加賀一向一揆

蓮如/wikipediaより引用

合戦・軍事

100年にわたり戦国大名を排除し続けた加賀一向一揆~柴田勝家と対峙した結果は?

2024/11/15

天正八年(1580年)11月17日は、柴田勝家が加賀一向一揆を平定した日です。

「百年間成功した一揆」として有名ですが、事の成り行きを把握している方って意外と少ないですよね?

実は「加賀国の位置」も記憶が曖昧だったりするかもしれませんので、よろしければ以下の地図をご参照ください。

加賀百万石でお馴染み、現在の石川県にあたります

今回は、一揆勢の蜂起から、柴田勝家が平定するまでをダイジェストにまとめてみました。

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一向宗に助けられた政親 使い捨てとばかりに追い出す

時を遡ること約90年前(1470年代)、富樫家という加賀の守護大名で内紛が起きました。

例の【応仁の乱】に影響されたカタチですね。

加賀にまで波及していたなんて、この乱の大きさがよくわかります。

加賀では、当主の富樫政親が、石山本願寺に助けを求めました。

そして当時のトップ・蓮如が、要望通りに政親の下へ信徒を派遣。

蓮如/wikipediaより引用

駆けつけた信徒たちは他の国衆らとも協力して、一度は国を追い出された政親を再び家督につけました。

蓮如としては、これで富樫家が一向宗(浄土真宗)に便宜を図ってくれると思ったのですね。

まぁ、当然のことでしょう。

しかし、一向宗徒の力を恐れた政親は、これを保護するどころか、信徒や国衆たちをまとめて追い出すという暴挙に出たのです。

身も蓋もない言い方をすると、使い捨てたわけですね。

 


応仁の乱のドタバタで将軍家も手出しできず……

政親の対応に不満を抱いた信徒たち。

国衆らと再び手を取り、政親の高尾城(たこじょう)へ攻め込みます。

本願寺蓮如が信徒たちへ「お前たち乱暴はよくないぞ」(超訳)という手紙を出していたのですが、ヒートアップした信徒たちは聞きません。

そして彼等は、政親を自害へと追い込むのです。

こんな調子だったら富樫家にとっては政親が戻ってこない方が良かったですね。

守護家が一揆勢にボコられる――この由々しき事態を受けて室町将軍・足利義尚も焦りますが、そもそも応仁の乱真っ最中なので将軍家もそれどころではありません。

足利義尚/wikipediaより引用

そのうち一向宗のお偉いさんも加賀にやってきて、実質的に加賀は大名家ではなく一向宗の信徒たちのものになったのです。

 

朝倉家の英雄・宗滴が登場! 一揆勢を圧するも

しかし、もともとは一般人ですから、統率の取れた武家とガチンコ勝負するのは、さすがに無理もあります。

永正三年(1506年)辺りから、南の朝倉家や、北の長尾家が圧迫し始めます。

朝倉家というと、織田信長に滅ぼされた朝倉義景が不甲斐なかった印象が強いですが、この頃は朝倉宗滴(そうてき)という名臣がいて、北陸の雄として知られていたのです。

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享禄四年(1531年)頃になると、一揆勢の中でも内紛が勃発。

続いて上杉謙信とも対立が始まり、雲行きが怪しくなっていきます。

上杉謙信/wikipediaより引用

さすがに統率が取れてないと厳しいものがありますよね。

精強で知る上杉軍とも、一時期は互角にやりあっていたのですが、謙信が出馬するようになるとさすがに不利になり、一揆勢はどんどんまとまりを欠いていきました。

 

勝家を筆頭に織田軍の主力メンバー出動

時代が少し進み、織田信長が朝倉家を滅ぼすと、加賀平定のため一向一揆と正面から戦うことを決めます。

天正四年(1576年)、まず織田家の鬼柴田こと柴田勝家が加賀方面の司令官に任じられました。

猛将として知られた柴田勝家/Wikipediaより引用

勝家の幕下として配されたのは、前田利家や佐々成政といった錚々たるメンバー。

信長の本気度も伝わってきますね。

前田利家/wikipediaより引用

ただし、一揆勢の向こう側では軍神・謙信が存命中ですので、勝家たちにとっては

「一向宗だけでなく同時に謙信も相手にするんだぞ」

という意味も持っていました。怖い(´・ω・`)

実際、天正5年(1577年)9月に、織田軍は上杉軍と激突。

【手取川の戦い】と呼ばれ、謙信相手にボコスコにやられてしまいます。

さすがに戦の神には簡単には勝てない――。

そんな絶望感もチラついていたでしょうが、その謙信が翌天正6年(1578年)4月に亡くなってしまい、織田信長の超悪運が発揮されるのでした。

織田信長/wikipediaより引用

 


平定後の勝家「北陸衆」として馬揃えに参加

恐怖・上杉軍のプレッシャーから解放された柴田勝家たち。

それから約2年後の天正八年(1580年)11月17日に一向一揆を平定します。

信長も嬉しかったことでしょう。

一向一揆平定の二年後に行われた京都御馬揃えでは、【北陸衆】というグループの先頭で勝家を参加させています。

ちなみに石川県には「道の駅一向一揆の里」という場所があるそうで。

物騒なネーミングですが、したたかな印象も受けますよね。

北陸の方たちの気質はいまいちわからないんですが、なんせ当時、自治の国を作ってしまうのもすごいことですよね。

もしかしたら勝家たちも統治に苦労したのかなぁ……なんて、しみじみ思ったりしてしまいます。

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【参考】
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon
加賀一向一揆/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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