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肥後国人一揆で成政が切腹! それは秀吉の政治的策略だったのか?

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成政も国人も秀吉の罠にかかった!?

このころの秀吉は、既に唐入り(文禄・慶長の役1592年 – 1598年)を検討し始めていた頃です。

大陸に渡るとすれば九州は最前線。

しかし肥後は国人の勢力が強く、このまま落ち着かない状態で大陸や半島に渡り、背後で蜂起されたらたまったもんじゃありません。

一方、佐々成政は、幾度も秀吉と戦い、これまた面倒な存在です。

信長側近というエリートの出でもあり、天下人の秀吉に対して横柄なところもあったのでしょう。

そこで【検地をするな】という厳しい条件を成政に課し、やかましい国人たちがいる土地を治めさせたらどうなるか?

成政と国人をぶつけて両方潰れれば……。

そんな秀吉の思惑通り一揆が起きたわけです。

一揆の制圧後、秀吉は蜂起した国人たちも整理し、肥後の領地化をスムーズに進めるため、今度は子飼いの加藤清正小西行長を入れています。

彼等は文禄・慶長の役で最前線に飛び出ていった者たち。

おそろしいほどの秀吉政治力が発揮されたと見る方が自然でありましょう。

 

恵瓊が助命を願い出るも……

佐々成政は、その後、尼崎で切腹を命じられました。

一応、安国寺恵瓊が助命を願い出てくれたんですが、ここまできて秀吉が言うことを聞くはずもなく、成政は命を落としたのでした。

享年53(推定)。

さらさら越えのときといい、肥後国人一揆のことといい。

秀吉の卓越すぎる政治力に対し、成政はあまりに要領が悪いと感じるのは私だけでしょうか。

【さらさら越え】までして徳川家康へ会いに行ったときも、すでに大軍を引いて時間が経過しているのです。

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そこから軍を起こすことが現実的にどうなのか。

少し考えればわかるような気がしてなりません。

素直なことは長所ですし、武士として劣っていたわけでもないので、政治外交センスのなさだけが余計に惜しまれます。

そして立花宗茂のカッコよさだけが目立ったという……。

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長月 七紀・記

【参考】
『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon
『立花宗茂 「義」という生き方 (新人物文庫) 』(→amazon
『秀吉家臣団の内幕 天下人をめぐる群像劇 (SB新書)』(→amazon

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