鬼柴田や鬼美濃。
あるいは甲斐の虎や表裏比興の者など。
戦国武将には個性あふれるアダ名が数多ありますが、自分のことを
【悪右衛門尉(あくえもんのじょう)】
と言い切ったツワモノがいたことをご存知でしょうか?
丹波の猛将・赤井直正(荻野直正)――。
この男こそ、織田家にあって出世街道を爆進していた明智光秀を苦しめ、一時は地元の丹波から明智軍を追い出した剛の者であります。
時には【丹波の赤鬼】と呼ばれることもあった赤井直正。

絵・中川英明
その命日は天正6年(1578年)3月9日となりますが、彼は一体どんな武将だったのか?
生涯を辿ってみましょう。
赤井直正 自ら悪右衛門尉と称する
赤井直正は享禄2年(1529年)、丹波地方(現在の京都府付近)の豪族・赤井氏の一族に生まれました。
当時の丹波は守護の細川氏が頂点に君臨していたものの、それはあくまで名目上の話。
応仁の乱以降、細川の勢力は陰りを見せており、ここで最初に台頭してきたのが、守護代の内藤氏一族です。
彼らは細川氏から実権を奪い取り、さらにこの内藤氏を破ったのが今回登場する赤井直正の赤井氏でした。
赤井氏は、同じく下克上でのし上がった波多野氏一族と共に、丹波の実力者として知られるようになります。
直正は、当時実権を握っていた赤井時家の息子として生誕。
次男だったため、赤井氏と同族関係にあり、黒井城を本拠とした荻野氏という一族の養子に出されます。
このため近年の研究では、彼を「赤井」ではなく「荻野(おぎの)」とすることも増えています。
荻野氏に仕えていた頃の詳細は不明ですが、一説では外祖父の荻野秋清という人物が謀反を企てたところ、養子であった直正が彼を裏切って討ち滅ぼしてしまったと言います。
結果として黒井城を奪い取り、この城を中心に赤井氏は勢力を伸ばしていくこととなりました。

黒井城(隅櫓の石垣)/photo by ブレイズマン wikipediaより引用
なお、上記の事件が発生してから直正は、前述の【悪右衛門尉】を自称したと言われています。
もともと朝廷には、右衛門尉(うえもんのじょう)という官職(令外の官)があり、それに対抗して
「オレは悪い奴なんだぜ!」
と開き直ったとされます。
ゲームや漫画であまり注目されることのない人物ですが、とてもナイスなキャラだけに、今後、大河『麒麟がくる』をキッカケに羽ばたく可能性を秘めていると感じます。
話を直正の事績に戻しまして……。
甲陽軍鑑でも筆頭扱いされる名将っぷり
自身が奪い取った黒井城を本拠に、実質的な荻野氏の当主として振舞うようになった赤井直正。
彼は特に軍事・統率のセンスがズバ抜けていたようで、『甲陽軍鑑』という史料にも【名高キ大将】として、長宗我部元親・松永久秀・徳川家康らとともに名を連ねています。
『甲陽軍鑑』は、もともと武田信玄の甲斐国(山梨県)に伝わる史料です。
最近はその価値が見直されつつありますが、丹波から遠く離れた関東甲信越にもその名が轟いていたことを窺わせます。
しかも、徳川家康や長宗我部元親、松永久秀など名だたる武将が居並ぶ中で、直正は「筆頭」に位置づけられているのです。
悪右衛門尉という悪びれた通り名もダテではなかったんですね。
8才の甥・忠家を補佐して一族をまとめる
直正の実家である赤井家は、丹波で勢力を伸ばしつつありました。
が、弘治3年(1557年)、一族をまとめていた兄の赤井家清が戦で傷を負い、それがもとで亡くなってしまいます。
そこで跡を継いだのが家清の息子忠家。
彼はまだ8歳であったために、実質的な国政の指揮者が直正となりました。
ここから赤井氏は、直正を中心にさらなる勢力の拡大を成功させていくのです。
まず、永禄元年(1556年)、荒木氏および塩見氏といった一族を立て続けに滅ぼし、永禄8年(1564年)にはこれまで抗争を続けていた内藤氏を撃破。
丹波国における実力者としての地位を確立します。
その勢いは周辺諸国にも伝わっていき、やがて直正は姓をもじって
【丹波の赤鬼】
と称されるようにもなっていきました。
彼の「強さ」と「ワルさ」を象徴するような異名であり、まさに“言い得て妙”といった感じでしょうか。
ちなみに、赤井氏がこれだけ力をもてた理由として、直正の統率力が優れていただけでなく
【生野銀山の採掘権】
を掌握していたためとも指摘されています。

生野銀山の坑道内/photo by 663highland wikipediaより引用
戦国時代の銅山経営は、すなわち経済力。
財源を確保することは、そのまま国力に直結するほど重要な拠点でしたので、赤井氏の勢力にも合点がいきますね。
義昭を奉じて信長上洛
かくして丹波における実権を確立していった直正に、とある一報が入ります。
尾張の織田信長が足利義昭を奉じて上洛――。
1560年に【桶狭間の戦い】で時代の風雲児となった織田信長は、その後、【稲葉山城の戦い(1567年)】で美濃の国を制覇、1568年に明智光秀や細川藤孝(細川幽斎)などの尽力もあって、京都へやってきたのです。

織田信長/wikipediaより引用
領地の隣接する赤井氏としては、
・軍門に下るか
・敵対するか
という分かりやすい選択を迫られました。
そこで赤井氏および波多野氏(波多野秀治)は、信長に忠誠を誓います。
以降、彼らは信長家臣団の一員として位置づけられるようになり、永禄13年(1570年)には、当主・赤井忠家に対して領土の安堵状が発給されています。
※直正は、あくまで甥・忠家の補佐でした
キッカケは信玄 織田包囲網に参戦する
しかし、義昭と信長の対立が表面化してくると、元亀4年(1573年)頃から直正をはじめとした丹波衆の間に「反信長」の機運が高まっていきます。
「直正の裏切り」といえばそうなのですが、そもそも彼らは「人間・織田信長」に忠誠を誓ったとういより、あくまで「足利義昭の支持者である織田信長」に従ったに過ぎません。
彼らから見れば「将軍と対立した信長には従う理由がない」わけでもあり、義昭支持を表明した直正については、軍勢を率いて京都に出陣するという噂さえ流れました。
結局、実現はしておりませんが、信長と対立して立場を悪くしていた足利義昭から「幕府再興に協力を」と助力を求められます。
では、スッパリと織田と縁を切ったのか?
と問われれば、そこは戦国時代の駆け引きの難しさがあり、天正元年(1573年)頃には羽柴秀吉(豊臣秀吉)から寺社領をめぐる書状が送付されていて、非常に微妙な力関係が見てとれます。

絵・富永商太
将軍の権威か。
信長の勢いか。
悪右衛門尉であり、丹波の赤鬼でもある直正としても、簡単には決断できなかったのでしょう。
そんな折、判断を下すキッカケになったのが武田信玄でした。
「信長包囲網」を結成する武田氏との意思疎通を得ると、その翌年には反信長の態度を明確します。
当然、信長との対立は決定的なものとなりましたが、元亀3年(1572年)【三方ヶ原の戦い】で徳川家康相手に大勝した武田軍は、その後、不可解な撤退をしており、信長包囲網がにわかに崩れ始めるのです。
信玄は翌年(1573年)に亡くなっていました。
かくして兵力に余裕ができた織田軍。
【丹波平定】という任を受け、現地へ派遣されてきたのが明智光秀でした。
敵は光秀ではなく寿命だった!?
天正3年(1575年)に光秀の丹波平定軍が同国に到着。
討伐の矛先は、まず内藤氏と国衆の宇津氏という勢力に向けられました。
理由は「将軍をめぐる対立で我々に逆らい、いまだに反抗を続けているため」というもので、実際、彼らは信長が攻めるための大義になり得る反抗を見せていたようです。
ただ、内藤氏も宇津氏も、それほど強大な勢力ではありません。
電光石火の早さで両氏は降伏を余儀なくされ、これで丹波平定はおしまいかと思いきや、光秀は全く撤収の構えを見せないのです。
織田家の敵は、有力な戦国大名に成長していた赤井直正その人でした。
丹波の小勢力を倒すためならば、わざわざ織田軍のエース・光秀が送り込まれたりはしないでしょう。
内藤・宇津勢の打倒というのはあくまで口実であり、この段階で攻めこむための大義名分がなかった赤井直正に対して戦を仕掛けるためだったと考えられます。
光秀が、赤井勢の本拠である黒井城へ兵を進めた時、直正は【天空の城】としても著名な竹田城を攻めている最中でした。
光秀以外に一益や長秀も参加した 本気の織田軍
明智光秀が丹波へやってくる――。
その一報を受けた赤井軍は、大急ぎで黒井城へと引き返し、防衛戦を余儀なくされました。
ここまでの展開は、完全に光秀優位の形で進行します。
しかし翌年になると、これまで光秀に従っていた波多野秀治が突如織田家を裏切るのです。

波多野秀治/wikipediaより引用
予想だにしない敵の出現。
これに対処しきれなかった明智軍は敗れ、いったん丹波からの撤退を余儀なくされました。
実は、丹波平定戦がスムーズに進行していたのは、波多野氏の協力があってこそであり、信長はこの事態を考慮して短期決戦による丹波平定を断念したと伝わっています。
その証拠に、光秀は丹波攻略をいったん中断し、畿内の戦場を駆け回っています。
光秀が再び丹波攻略に乗り出したのは、天正5年(1577年)のことでした。
ここで明智軍は再度内藤氏を撃破。
滝川一益や丹羽長秀を加えた強力な攻略軍は、裏切りによって敵に寝返っていた波多野氏も追い込み、最終的に彼らの本拠であった八上城を攻め落とします。
実はこの八上城、古くから名城として知られ、三好長慶や松永久秀、三好政康(三好三人衆の一人)らが攻め込んだことでも知られます。
※黄色い拠点:右が八上城で左が黒井城
万全の体制をととのえた明智軍は、いよいよ最大の敵である赤井直正に戦いを仕掛けるべく黒井城に攻め込みました。
関ヶ原後も生き残った赤井氏
黒井城へ攻め込んだ織田家に待っていたのは、意外すぎる展開でした。
赤井直正の姿がありません。
実は、天正6年(1579年)に城内で病死していたのです。
棟梁を失った赤井氏は、もはや為す術もなく、光秀に敗北。
信長の意図した丹波平定がほぼ成し遂げられるのでした。
この丹波平定は光秀最大の功績と称えられることも多く、彼はそのまま平定した丹波を支配下に置くことになります。
黒井城陥落によって赤井氏も滅びるかに思われましたが、当主の忠家は「脱兎のごとく」逃亡したとされています。
光秀も追っ手を差し向けましたが逃亡の速度には敵わず、彼は遠江国二俣(現在の静岡県浜松市付近)まで逃げのび一命をとりとめました。
この逃走は彼の命を繋ぎ、本能寺以後は豊臣秀吉に仕えたと伝わっています。
秀吉のもとでは馬廻衆に組み込まれて、千石の地を獲得。
さらに、関ケ原では東軍に味方したため、家康によって恩賞としてさらに千石をあてがわれ、2千石の地を有したまま慶長10年(1605年)に亡くなりました。

絵・中川英明
その後は旗本として幕府に仕えることになった赤井氏。
落城を最後に滅亡する家が多い中、一心不乱の逃亡によってお家を繋いだ極めて珍しい一族といえるでしょう。
忠家に直正ほどの武勇はなかったようですが、一方で「生き残るためなら悪にでも手を染める」という直正の矜持は受け継がれていたのかもしれません。
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絵:中川英明(→link)
【本文中のあだ名】
鬼柴田(柴田勝家)
鬼美濃(馬場信春・原虎胤)
甲斐の虎(武田信玄)
表裏比興の者(真田昌幸)
【参考文献】
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学研パブリッシング)』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名大辞典(吉川弘文館)』(→amazon)
谷口克広『信長と消えた家臣たち(中央公論新社)』(→amazon)
和田裕弘『織田信長の家臣団―派閥と人間関係(中央公論新社)』(→amazon)
太田牛一/中川太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
日本人名大辞典







