北条氏政/wikipediaより引用

北条家

北条氏政はなぜ最期まで秀吉に反抗したか? その生涯53年【戦国北条五代記】

勝てば官軍負ければ賊軍――。

その評価が最も辛辣にくだされるのが、御家を滅ぼしてしまった戦国武将でしょう。

生涯の事績を見れば、決して無能とは言い難いのに、最後の一手を誤ってしまったがために、現代においては愚将扱いされてしまう。

最たる例が北条氏政ではないでしょうか。

北条早雲から始まり、北条氏綱、氏康へとバトンが渡された後北条氏五代の四代目・氏政。

その実態は、単なるボンボンではなく、偉大だった父・氏康の跡を継ぎ、関東に覇権を確立させた名将とも言える存在です。

秀吉に滅ぼされてしまったがゆえに凡愚の烙印を押されがちな氏政ですが、果たして生前はいかなる功績があったのか?

北条氏四代目・北条氏政の生涯に注目してみましょう。

 

北条氏政の出自と彼を支えた優秀な兄弟衆たち

北条氏政は、天文8年(1539年)ごろに北条氏三代当主・北条氏康の次男として誕生しました。

母は氏政正室の瑞渓院。
彼には北条氏親という兄がいたため、当初は嫡男という扱いを受けてはいません。

ところが天文21年(1552年)に兄の氏親が16歳の若さで亡くなってしまい、氏政が彼に代わって嫡男となります。

歴代の当主候補が名乗る「新九郎」の仮名を背負った氏政は、その後、筋書き通りに家督を譲られることとなりました。

ここで注目したいのが「兄弟衆」の存在です。

氏政が北条氏四代当主となってから、政治・軍事の両面で中心的な役割を果たしたのが、氏政の四人の弟たちでした。

三男・北条氏照
四男・北条氏邦
五男・北条氏規

彼等が北条家臣として活躍するのです。

さらに、「兄弟衆」として活躍することはなかったものの、六男にして氏政の異母弟である上杉景虎も重要な人物。
上杉氏の家督争いである「御館の乱」に北条氏が介入する際のキーマンになってくるので、名前だけでも覚えておいてください。

かくして氏政は父と母の残した兄弟たちとともに、猛者ひしめく関東地方において存在感を発揮していきます。

 

家督継承当時は限定的な役割にとどまるが

永禄2年(1559年)、氏政は父から家督を譲られ、北条氏四代当主として活動を開始します。

しかし、この家督継承には、ある理由がありました。
数年前から続く飢饉による領国の疲弊を受け、危機的状況に対応するため「新たな王」を形式的に用意したのです。

なぜこんなことをするのか?
というと、代替わりの「徳政令」を実施することにより、領民の不平不満を解消するのですね。

実際、就任の翌年、氏政の名において「領域に対する徳政令」が出され、名目的な当主の交代が重要であったことが理解できます。

つまり、氏康にしてみれば、上記の家督継承について「本当はもう少し後になってから家督を与えたかったんだけど…」という心もちであったと推測され、その証拠にしばらくは氏康が中心となって政治・軍事を主導しました。

この間を通じて、氏政への政権移譲は少しずつ実施。
家中は図らずも「氏政の北条氏当主研修期間」のような状況になっていたと考えられます。

そして家督継承からおおよそ6年ほど経過した永禄8年(1565年)、氏政の活動量や活動内容が氏康を上回るようになり、同年末から彼は戦に出陣しないようになっていきます。
氏康が実質的な隠居状態になったことを示しており、いよいよ氏政が北条氏当主としての歩みをスタートさせていくことになります。

 

謙信の猛攻をしのぐも今度は信玄が裏切り

とはいえ戦国期ですから、氏政の「見習い当主」も決してラクではありません。

なんせこの頃の北条氏は上杉謙信の侵攻を受けており、永禄4年(1561年)には一家の歴史上初めてとなる本拠・小田原城への攻撃を許してしまいます。

このときは謙信の攻勢をしのぎ切って撤退へと追い込み、その後、謙信へ協力した国衆を各個撃破していくことで優位性を確立。
関東での争いは地の利もあって、変わらず北条氏が一歩リードする形となりました。

氏政が本格的に家督を継承したのはちょうど上杉氏に対して優位な局面を迎えたこの段階であり、彼は父の路線を踏襲して謙信と対立するつもりであったことでしょう。

しかし天文23年(1554年)、突如、周辺のバランスが崩れます。

「甲相駿三国同盟」によって同盟関係にあった武田氏が、同じく協定を結んでいた今川氏真へ攻め込んだのです。

同盟相手が同盟相手に攻め込む――。
実質的な家督継承直後に舞い込んだ難題に、氏政は頭を抱えたかもしれません。

結局、彼は武田を捨て、今川への味方を決断し、同盟の証として武田氏から迎えていた正室・黄梅院を離縁して、甲斐へと送り返さなければなりませんでした。

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また、武田氏との対立が決定的になったことで、これまでしのぎを削っていた上杉氏が彼らと敵対していることに注目。
「敵の敵は味方」理論で永禄12年(1569年)には越相同盟を成立させます。

同盟締結に際しては「関東管領職」や「領土の割譲」および先に触れた「上杉景虎を養子として謙信のもとへ送る」など、氏政側が大幅な譲歩を強いられましたが、「全ては武田と戦うため!」と甘んじてこの条件を受け入れます。

ところが北条氏は、武田氏との抗争において、謙信からの支援を満足に得られません。

結果として謙信にしてやられた氏政は、武田信玄の猛攻によって危機的状況へと陥ってしまいます。

 

氏康の死をキッカケに武田と和解

謙信から期待した支援を引き出せず、信玄には戦で後れを取る状況にあった元亀2年(1571年)。
これまで三代目として絶大な存在感を放っていた父の北条氏康が亡くなりました。

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偉大なる父の死を転機とし、氏政は外交の大転換を決断。
先に結んだ謙信との越相同盟を破棄したうえで、武田氏との甲相同盟を復活させます。

極秘裏に進められた交渉の結果として持ち上がった同盟の再締結は「仰天プラン」ともいうべきもので、同盟の目途が立つと氏政は氏邦に命じて上杉氏との間に協力関係破棄を知らせあい、武田氏との間では国境の策定および分国の相互不可侵を約束しました。

甲相同盟の復活は関東全域の勢力図に大きな変化をもたらし、北条氏は関東で上杉に味方する勢力との対決に臨むこととなります。

氏政は武蔵北部の木戸氏・深谷上杉氏・簗田氏らに対する攻略を進め、元亀3年(1572年)には氏政自身が出陣して攻撃を加えるほど力を入れていました。

また、並行して佐竹氏・結城氏・小山氏・宇都宮氏といった北関東の反北条勢力にも圧力を加えたことで、多くの敵を相手に戦を強いられます。

さらに、こうした勢力の救援要請に応じた謙信がふたたび関東へと侵攻してきたことで彼らの対処も懸念事項として浮上。
しかし、謙信の南下については首尾よくこれをしのぎ切り、彼はまたもや北条攻めを完遂することなく帰国を余儀なくされました。

 

父・氏康が重要視していた関宿城を確保!

謙信が北条攻めに本腰を入れなかったこともあり、氏政は、ある拠点をターゲットにしました。

父・氏康が「ここを落とすことは一国を得ることに等しい」として攻略を目論んでいた簗田氏の本拠・関宿城せきやどじょうです。

この時期には謙信の関心が関東を離れており、加えて上杉方の諸勢力にも内部分裂が発生したため、彼らの攻防はいったん北条氏の勝利という形でひと段落。
関宿城の制圧にも成功します。

その後も謙信の後ろ盾を得た里見氏・佐竹氏といった関東諸勢力との抗争は継続しますが、天正3年(1576年)ごろになると、これまで猛威を振るっていた謙信の関東進出がさほどの効果に繋がらなくなり、この翌年を最後に、上杉は同地域の攻略を諦めるようになります。

謙信という強力なライバルの猛攻を見事に乗り切った氏政。
そこには、後世で伝えられているような「暗君」としての面影を見出すことはできません。

一方、北条氏という強大な勢力に対して各個で立ち向かうことの困難さを痛感していた北関東の諸勢力は、佐竹氏を中心に「反北条」を合言葉として互いに姻戚関係を構築することで協力してこれに対処していきます。

これに対し、氏政も天正6年(1578年)には、東北の伊達氏や蘆名氏と連携する「遠交近攻」策によって佐竹氏攻略を本格化させますが、反北条勢力の粘り強い抵抗に決定的な攻勢を仕掛けることができず、にらみ合いの末に停戦しての退却を余儀なくされました。

 

上杉の後継争いに介入

北関東勢力の攻略に苦戦するさなか、これまで抗争を繰り広げてきた上杉氏が大きな転換点を迎えます。

天正6年(1578年)に一家の大黒柱である謙信が急死。
その後継争いである【御館の乱】が勃発したのです

家督の座を狙ったのは、謙信の養子たち二人でした。
一人は長尾政景の息子である上杉景勝で、そしてもう一人が、氏政の異母弟であり、上杉家に養子入りしていた上杉景虎でした。

春日山城での対立が避けられない情勢になると景虎は実家の縁を頼って氏政に救援の要請を出し、彼もこれに応じる構えを見せますが、氏政本人は北関東制圧に手を焼いているさなかであり、本格的な救援を行う余裕はありません。

それでも弟の頼みを邪険に扱わなかった氏政は、同盟関係にあった信玄の後を継いでいた武田勝頼に出兵を要請するとともに、弟の北条氏邦らに命じて上杉方の北条高広や長尾憲景といった勢力を調略。
彼らを「北条軍先鋒」として越後へ派遣しました。

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先鋒の戦力は景虎方の諸将とともに戦を優位に展開し、9月には越後上田荘まで侵入していきます。
氏政は現状で確保している拠点の維持を命じるとともに、来年の氏政自身による出兵を約束しました。

ところが、ここで景虎・氏政にとって想定外の事態が発生してしまいます。それは……。
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