大河ドラマ『豊臣兄弟』の第20回放送では、松永久秀の蜂起により衝撃的な爆死が描かれました。
それ以前には浅井長政に裏切られ、さらに遡れば弟の織田信勝の謀反もあり、最後は本能寺の変で迎えるなど、思えば織田信長の生涯は“裏切り”や“謀反”の連続です。
では、いったい何回の裏切りにあったのか?
大きなものだけ数えてもおよそ10回あり、家督継承から尾張統一までの期間を含めると相当な数に上ります。

織田信長/wikimedia commons
今回は、尾張統一期間を一つとして数え、都合10度の裏切りを順番に見ていきましょう。
1回目 尾張統一期の親類・家臣たち
家督を継いだばかりの織田信長が、最初に苦しめられたのは外敵ではありません。
身内です。
父・織田信秀の死後、尾張をまとめようとして立ちはだかったのが親類や家臣たち。
特に弟の織田信勝は、林秀貞や柴田勝家のような重臣たちまで率いて敵対するなどして、身内をまとめるだけで一苦労でした。
「信長より自分のほうが当主にふさわしい」と動く者たちがいて、尾張統一までに14年もの月日がかかっています。
-

天下統一より過酷だった信長の尾張支配|14年に及ぶ苦難の道を年表で振り返る
続きを見る
信勝に至っては、一度目の謀反を許し、二度目を画策したため仕方なく謀殺しております。

『豊臣兄弟』では柴田勝家に背後から斬られた弟の織田信勝
2回目 浅井長政
織田信長にとって、とりわけ大きな衝撃だったのが浅井長政の離反でしょう。

浅井長政/wikimedia commons
長政は信長の妹・お市を妻にしていました。
しかし元亀元年(1570年)、信長が越前の朝倉義景を攻めると、長政は手のひらを返すようにして朝倉側につき、信長の背後に襲いかかろうとしました。
そのため大慌てで京都まで逃げた――これが有名な「金ヶ崎の退き口」ですね。
ただし浅井側にしてみれば、自国よりも上位関係だったと目される朝倉家に弓を引くことができず、仕方なく織田家と対立したとも取れます。
信長目線では裏切り。浅井目線では、同盟相手の選択。
戦国時代の同盟の危うさもわかる一件でしたね。
3回目 武田信玄
実は武田信玄も、信長にとっては大きな裏切り者でした。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikimedia commons
もともと織田家と武田家は、いきなり敵対していたわけではなく、信長の養女が武田勝頼に嫁ぐなどして婚姻関係も結んでいたのです。
しかし元亀三年(1572年)10月、信玄が徳川家康の領国へ侵攻。
三方ヶ原の戦いで徳川織田連合軍に勝利して、次は信長を追い落とそうかという勢いでした。
浅井長政の裏切りほどドラマチックには語られませんが、信長にしてみればあと一歩のところで武田信玄に攻め込まれる危機でした。
4回目 足利義昭
足利義昭も、信長にとっては裏切り者と言えるでしょう。

足利義昭/wikimedia commons
信長は永禄十一年(1568年)、義昭を奉じて上洛し、将軍に就けました。
ところが両者は政治方針などの摩擦から対立が激化。
義昭は軍事力には乏しくても“将軍”という威光を利用して、武田、浅井、朝倉、本願寺などに呼びかけ、第二次信長包囲網の形成に暗躍しました。
信長は、蜂起した義昭には和睦の道を用意し、当初は室町幕府を滅ぼす気などなかったことが伺えます。
しかし、それでも義昭は槇島城の戦いに及んで、敗北後に京都を追放されると、毛利を頼りながら信長への敵対行動を続けました。
5回目 上杉謙信
同盟を破棄されたのは武田信玄だけではありません。
越後の上杉謙信もそうでした。

上杉謙信/wikimedia commons
それまで信長と謙信は、反武田という利害で結びついていたのです。
しかし、信長が北陸方面へと支配域を拡大させ、さらに足利義昭から謙信への働きかけも加わると、関係は悪化。
天正四年(1576年)頃には断交し、敵対する道を選ぶと、織田軍は「手取川の戦い」で上杉謙信に敗北を喫しています。
こちらも独立大名による同盟破棄です。
上杉も含めた反信長一派の動きは「第三次信長包囲網」と呼ばれ、織田軍は多方面から圧力をかけ続けられました。
6回目 毛利輝元
毛利輝元率いる毛利勢も、最初から信長の敵だったわけではありません。

毛利輝元/wikipediaより引用
織田家と毛利家は、もともと友好的な関係でした。
しかし中国地方をめぐる勢力争いが進んだことで、関係が悪化。
特に豊臣秀吉が備前・播磨などの国衆に食指を伸ばしていったことは、毛利には脅威にほかなりません。
そんな織田軍に対抗すべく、毛利勢は石山本願寺への兵糧補給などを通じて、やがて信長と正面からぶつかるようになりました。
7回目 松永久秀
松永久秀は、一度だけ信長に背いた人物ではありません。

松永久秀像(高槻市立しろあと歴史館蔵)/wikimedia commons
元亀年間、足利義昭と信長の関係が悪化する中で、久秀も信長から離れる方向へ動きます。
このときの久秀は最終的に降伏しましたが、無条件で許されたわけではありません。
大和支配の象徴である多聞山城を明け渡すことを条件に、命を助けられました。
信長は「裏切ったら即処刑」という暴君ではなく、使える相手ならもう一度使う――久秀もそのタイプだったのでしょう。
しかし久秀は、天正五年(1577年)、再び謀反を起こすと、信貴山城に籠もり、息子の松永久通と共に滅びました。
有名な「平蜘蛛の茶釜と爆死」は後世の俗説ですが、久秀が二度、信長に背いたことは間違いありません。
8回目 別所長治
播磨の別所長治も、信長方から離反しました。

別所長治/wikipediaより引用
別所氏は当初、羽柴秀吉の中国攻めに協力する立場でした。
しかし天正六年(1578年)、突如毛利方へ転じ、三木城に籠城したのです。
離反の背景には、秀吉の態度への不満や、播磨国衆が軽く扱われることへの反発もあったとされます。
そこへ足利義昭などの働きかけも加わり、毛利へ寝返りました。
秀吉はその後「三木の干し殺し」と呼ばれる過酷な兵糧攻めを行い、二年にも及ぶ長期戦の末に別所長治を自害へ追い込みました。
9回目 荒木村重
織田軍にとって由々しき事態となったのが荒木村重の離反です。

荒木村重/wikimedia commons
村重は摂津を任されていた有力家臣でしたが天正六年(1578年)、突然信長に背き、有岡城に籠もります。
摂津は畿内と中国方面をつなぐ重要地域です。
村重が裏切ったことで、秀吉の中国攻略や、石山本願寺や毛利氏との戦いにも大きな影響がでました。
なぜ村重は背いたのか。はっきりとはわかりません。
信長は実力主義で、役に立てば大きく取り上げる一方、役に立たないとなれば、譜代の重臣でも容赦なく追放したりする。
村重も、立地からして中国地方の攻略を任されてもおかしくないポジションにいましたが、それを羽柴秀吉に追い越されたカタチで、心理的に追い込まれていた可能性があります。
10回目 明智光秀
そして最後はご存知、明智光秀ですね。

明智光秀/wikimedia commons
天正十年(1582年)6月2日、光秀は京都の本能寺を急襲。
信長は自害し、織田政権は大きく躓くことになりました。
それまで何度も裏切られてきた信長ですが、まさか重臣中の重臣である光秀に襲われるとは考えもしなかったのでしょう。
だからこそ、わずかな兵と共に京都に宿泊していたわけで。
逃げ場も、立て直す時間もない。本能寺の変だけは、どうにもならない最後にして最大の裏切りとなってしまいました。
結局、信長は何回裏切られたのか
親類に裏切られ、義弟に裏切られ、将軍に裏切られ、同盟大名に裏切られ、最後は重臣中の重臣に裏切られる――。
織田信長はまさに窮地の連続であり、本能寺の変までに少なくとも10回は大きな裏切りに遭ってきました。
整理しておきましょう。
1 尾張統一期の親類・家臣たち(謀反)
2 浅井 長政(同盟破棄・離反)
3 武田 信玄(同盟破棄)
4 足利 義昭(対立・挙兵)
5 上杉 謙信(同盟破棄)
6 毛利 輝元(同盟破棄・敵対)
7 松永 久秀(二度の離反)
8 別所 長治(離反)
9 荒木 村重(離反)
10 明智 光秀(謀反)
上記は主要なケースだけです。
小さな離反や、敵味方が揺れた国衆まで含めれば、数はもっと増えますが、信長は裏切られ続けても、そのたびに立て直してきました。
それでも天下人になれたのは、圧倒的なカリスマで家臣たちを魅了したからでしょうか。
やはり唯一無二の戦国武将と言える気がします。
参考文献
- 金子拓『織田信長 不器用すぎた天下人』(2017年4月 河出書房新社)
- 池上裕子『織田信長(人物叢書)』(2012年9月 吉川弘文館)
- 岡田正人『織田信長総合事典』(1999年9月 雄山閣出版)
- 太田牛一著・中川太古訳『現代語訳 信長公記』(2013年10月 新人物文庫)
- 和田裕弘『信長公記 戦国覇者の一級史料』(2018年8月 中央公論新社)
- 日本史史料研究会編『信長軍の合戦史 1560-1582』(2016年 吉川弘文館)

