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【蘆名盛隆】
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段々と二階堂家に肩入れを始める
当初は【御館の乱】が終わったばかりの上杉家へ工作をしたり。
信長と連絡を取って朝廷から官位を受ける斡旋をしてもらうなど。
蘆名盛隆も、時勢に対して敏感に動いていました。
ところが、次第に実家である二階堂家を再興させようと動き始めてしまいます。
当然、蘆名氏の家臣たちからすれば面白くない話。
「元は人質だったくせに生意気な!」と思われてしまうのも自然の流れでしょう。
現代でいえば、
「創業者一族の直系が絶えてしまったので、同業他社からの入婿だった専務が社長になった。だが、今の会社より実家の会社が有利になるように動き始め、株主会議でフルボッコになった」
みたいな感じでしょうか。
これがもう少し落ち着いた時代であれば、よくある御家騒動の一つくらいで済んだかもしれません。
しかし、ときは群雄割拠の戦国時代。
家中が乱れれば、それは即座に他家へ隙を晒すことになります。
この場合は、上杉家が真っ先に横槍を入れてきました。
直江兼続などの手により、葦名家臣への調略が行われ、蘆名家は内乱状態に陥ってしまうのです。
伊達家を頼ろうとしたら政宗が当主に
蘆名盛隆はこれに対し武力での解決を図りました。
しかし、です。
黒川城で寵臣にブッコロされてしまうのです……って、あまりに呆気ない。
幸い息子・亀王丸はいたものの、まだ生後一ヶ月の新生児ですから、当然、家中の采配などできるはずがありません。
そのため、亀王丸の母である彦姫が実家の兄・伊達輝宗(政宗のトーチャン)を頼って、家を守ることにな……ったつもりが、伊達家の方でも代替わりしてしまい伊達政宗が当主になりました。
そして伊達家は蘆名家と戦う事を選んだのです。
更に……苦境に陥った最中に亀王丸が幼くして疱瘡で死亡。
もうどうにもならない不幸のオンパレード状態に陥りました。
当然「蘆名家の名跡を誰が継ぐか?」という話が周辺の大名の間で持ち上がります。
具体的には、政宗の弟である伊達小次郎と、佐竹義重の次男・義広が火花を散らすのでした。
大名として復帰するも関ヶ原で西軍につき
最終的に蘆名氏を継いだのは義広です。
しかし、摺上原の戦いでは政宗が勝利を得て、宿願の領地分捕りに成功。
これについては秀吉が「ワシが惣無事令出した後になにドンパチしてくれてんの?」(超訳)と奪われた旧蘆名領を取り上げたため、一応蘆名家は大名に復帰しました。
が、関ヶ原で西軍側についたので、また領地を没収されています。
義広は「盛重」と名を改めて実家に戻りましたが、息子たちが立て続けに亡くなって血筋も家名もまた絶えてしまいました。
ここまでくるともはや「何の呪い?」ってレベルですね。
ただし、蘆名氏の別系統の血筋である針生氏が伊達家に仕えて存続しているので、一族全滅というわけでもありません。
こちらは仙台藩四代・伊達綱村によって、蘆名氏への改姓を許されています。
養子を迎えてでも名を保とうとした本家が滅んで、地道にやっていた分家筋が旧姓に復したことになるわけです。
家名を残せただけ良かったというべきでしょうか。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
阿部猛/西村圭子『戦国人名事典(新人物往来社)』(→amazon)
蘆名盛隆/wikipedia
蘆名氏/wikipedia
二階堂氏/wikipedia