歴史的に見て、ある集団の中に「すごくデキる人」がいた場合、だいたい二つのパターンに分かれます。
ガンガン引っ張って、集団全体が急成長するか。
周囲が、そのデキる人頼りになって堕落するか。
どちらといえば、後者になってしまうことが多いですかね?
今回は戦国時代にあった、そんな感じのお話です。
天文二十四年(1555年)9月8日は、朝倉宗滴(そうてき)が亡くなった日です。
文字通り同家のキーパーソン、あるいは大黒柱ともいうべき存在。
本来なら頼もしい話ですけれども、彼の活躍が、良くも悪くも後の朝倉家の運命を決めてしまったのではないでしょうか。
家督捨て「実力あるNO.2」に徹した朝倉宗滴
「宗滴」は出家後の名前で、本名は「教景」といいます。
ただ、同名の人物がいるため「宗滴」と呼ばれることが多く、当記事でも「宗滴」で統一させていただきますね。
宗滴が生まれたのは、文明九年(1477年)のことでした。
この三年前という説もありますが、いずれにせよ“応仁の乱が始まってしばらく経ち、戦国時代に突入した頃”という理解でよろしいかと。
父親は、当時の朝倉家当主・朝倉孝景。

朝倉孝景/wikimedia commons
宗滴は、その八男という生まれ順でしたが、一時期、父と同じ幼名を名乗ったり、通字である「景」の字がつけられたり。
幼き頃には「将来の当主」になることを期待されていたようです。
しかし、父が亡くなったとき宗滴はまだ年齢一ケタの少年だったため、長兄の朝倉氏景が跡を継ぎました。そりゃそうだ。
少年時代にはその辺に関して悩んだこともあったと思われます。
20代の頃には諦めがついていたようで、23歳のときに妹の夫である敦賀城主・朝倉景豊に謀反を相談されたとき、当主・朝倉貞景に打ち明けて景豊を自害に追い込み、敦賀城主になっています。
宗滴が謀反に乗らなかったのは、既に嫡子扱いだった時点から20年以上経過しており、下克上するにも家臣の層に不安があったからだと考えられています。
そのため、宗滴は家督相続にこだわるのをやめ、「実力のあるナンバー2」として朝倉家で重きをなすことを選びました。
九頭竜川の戦いで加賀の一向一揆勢を迎え撃つ
これ以降の宗滴は、事実上の当主と言っても過言ではない働きをしていきます。
働きすぎて詳述に困るほどでして。
例えば永正三年(1506年)、加賀の一向一揆勢が越前に南侵してきたときに、朝倉軍を指揮して敵を迎え撃ったのも宗滴でした。
発端は、当時、室町幕府の管領だった細川政元。
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本願寺と親密だったため、政元が「ちょっと地方でウチを敵視してるヤツ叩いてくれない?」と要請したことから始まります。それで呼応する本願寺も本願寺ですが……。
一向宗のターゲットは、越中の長尾家や能登の畠山家など、北陸の大名たちが攻撃の対象となっていて、朝倉家も無関係ではいられなくなったのです。
北陸一帯の一向一揆勢が越前へ侵攻してくると、宗滴は朝倉家と他宗派の信者たちの連合軍を率いて迎撃しました。
本合戦を、戦場となった川の名を取って【九頭竜川の戦い】と呼ばれています。
一揆軍は朝倉軍の数倍はいたとされますが、やはり武家と一般人混じりの信者たちとでは戦闘に対する年季が違い、最終的には朝倉軍が勝利を得ました。
浅井ー朝倉ラインを構築し、後の織田家にも影響
その後も他家への援軍やよその戦の調停などで活躍、宗滴は家中だけでなく他家や室町幕府からも一目置かれる存在となりました。
特に近江の六角家と浅井家の調停をしたことで、浅井家から深く信頼され、両家は固く結びつくことになっていきます。
これが後々、朝倉義景&浅井長政と織田信長の時代に強く影響してくるんですね。

朝倉義景/wikimedia commons
朝倉宗滴は、その後も三代に渡って朝倉家の当主を支え続けましたが、さすがに寄る年波には勝てません。
天文二十四年(1555年)7月、加賀一向一揆と戦っている最中、病に倒れてしまいました。
それでも一日で城三つ落として、ジーちゃん、ほんとに有能すぎ。
死期を悟った宗滴は、義景のいとこである景隆に軍を任せ、朝倉家の本拠である一乗谷城に帰還します。
そして病気療養に努めますが、さほど日を置かずに亡くなってしまいました。
「信長がどうなるか見てみたかった」という先見性
上記の通り、宗滴は事実上の朝倉家当主かつ有能すぎたため、彼の死後、朝倉家は見事に転がり落ちていきました。
宗滴自身も「自分が死んだら、誰に仕事を任せるべきか」という視点がなかったようですので、そこはマズかったですかね……。
にしても、なぜこれほどまでに有能な方が、後継に関する視点を見落としてしまうのでしょう。
忙しすぎるから?それとも口出しすべきではない、とか考えたのですかね。
その一方で、宗滴は亡くなる直前に「できればあと三年生きて、織田信長がどうなるかを見てみたかった」と言っていたなんて話もあります。
宗滴最晩年の頃の信長というと、傅役の平手政秀に自害されたあたり。
つまり、まだまだ世間的評価は「尾張のうつけ」だった頃です。
その状態で信長に注目していたということは、宗滴が才覚ある人を見抜く目を持っていたことになるでしょう。
信長の舅(濃姫の父)である斎藤道三が「我が家の子供たちは信長の前に馬を繋ぐことになるだろう」と言ったというエピソードがあるように、「朝倉家に人材がいなさすぎて諦めた」なんてことはない……ハズです。
もしそうだったとしても、最低限の引き継ぎはすべきですしね。
【桶狭間の戦い】が永禄三年(1560年)ですから、このときまで宗滴が生きていたとしたら80代。
不可能ではない年齢です。
その場合、信長は浅井家にお市の方を嫁がせるのと前後して、宗滴との交渉を進め、浅井・朝倉両家を傘下に収め、史実より少し早く上杉家とぶつかっていたかもしれません。
IF続きになるのでこの辺で終わりにしますが、
【信長with道三】
ならぬ
【信長with宗滴】
ってのも、ワクワクしますね。
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【参考】
国史大辞典
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
朝倉宗滴/wikipedia





