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【種子島時堯】
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種子島氏の内紛
天文九年(1540年)頃、種子島時堯の父である種子島恵時(しげとき)が突如「乱行」に走ったため、家臣たちが恵時の同母弟・種子島時述に諫言してくれるよう依頼。
それを受けた時述が兄の恵時に伝えると、今度はそのことを不快に思った者が時述のことを讒言して、兄弟仲が悪化してしまいます。
種子島恵時(兄)
vs
種子島時述(弟)
そうした状況で迎えた天文十二年(1543年)3月、時述が大隅の国人・祢寝重長(ねじめ しげたけ)の兵を招き、クーデターを起こしました。
恵時は種子島に逃れ、閏3月に島津貴久へ援護を求めて200ほど兵を出してもらい反撃に出ると、5月15日に時述が誅殺されます。
さらに翌天文十三年(1544年)1月には祢寝氏から屋久島を奪回した上で、和睦交渉に臨みました。
結果、恵時の種子島帰還と祢寝氏への屋久島割譲という条件で和睦が結ばれています。
そしてこの騒動が起きていた最中に、鉄砲が伝来したといわれています。

種子島火縄銃/photo by wikipediaより引用
鉄砲は外交の武器にも使える
鉄砲伝来の年については天文十一年説と天文十二年説があります。
いずれの場合でも内紛中だったことは間違いなく、伝来までの流れとしてはだいたい以下の通りでした。
種子島の南岸・西之村にポルトガル人を乗せた中国船が漂着
↓
恵時・時堯が赤尾木へ船を回送させる
↓
種子島父子がポルトガル商人から鉄砲を二挺買い取る
↓
撃ち方を学び、刀工の八板金兵衛に製法を学ばせる
↓
鉄砲の国内製造に成功
↓
堺商人に売れるようになり、鉄砲が国内各地に広まる
鉄砲の伝来については種子島だけでなく、広く日本の各交易エリアへ流れてきた――そんな風に見るのが自然ともされますが、いずれにせよ天文十四~十六年くらいまでの間に種子島では量産化に成功していた様子。
刀鍛冶たちが優秀だったんですね。
そして時堯本人は、鉄砲を戦場だけでなく、外交の武器として使えることも意識していたのでしょう。
管領の細川晴元や十三代将軍・足利義輝などにも献上しており、種子島氏の地位向上に役立てていたようです。

剣豪将軍と呼ばれた足利義輝/wikipediaより引用
本能寺の檀家
鉄砲の件と関係があるのかどうか――そこは不明ながら種子島時堯は近衛前久(当時は晴嗣)の取次で弘治四年(1558年)2月に左近衛将監の官職を受けています。
これには本能寺との関係が強く影響した可能性もありそうです。

現在の本能寺
前述の通り、種子島氏は本能寺の檀家でした。
その本能寺が天文五年(1536年)に起きた【天文法華の乱】で焼失してしまい、種子島氏に再建費用の支援を求めたことがあったのです。
天文六年(1537年)8月に日承上人(伏見宮邦高親王の子)が遠路はるばる種子島までやってきて依頼したそうですので、種子島氏としても無下にはできなかったのでしょう。
その礼として、時堯の任官に便宜を図ったのでは?というわけです。
種子島氏は、なんというか「手中にあるものを最大限に活用する」のが上手な印象がありますね。
官位については、自ら積極的に働きかけていったような事績も残されています。それは永禄三年(1560年)のことでした。
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