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【清玉上人】
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秀吉は阿弥陀寺を処分した?
結局、信長の遺体を見つけることができなかった光秀。
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程なくして、噂を聞きつけた秀吉が阿弥陀寺へやってきました。
明智光秀を討ち取った武功に加え、自分が喪主となって信長の葬儀を大々的に執り行わなければ、名実ともに信長の後継者としてアピールできる可能性が出てきます。
しかし、清玉上人はこれに真っ向から立ち向かいました。
「私共のほうでご葬儀は執り行いました。秀吉殿が改めてご葬儀をなさるには及びません」
秀吉は法要料などを献じて取り込もうとしましたが、清玉上人はこれも辞退。
さすがは信長や正親町天皇が帰依した僧侶ですね。
秀吉は激怒しながら諦め、大徳寺で葬儀を執り行いました。
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そして天下人になった後は、阿弥陀寺の所領を減らしたともいいます。
これが本当だったら小者すぎですが、実際その後の阿弥陀寺は、決してラクとはいえない状況になりました。
江戸時代になってから、森家の末弟である森忠政が津山藩に封じられた後、毎年6月2日に法要を営んでいたようですので、多少は持ち直したと思われます。
信長のためというよりは、忠政の兄たちのためだったかもしれませんが。
忠政の義理の孫の代に百年忌も行っていますから、それなりに長く付き合っていた様子です。
大正時代の宮内庁は正式に認定
しかし、二度火災に遭って信長の遺品類がほとんど焼けてしまい、森家もその後改易されたため、阿弥陀寺はまたしても困窮してしまいます。
大正時代に宮内庁の調査で
【阿弥陀寺の信長公墓所は正式な廟所である】
と認められて現在に至っているので、江戸中期~明治時代の間もどこかから庇護を受けていたとは考えられます。
さて、清玉上人が信長を弔ったことに始まるこの一連の話、皆さんはどう思われます?
一番の疑問は以下の点でしょう。
◆明智軍に取り囲まれた中で信長の遺体を外へ持ち出し、焼くことなどできるのか?
敵の手に渡らぬよう、信長の家臣が手伝ったとされていますが、大軍に囲まれた状況でそんな余裕などないように思えます。
もちろん混乱の最中ですから、何があっても不思議ではありません。
この記録も本能寺の変の直後に記され、秀吉など近い時代の人々の認識などから、それなりに信憑性があるとの評価もあるようです。
その一方で、原書は一度焼失して書き直されて、史料的価値は薄いとの見立てもあります。
うーーーーーん、歯切れ悪くてすみません。
まぁ、あくまで「そういった話もあるんだね」ぐらいで考えておくのが良さそうです。
いずれにせよ、光秀の動機と併せて、信長の遺体論争は、今後いつまでも我々を悶々とさせてくれそうですね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
『史籍集覧 信長公阿弥陀寺由緒之記録』
京都観光NAVI(→link)
本能寺の変/wikipedia
阿弥陀寺_(京都市上京区)/wikipedia