正保二年(1645年)5月19日は、剣豪として名高い宮本武蔵が亡くなった日です。
本名は「玄信(はるのぶ・げんしん)」で、本稿では通例に従って「武蔵」で統一。
有名な逸話が多い人ですので、本日はちょっと視点を変えて、彼の生涯を追ってみましょう。
武蔵のことは本人の著書『五輪書』を元に創作されている点が多いのですが、生い立ちについてはサッパリ手がかりがありません。
ただし、武蔵が長じた後の行動から、逆行して生い立ちを探ることはできそうな気がするのです。

宮本武蔵/wikipediaより引用
では、本題へ移りましょう。
生年が知られ身分の高さが窺える
武蔵の生年は天正12年(1584年)。
父は新免夢二斎といい、竹山城主・新免伊賀守に仕えた武将でした。
別の説では、播磨の赤松氏に連なる一族・新免家に生まれ、新免無二斎のもとに養子で入ったともあります。
そんな武蔵が五輪書を書き始めたのは……これが一気に飛びまして寛永二十年(1643年)のこと。
その冒頭でいきなり「年積もりて六十」と記しています。天正十二年(1584年)生まれというのはそこからわかるんですね(数え年なので一年ずれる)。
では、天正十二年はどんな年だったか?
と言いますと【本能寺の変】からまだ二年後。
豊臣秀吉と徳川家康(&織田信雄)が【小牧・長久手の戦い】で争った年でもあり、戦国時代が収束に向かいつつあった頃です。

豊臣秀吉(左)と徳川家康、両雄の対決/wikipediaより引用
収束に向かっていたとはいえ、まだまだ混乱が続いていた頃のことです。
それでも武蔵が本人の年齢を知っているということは、誰かに「お前は何年(ごろ)の生まれだよ」と言われたことがあったのでしょう。
戦国時代は大名の子女ですら、生年がわからないということはザラにあります。
それを考え合わせると、武蔵はそこそこいい家や立場で生まれたのではないでしょうか。
吉岡、宝蔵院流、柳生流
『五輪書』によると、武蔵は13歳までに剣術を修め、その後29歳まで60回以上の決闘に勝利したとされます。
初めて斬り合いをしたのも13歳のとき。
相手は有馬喜兵衛という新当流の使い手で、武蔵の一刀で決着は付きました。
それからは漫画『バガボンド』をなぞるように
・吉岡清十郎
・吉岡伝七郎
・吉岡又七郎
を倒し、続いて
・宝蔵院流の槍
にも勝利。
・宍戸某の鎖鎌
・夢双権之助
・柳生流の大瀬戸辻風
辺りとも戦いました。
時系列順でいくと、この「60回の勝利」に入るか入らないか……という時期に、あの【巌流島の決闘】が行われたようです。
巌流島
巌流島は、正式名称を舟島といい、当時は船の難所として知られていました。
秀吉が船でここを通るとき座礁したところ、毛利家に助けられたという逸話があるくらいですから、相当のものだったでしょう(おそらく、毛利元就の孫である毛利秀元が、秀吉に気に入られた時のことだと思われます)。
そんなところでわざわざ決闘をするあたり、物好きというかなんというか……。
小次郎との対決にあたって武蔵は「わざと遅刻してイライラさせて勝利した」というエピソードが有名ですが、実際にはそんなことはなかったという説が最近では出ていますね。
武蔵の養子である宮本伊織が建立した顕彰碑【小倉碑文】に同時刻に立っていたことが記されているのです。
ただし、そこには「佐々木小次郎」の名もなく、チョットややこしいことになっており、詳しくは以下の記事をご覧ください。
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巌流島の戦いでの遅刻も「たけぞう」の名も吉川英治が広めた話なり
続きを見る
次に武蔵の動きがハッキリするのは、大坂の陣です。
徳川家康の従兄弟にして、戦国随一の暴れん坊・水野勝成――その息子である水野勝俊の配下となって活躍しました。

水野勝俊/wikipediaより引用
その後、水野家の家臣から武蔵の養子になった人もいるので、家全体と親密な付き合いがあったようです。
これにしたって、剣の腕だけでいきなり大名の跡継ぎにつけられる……というのは、ちょっと考えにくいですよね。
まあ、勝成の気性からすると「お前強いから気に入ったわ」というのもありえますけれども。
ちなみに勝俊はものすごくいい人なんですが、父親も部下もこんな感じでインパクトが強すぎるため、影が薄くなってしまっています。
姫路や尾張にお呼ばれしたかと思ったら
その後は大名の間で名が知れ渡ったものか。
姫路城主・本多忠刻(本多忠勝の孫)の下で町割・作庭を行ったり。
尾張藩の家老に弟子を紹介してやったり。
訪れた先の大名に養子を出仕させたり……ある意味かいがいしく働いております。
顔の広さとフットワークの軽さ、知名度がかなり上がっていたことがうかがえますね。
その後、一度は江戸にも出てきていたようですが、何をしたのか具体的にはわかっていません。
吉原の遊郭を作った人の記録に「島原の乱に行く前は江戸にいたんだってよ」(意訳)という記録があるだけなので、

「島原御陣図」/wikipediaより引用
何か目的があって江戸に来たわけではなかったのかもしれません。
吉原のお偉いさんの一人が武蔵の弟子だったらしいので、それに関連してのことでしょう。
島原の乱では、養子の出仕先である小笠原忠真の下について、討伐軍に加わりました。
忠真の甥・長次の後見役ということですから、武働きよりも戦略・戦況に関するアドバイザーとしてつけられたものでしょうか。
戦後、「一揆軍の投石で怪我しちゃいました」(意訳)という手紙を有馬家に送っているので、完全に後方にいたわけでもなさそうですが。
細川藩で七人扶持・合力米300石
その後、九州の雄となった細川忠利に招かれ、かなり良い待遇を受けています。

細川忠利/wikipediaより引用
七人扶持・合力米(こうりょくまい)300石というものです。
「◯人扶持」というのは、一日あたりに与えられる米の量を指します。
一人一日5合で換算しますと、武蔵は一日35合=3.5升もらっていたことになります。日払いではないので、実際にはもっとまとまった量でもらうのですけれども。
これだけあれば人を雇うことも可能なので、「◯人扶持」=「◯人の家来を持つ身分」と考えることもあります。
合力米とは、不幸やお祝いなどで臨時に物入りになった際に与えられるボーナスのようなものです。
というわけで、武蔵の場合は「定期収入は概ね七人扶持分のお米で、何かあった時に合力米300石も貰えた」ということになります。
また、この他に屋敷と鷹狩りの許可ももらっています。忠利気前良すぎ。
父の遺志を反映して、忠利の子・光尚も同じ待遇にしたとか……細川重賢が聞いたら「ソレ、将来のために貯金しといてよ」と言いそうですね。
いや、武家として達人にそれなりの待遇をするのは当たり前でしょうか。
「地・水・火・風・空」
厚遇を受けたからなのか。
それともそろそろ腰を落ち着けようと思っていたのか。
亡くなるまで武蔵は熊本藩内で過ごしました(享年62)。
絵画に手を出したり、五輪書の執筆を始めたのもこの頃です。

宮本武蔵作『枯木鳴鵙図』
それまで武一辺倒だった人にいきなり絵心が芽生えるとは思えませんし、五輪書の章のタイトルも武蔵の教養の高さがうかがえます。
特に水墨画が得意で海北友松の影響を受けた画風ともされています。

『海北友松夫妻図』/wikipediaより引用
ご存じの方も多いと思いますが、五輪書は前書きと【地・水・火・風・空】の五つの章で成り立っています。
現代人、特にゲーマーからすると何の違和感もありませんが、武蔵の生きていた時代からすると割と斬新なタイトルです。
というのも「地・水・火・風・空」はインドのヴァーストゥ・シャーストラという学問にある考え方なのです。
よく似たものに中国の五行(木・火・土・金・水)がありますが、よく見ると2つしか共通していません。まあ、土=地ととらえることもできますが、その辺はとりあえず置いておきましょう。
ヴァーストゥ・シャーストラがいつ頃日本に伝わったのかは定かでないのですが(調べが甘いだけだったらスミマセン)、もしも武蔵が本当に「出自が全くわからない一般人」として生まれていたら、どこでそんな知識を得ることができたのでしょう?
そこから考えると、武蔵が自分の出自に関して全く書き残していないことが、とても怪しく思えてきません?
となると、何らかの理由で自分の出自を隠したかったのでは……という可能性も無きにしもあらず。
なんせ近い時代の史料ですら矛盾する点が多々あるという人なので。
今後研究が進むかどうかはわかりませんが、何か新しい史料が見つかったら面白い人の一人でしょうね。
一番ありえそうなのは「実は大名の落胤でした」というパターンですけれども、はてさて。
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【参考】
国史大辞典
歴史群像編集部『日本剣豪100人伝』(→amazon)
宮本武蔵/wikipedia
ヴァーストゥ・シャーストラ/wikipedia
五輪書 宮本武蔵の名言(→link)




