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【種子島時堯】
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上洛の目的は?
永禄三年(1560年)、種子島時堯は上洛をしたとされます。
残念ながら道中や当時の京都に関する印象などは記録されていませんが、南国とはまるで異なる都の景色に胸を躍らせたことでしょう。
時系列が前後してしまいますが、まだ無位無官だった頃の島津貴久が種子島氏に朝廷工作を依頼したこともありました。
天文二十一年(1551年)に時堯の家臣が上洛し、これまた近衛前久を通じて島津貴久を従五位下・修理大夫に任じるよう取り計らったのです。
この後、種子島氏は島津氏の協力者として、南九州での戦にたびたび援軍を送りました。
弘治三年(1557年)3月【蒲生城の戦い】では、貴久らの援軍に行った種子島軍が、数多くの鉄砲を用いて窮地を救ったとか。
こうなると島津氏に入れ込んでいるように見えますが、貴久の任官に便宜を図ったのと同じ天文二十一年に、時堯は大友義鎮(のちの宗麟)にも鉄砲を贈っています。

大友宗麟こと大友義鎮/wikipediaより引用
島津氏以外にも鉄砲を融通することで経済的基盤を盤石にし、かつ武力をアピールして、独自性を保とうとしたのでしょう。
縁戚戦略
種子島時堯は戦国大名ですので、政略結婚や養子も積極的に活用しています。
時堯の正室は島津忠良の三女(=貴久の同母妹)でした。

島津忠良/wikipediaより引用
しかし、二人の間には娘しか生まれず、側室(祢寝尊重の娘)との間に生まれた男子は永禄五年(1561年)に夭折。
そこで永禄十一年(1568年)、大友氏へ
「次男(のちの親家)さんを養子にいただけませんか」
と申し入れています。
しかしこれは同年の秋に、もう一人の側室が嫡子を産んだため、取りやめとなりました。
大友宗麟は実弟の晴英(大内義長)を大内氏へ養子に行かせ、結果として早死させてしまったことがありましたので、沙汰止みになって安心したかもしれませんね。
島津氏ではなく大友氏へ頼んだのは、島津氏に頼り切らないようにするためだったのでしょう。
男子を産めなかったことを気に病んでか、時堯の正室はその後薩摩へ戻り、島津家の家老・肝付兼盛に嫁いだとか。
これは時堯としてはバツが悪かったようで、正室が産んだ長女を島津家の筆頭家老・伊集院忠棟へ、次女を島津義久の後室へ嫁がせています。

島津義久像/wikipediaより引用
長女は早めに亡くなってしまいましたが、次女が産んだ亀寿は義久に溺愛され、種子島氏と島津氏の関係は強まりました。
時堯の死後 島津家臣の道へ
九州の覇権を巡り、悪化していく島津氏と大友氏の関係。
天文六年(1578年)、ついに両軍が激突する【耳川の戦い】が勃発しました。
戦いは島津軍の大勝利。
つまりは大友軍が大打撃を受け、その後は家自体が急速に弱体化し、それが秀吉の九州征伐へと繋がっていきます。
そしてその翌年の天正七年(1579年)10月2日、種子島時堯は亡くなりました。
跡を継いだ息子の種子島久時は父とは逆に島津氏の家臣になる道を選び、さらに孫の忠時は島津忠恒(家久)の娘を正室に迎え、種子島氏と島津氏は強く結びついていきます。
そのお陰で19世紀に御家断絶の危機に陥ったときには島津氏から養子を入れてもらい、家名は残されました。
なお、明治維新後には華族の一員となり、一族の分家からは種子島時休という科学者を輩出しています。
この時休、日本初のジェット機である「橘花」の開発者です。

橘花/wikipediaより引用
本人は「姓が兵器に関係があるような気がして、海軍の新しい兵器を完成して見たい」という動機から開発に携わっていたようで。
鉄砲を普及させた一族の誇りは受け継がれていたんですね。
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長月 七紀・記
【参考】
新名一仁『戦国武将列伝11 九州編』(→amazon)
国史大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
世界大百科事典
日本人名大辞典
戦国武将合戦事典
◆ジェットエンジン発祥地だった秦野 航空機時代の魁に(→link)