本多忠真

本多肥後守忠真顕彰碑(静岡県浜松市中区鹿谷町)/photo by 立花左近 wikipediaより引用

徳川家

亡き兄の遺児・忠勝を育てた本多忠真は史実でも酔いどれ武将だった?

戦国時代の最強武将は誰なのか?

そんな答えの出ないロマンを戦国ファンが語るとき、筆頭に挙げられるのが本多忠勝でしょう。

とにかく強い!武将として有名であり、過去の大河ドラマや漫画でも強靭さが目立ち、例えばコーエーテクモゲームスの『戦国無双』では『三国無双』の呂布と張るほど印象的な存在です。

今回注目の本多忠真(ただざね)は、その叔父。

大河ドラマ『どうする家康』では波岡一喜さんが演じていて、軍議でも合戦でも“ひょうたん酒”を持ち歩いていた武将と言えば覚えていらっしゃるでしょうか。

現代ならアル中認定されかねないキャラは、ドラマ上でも「酔いどれサムライ」というキャッチコピーをつけられていましたが、果たして実際はどんな人物だったのか?

1573年1月25日(元亀3年12月22日)は本多忠真の命日。

本稿では、史実の生涯を振り返ってみましょう。

 


兄・忠高の遺児を育てることに

本多忠真は、忠勝の父である本多忠高の弟です。

兄・本多忠高――息子・本多忠勝

弟・本多忠真

兄の忠高が大永6年(1526年)から享禄元年(1528年)あたりの生誕とされ、弟の忠真は享禄4年(1531年)から天文3年(1534年)あたりと推定。

一回りまでは離れていない兄弟ですね。

ドラマでは兄の忠高が登場しませんが、それもそのはず。

今川氏と織田氏の間で行われた【安城合戦】に参戦し、天文18年3月19日(1549年4月16日)に討死してしまいました。

まだ20代前半での死であり、前年の天文17年2月8日(1548年3月17日)に生まれたばかりの男子・鍋之助は父の顔すらわからない幼児。

この残された兄の遺児を叔父である忠真が父の代わりとして育てることになりました。

遺児とは他でもありません。

後に、父の忠高と同じく“平八郎”と名乗る本多忠勝です。

※以下は本多忠勝の事績まとめ記事となります

本多忠勝
本多忠勝5つの最強武将エピソード!家康を天下人にした生涯63年とは

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槍を教え、槍で甥を救う叔父

永禄3年(1560年)に忠勝が13歳になると、徳川家(当時は松平家)はお家を揺るがす一大事と直面します。

桶狭間の戦い】です。

主君の松平元康(徳川家康)が大高城への兵糧搬送を命じられると、忠勝も元服して初陣を飾ることになり、叔父の忠真もこれに付き添います。

後に猛将として角家から畏怖される忠勝といえど、13歳でのデビュー戦。

さすがにまだ幼さが残っており、戦場では織田方の山崎多十郎に迫られます。

そんな危険な場面で槍を投げ、甥の命を救ったのが忠真でした。

彼には甥を思い、守る器量がありました。

桶狭間で今川義元が討たれると、主君である松平元康は徳川家康と改め、織田信長と同盟を結びます(清洲同盟)。

織田との戦いで本多忠高を失った忠真や忠勝としては複雑な思いもあったかもしれませんが、この同盟をもって主君である徳川家康は勢力を拡大してゆきます。

斜陽の今川家の上に立ち、三河のみならず駿河も支配したのです。

三河平定(三河忿劇)
今川から独立した家康はどうやって三河を平定した?考察どうする家康

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家康の生涯というと、忠勝の活躍ばかりに注目が集まりますが、その側にいた忠真も数々の合戦で活躍したとされます。

しかし、それも長くは続きません。

元亀3年(1572年)12月、武田軍との間で【三方ヶ原の戦い】が起きたのです。

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