しい修行は無意味じゃありませんか。

かくしてお互いが書物に記して議論を行っていたのですが、問題は、二人の距離。

実はこの徳一、会津の恵日寺にいました。

ご存知、最澄は比叡山での修行をもとに延暦寺を開いた僧侶ですから、普段は京都のすぐお隣、近江にいる。

それでも互いに譲れない性格であったようで、激しく宗論が交わされたんですね。

 


空海は華麗にスルー

では、最澄よりも柔軟な空海の場合はどうだったか?

徳一が議論をふっかけて『真言宗未決文』を送ると、これをおだてつつ無視するという高度な戦術を取るのです。

弘法大師空海/wikipediaより引用

さすが天才児・空海さんですね。

「すごいっ、徳一菩薩!」

そうおだてつつ、論争を受けて立たずにスルーするんです。

この論争ですが、いずれも徳一が敗北しています。

彼が論理破綻していたから敗ればのではありません。

・弟子がいない

・彼の思想の後継者がおらず、著作も散逸してしまった

・恵日寺が地方の一寺院であるため、どうしても知名度や力で劣る

彼が奈良にいれば周囲のバックアップも強力ですし、そう簡単に負けることもなかったでしょう。

なれば、こんな疑問が湧いてきませんか?

「なぜ徳一は、都から遠く離れた会津などに恵日寺を建立したんだ?」

答えは【被災地復興】です。

 

磐梯山の水蒸気爆発で被災した

ときは807年(大同2年)。

徳一は会津で布教をしておりました。

その理由は806年の【磐梯山噴火】です。

磐梯山

磐梯山は水蒸気爆発による噴火を起こし、山体崩落を伴い、近隣エリアに大規模な被害を与えたのです。

同山では、1888年の噴火が有名ですが、それまでの記録が少ないだけで、807年にもおそるべき被害があった爪痕が残されています。

実際、磐梯山近辺には、大きな岩が多数残されています。

◆磐梯山ジオパーク(→link

そんな被災地に、仏教の教えで安寧をもたらしたいと考えたのが徳一でした。

僧侶だけに当たり前だと指摘されるかもしれませんが、頭脳明晰な高僧であれば京周辺での活動も可能だったはず。

そうではなく遠い被災地を選んだ徳一、まさに人格者と言っていいでしょう。

彼が開いた恵日寺は、会津地方において僧や修験者が信仰を守る、民たちの心情的にも大切な場所となっていたのです。

そう。

そんな大事なお寺を、前述の通り伊達政宗は焼き払ってしまったんですね……。

恵日寺の歴史は、なかなか波乱万丈です。

◆天正17年(1589年)「摺上原の戦い」に勝利した伊達勢が会津へ侵入。近くにあった恵日寺も炎上する。金堂を残して全焼失

◆寛永3年(1626年)金堂焼失。再建されたものの、かつての勢いはない

◆明治2年(1869年)廃仏毀釈によって廃寺

政宗に焼かれただけでなく、明治時代にも廃寺とされています(1904年に復興)。

復元された恵日寺金堂/photo by Qwert1234 wikipediaより引用

ともかく「被災者救済」という寺の成り立ちや、最澄や空海と並ぶ徳一の功績を考えれば

――絶対に焼いてはいけない寺だった――

という主張もご理解いただけるでしょう。

 


政宗はトラウマ

政宗の擁護も少しだけしておきましょう。

戦国時代、寺とはただの信仰の場所でもありません。

僧兵もおりますし、食料や物資を備蓄できます。

焼き払う側には理由があって、要は【軍事拠点】と見なせたのですね。

恵日寺(えにちじ)近辺には、蘆名家臣を弔う碑や、蘆名家臣・金上盛備(かながみもりはる)の墓等が残されております。

※以下は「金上盛備」関連記事となります

金上盛備
金上盛備の生涯|伊達vs蘆名のキーマンとなった戦国武将が摺上原に散る

続きを見る

そこには戦国の息吹が残されています。

◆恵日寺跡(磐梯町HP→link

◆三忠碑(会津情報館→link

◆金上盛備の墓(観るナビ→link

もちろん焼かれた寺社や周辺の住民からすれば知ったことではない。

地域のシンボル・恵日寺炎上。

やったのはアイツか……というわけで、会津地方での政宗はトラウマとして残されております。

ところによっては

『さんさ時雨』を歌ってはならぬ!

とさえ伝わっているとか。

なぜならこの歌には、

「伊達政宗や伊達成実が蘆名家に勝利してウェーイ!」

と、はしゃいで作ったという説があるんですね。

複数の説があり真偽はハッキリとしませんが、ともかく会津ではNGなのです。

 

怪僧・天海も蘆名に縁ある出自だった

最後に蛇足ですが……。

会津からは、伝説的な高僧がこの時代に輩出されております。

南光坊天海です。

南光坊天海/wikipediaより引用

「田舎から、そんな偉い僧侶が出てくるっておかしくない?」というバイアスでもあるのか。

南光坊天海の出自については、明智 光秀説や足利将軍落胤説まであるほど。

当然デタラメであり、天海の出自が蘆名家に関わりのあることだけはほぼ確定しております。

恵日寺のことを考えれば、不思議でも何でもありません。

2019年現在、会津美里町が天海生誕の地とされております。

【参照】◆会津美里町観光ポータルサイト(→link

蛇足ですが、天海がモデルのゆるキャラ「あいづじげん」もおりますよ。

【参照】◆ゆるキャラグランプリ公式サイト(→link

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【参考文献】
林哲『芦名四代(歴史春秋社)』(→amazon
林哲『会津芦名一族(地方・小出版流通センター)』(→amazon
野口信一『会津ちょっといい歴史(歴史春秋出版)』(→amazon
遠藤ゆり子『東北の中世史4 伊達史と戦国騒乱(吉川弘文館)』(→amazon
高橋充『東北の中世史5 東北近世の胎動(吉川弘文館)』(→amazon
遠藤ゆり子『戦国時代の南奥羽社会(吉川弘文館)』(→amazon

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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