武田・上杉家

第五次川中島の戦いは地味じゃない! 関東や越中をも巻き込む大戦構想だった

甲斐の虎こと武田信玄と、越後の龍である上杉謙信が、信濃で対決した【川中島の戦い】。

全部で5回あったとされ、その中でも両軍が真正面から激突し、山本勘助や武田信繁(信玄の弟)が戦死した【第四次川中島の戦い】は、戦国史に残る激しい戦いとしてファンの皆様にもお馴染みの存在でありましょう。

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しかし……。

その反動のせいか。

せっかくの【第五次川中島の戦い】はそっぽを向かれがち。

もはや後夜祭の後片付けみたいな雰囲気すら漂っておりますが、合戦の天才同士がぶつかり合っておいてそれはありません。

むしろ第五次の背景には、北条家も含めた数々の思惑が渦巻いており、現代人の脳髄を刺激すること間違いなし――。

最後の川中島は、関東から越中に至るまでの壮大なストーリーに紡がれておりました。

 

「謙信の留守を狙え」戦略がついにマルチタスク化!

はからずも激戦となってしまった前回の第四次川中島の戦いを終え、厭戦気分でちょっと休憩……と思いきや武田信玄は怒涛の攻勢に出ます。

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2ヶ月後には西上野(群馬県西部)に侵攻。

次の年には北条氏康の武蔵(埼玉県)・松山城攻めに援軍を出したかと思うと、上杉謙信の北信濃最大拠点「飯山城」を攻めるため、長沼城から出陣します。

しかしここは謙信が、関東から越後に戻ったとの知らせを受けてあっさり撤兵。

「謙信の留守を狙え」戦略はまだまだ健在です。

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第五次川中島の戦いの前哨戦。長沼城が武田方の最前線の城なのが分かりますね/©2015Google,ZENRIN

そして永禄7年(1564年)――。

上杉謙信が越後を留守にしたスキを狙って、今度は会津(福島県)黒川城主・蘆名盛氏に越後を北から攻めるように要請します。

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自らは川中島を越えて野尻湖方面に進入し、野尻城(のじりじょう)を落城させてから越後国境に迫りました。

しかし、これも電光石火の早業で越後に戻った上杉謙信によって、蘆名盛氏は撃退され、反転して野尻城も奪還されます。

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黒川城は現在の若松城(鶴ヶ城)です。こんな遠くから信玄は壮大な「釣り」を仕掛けました/©2015Google,ZENRIN

この時も武田方は既に兵を撤収していました。

そして、ほぼ同時期に信玄は、飛騨(岐阜県北部)の国人同士のいさかいに介入。飛騨から越中(富山県)を抜けて越後に侵入する動きを見せます。

しかしこの動きはさすがに謙信に見破られて計画は頓挫しました。

越後の北から南まで、さんざん信玄に振り回された上杉謙信は、ついにブチ切れて川中島への出陣を決心――。

というのが、第五次川中島の戦いまでの流れです。

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信玄の越中侵攻構想。飛騨方面は馬場信房(馬場信春)が担当しました/©2015Google,ZENRIN

 

もしかしてだけど~♪ 俺様がちょっかい出さなければ…♪

激戦の【第四次川中島の戦い】などなかったかのような慌ただしさですね。

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『本当は川中島で激戦なんてなかったんじゃなかろうか?』

そんな説もあるほど、武田信玄と上杉謙信の行動範囲が年々拡大しています。

そして武田信玄には「謙信の留守を狙え」という基本戦略がずっと生き続けております。

というか、より大掛かりになって福島県から岐阜県まで、使えるものはなんでも使う、しかも同時進行で――というマルチタスクに進化しているのでした。

いわば『信長の野望』がターン制から一枚マップのリアルタイム制になったくらいの進化です。

そして信玄は気付きます。

「もしかしてだけど~♪ もしかしてだけど~♪ 俺様がちょっかい出さなければ、謙信はずっと留守なんじゃないの~♪」

それでは第五次川中島の戦いの経緯を詳しく見ていきましょう。

 

上杉謙信 関東の抗争にのめり込む(引きずり込まれる)

永禄4年(1561年)初頭、関東管領に就任した上杉謙信。

その直後に川中島で激戦を交わした後は、ほとんどすべてを関東での戦に時間も戦費も費やします。

一説によると、謙信の関東管領就任は、謙信を関東地方に目を向けさせるため、上杉憲政(関東より逃亡した前関東管領)が巧みに仕組んだシナリオだと言われています。

もう関東管領職を背負う気力もカネもないというイメージの上杉憲政ですが、実は京都を追われた後の足利義昭並みに野望を抱いていたとみる説も存在するのです。謙信の武力をバックに、ふんぞり返っていただけかもしれませんけどね。

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そんな上杉謙信は三国峠を越えてここから毎年のように関東へ。

進路は

三国峠

沼田城

長井坂城

白井城

厩橋城

と、峠を越えた後は利根川の東側の城に沿って進軍。

謙信の目的は関東管領として関東で影響力を行使することです。

その関東での拠点を、今の群馬県前橋市にある「厩橋城(うまやばしじょう)」に置きます。

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坂東太郎の利根川岸に築城って自殺行為っしょ!

厩橋城は「箕輪城(みのわじょう)」の支城の一つとして、利根川の東側に寄り添うようにして築城された平城です。

坂東太郎の異名を持つ暴れ川「利根川」の岸に築城など自殺行為に近いのですが、おそらく水運の利権などを管理していたのでしょう。

この時代に利根川のような大河の岸に築城された城は、水運利権や「渡し」の管理が目的として設置されたものがほとんどです。

江戸時代には前橋藩の「前橋城」となり、気まぐれに氾濫する利根川に侵食され、破壊が凄まじかったと言われています。

それでも城の修繕は幕府に許されず、幕末に外国船が日本にやってくるようになり江戸城の備えが必要となって、ようやく城の修繕が認められるという苦労人な城でもありました。

しかし城マニアにとって悲惨なことに、利根川の相次ぐ氾濫と、幕末の修繕によって「厩橋城」時代の遺構はすっかり消滅。

現在も開発著しく、謙信時代の名残はさっぱりないという残念な状態になっています。

むろん、真の城マニアはそこでうろたえません。

悠久の年月を経ても変わらない利根川の流れを見るだけで、厩橋城を妄想できてこそ真の城マニアです……おっと、あっちの世界にイってしまいました。てか、川中島はどこへいったんだ!?

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