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【堀尾吉晴】
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関ヶ原直前、死傷事件に巻き込まれて17ヶ所の負傷
三河の池鯉鮒(ちりゅう・愛知県知立市)というところで他の大名と宴会をしていたときのことです。
そのうちの二人が口ゲンカになり、一方がもう一方を刺し殺すという事件が起きてしまいました。
吉晴はどちらの味方もしていなかった吉晴も、事件に巻き込まれてなんと17ヶ所もの怪我を!
そんな満身創痍の状態でも、その場で加害者を成敗して事を収めたというのですから、「本当に隠居の身ですか!」とツッコミたくなりますね。
この件は、被害者が家康母方の叔父・水野忠重だったため
「加害者が西軍に抱き込まれて暗殺を企んだのでは?」
とも囁かれていますが、それだったら第三者がいるような場所で堂々とやりませんよね。

水野忠重/wikipediaより引用
負傷しながらも頑張った吉晴は、しばらくの間、療養に入りました。その間に関ヶ原の戦い本戦が勃発。
吉晴としては参加できなかったのがよほど悔しかったようで「密かに近江や北陸の情報を家康に書き送っていた」とも言われています。ヤル気満々ですね。
ちなみに息子の堀尾忠氏は、会津まで家康についていった後、そのまま本戦にも参加しています。
大きな武功こそなかったものの「豊臣三中老」の子息が東軍で働いたのですから、徳川にとってはやはり大きく、家康からは褒められて出雲松江に24万石という大幅な加増を受けています。
そのぶん吉晴の隠居料は召し上げられてしまっていますが、これだけあれば親子それぞれの家臣を養うにも十分です。
ゆえに特に不服を申し立てたりはしていません。
城の縄張り位置を巡って親子どっちも引かず
堀尾吉晴と息子の堀尾忠氏は、比較的仲の良い親子だったらしく、松江に移ってからは協力して内政にあたっています。
唯一、モメたのは城を建てる場所でした。
当初、堀尾親子はかつて尼子家の本拠だった月山富田城に入ったのですが、ここは「天空の城」と呼ばれるほど峻険なところだったため、もっと開発しやすいところに新しい城を建てることになります。

月山富田城
もちろん幕府にはきちんと届出済みです。
しかし、どこに建てるか?という点に関してだけは二人とも意見を譲らず、もめにもめたのです。
場所が決まってなくても許可取れるってところが、厳しいんだかテキトーなんだかわかりませんね。
吉晴は「せっかく建てるんだから、将来人が増えたときのことを考えて広い場所がいいだろ!」と言い、忠氏は「父上のお考えはもっともですが、そこは広すぎてお金がかかりすぎます!」と反対したのだそうで。
どちらも一理あるだけに、話し合いが困難を極めたことは想像に難くありません。
神社の神域に立ち寄った直後、忠氏が急死
困り果てた忠氏は、領内のあちこちを見回り、新城にふさわしい場所を探すことにしました。
おそらく父の推す場所よりはお金がかからず、それでいて広さも十分な場所を求めていたのでしょう。
そして視察の最中、神魂神社(かもすじんじゃ)に立ち寄ったのですが、これがよくありませんでした。
もちろん、お参りしたのが悪いわけではありません。
神主に「ここの奥にある“あやめ池”を見せていただきたい」とお願いしたのがマズかったのです。
現在は自然観察園になっているそうですが、当時は神域ということで立ち入り禁止。
そのため神主が断るも、忠氏がどうしても見たいと言って聞かなかったといいます。
平和な時代の殿様ならともかく、戦国時代の人がただの物見遊山にそこまで執着するとも考えにくいですし、もしかしたら
「城の場所について、神のご意見を伺いたい」
とでも思っていたのかもしれませんね。
とにかく忠氏はしつこくお願いを繰り返し、神主は根負けしてあやめ池への案内を務めました。
しかし神主は、畏れ多いと感じたのでしょう。
途中まで案内したものの、そこから先は忠氏を一人で行かせたそうです。

神魂神社本殿/wikipediaより引用
忠氏は無事あやめ池を見ることができたのですが……皆の待っている神社まで戻ってきたときには、顔が紫色になっていたとか。
見ちゃいけないものとか、聞いちゃいけない”何か”に接してしまったような。
いったい何があったのか。
そして恐ろしい結末を引き起こします。
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