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今川家

花倉の乱で義元&雪斎コンビが福島家に勝利! そして今川家の相続へ

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花倉城を攻撃

こうなっては義元も引き下がるわけには行きません。

そもそも嫡流である彼が引く理由はありませんしね。

こうして福島家と愉快な仲間たちは、今川家の本拠・今川館へ攻め込み、見事に追い返されます。

義元は、参謀の太原雪斎にも助けられ、さらに後北条氏の支援を受けて6月10日に福島家をはじめとした反乱側のこもる方ノ上城を攻撃。

太原雪斎が今川家と義元を躍進させる~黒衣の宰相と呼ばれた参謀僧侶

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これを落城させると、兄・玄広恵探がいた花倉城を攻め、徹底的に追い詰めました。

花倉城の案内/photo by 戦国未来

そのためこの乱は「花倉の乱」と呼ばれているわけですね。

ちなみに『麒麟がくる』で伊吹吾郎さんが演じられていたのが太原雪斎ですね。

 

わずか半月で決着 福島家は読み間違えた?

恵探は攻め込まれたときに花倉城から逃げ出し、付近の寺で切腹しました。

当時の福島家の当主が誰だったかもはっきりしないので、恵探が家を継ぐ意思を持っていたのかどうかもよくわかりません。

が、首を取られるよりは自ら腹を切ることを選んだあたり、やはり武家の人という感じがしますね。

この乱、上記の通りたった半月程度で勝負がついてしまっているのですが、福島家はそもそもどこに勝算があって兵を挙げたのか?

それを考える時、にわかに浮上してくるのが今川義元サイドについた太原雪斎です。

栴岳承芳せんがくしょうほうを名乗っていた義元を幼き頃より教育し、跡目相続にあたって還俗させ、さらにはこの花倉の乱で共に戦ったのです。

もちろん太原雪斎は僧侶ですから槍働きではなく、また詳細な記録も残っておりませんが、彼の前後の関わりからして大きく影響したのは間違いないでしょう。

義元はこの後、武田信玄(当時は晴信)と北条氏康との【甲相駿三国同盟】にも深く関わっていたとされ、その手腕が今なお高く評価されております。

福島家としてはこの義元&太原雪斎コンビの力量を見誤ったのではないでしょうか?

なお、今川義元の生涯や太原雪斎の詳細については、以下にも記事がございますので、よろしければ併せてご覧ください。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
『戦国武将合戦事典』(→amazon link
『戦国僧侶列伝 (星海社新書)』(→amazon link
花倉の乱/Wikipedia

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