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【アシㇼパ】
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それは大団円なのだろうか?
背が伸びたアシㇼパと、杉元が笑いながら北海道の森の中を歩いてゆく――。
金塊争奪戦の最中に手にした北海道の土地権利書を、土方歳三の戦友である榎本武揚に託したことで、国立公園として保全される土地は守り抜くことができた。
受け継がれたアイヌの伝統や工芸品も、現在まで残されている。これもアシㇼパや杉元、アイヌと和民族が手に手をとり合って協力した結果である。そう導く結末を迎えます。
これまでアイヌを大きく扱う作品となれば、差別や「滅びゆく存在」という、和人の偏見ありきの暗い描写も多いものでした。
そこから抜け出す意味では、あの明るい結末が挑戦的で斬新で意義があることは理解できます。
ただ、これには無理があります。
まず、榎本武揚は信頼できるのか?
土方歳三と箱館戦争で戦い、かつ明治政府に権限を持つ人といえば、消去法で榎本になるとは思います。しかし、彼が土方との関係をそこまで大切にし、アイヌの権利を守るために動くとは思えないのが厳しいところです。
榎本にとって、明治政府において懇意にしていたのは薩摩閥の黒田清隆です。榎本の器量を惜しみ、坊主頭になってまで助命嘆願をしたのが黒田でした。
この友愛を美談として片付けてよいものかどうか。黒田の対アイヌへの態度は、日本史に残る政治家の中でも最低に入ります。移住がスムーズでないからと、武力まで用いてアイヌを追い立てたのが黒田です。
その黒田の右腕であった榎本に、そんな大事な権利書を託してよいのでしょうか?
ここで榎本は信頼できる政治家として、伊藤博文と西園寺公望の名をあげます。この二人も、アイヌの未来を託せるかどうか、難しいところではあります。
そもそも明治政府は信頼できるのか?
江戸時代から、和人はアイヌとの契約を守らないものとされてきました。アイヌは字すら書けないと侮り、誤魔化す和人は多いものでした。
そのあとの明治政府も、アイヌとの約束を反故にしています。そういう政府が秘密裏に出てきた権利書を真面目に扱うとは思えないのです。
結末で権利書が起こした結果として、国立公園や国定公園の保護もあげられます。
アイヌ文化が和人とアイヌの協力で守られたともされます。
ただ、文化保全がアイヌをとりまく問題のすべてかと言われると、決してそうではありません。
ウィルクやキロランケがこの結末を知って、果たして納得できるのかどうか。
一応、アシㇼパがアイヌの権利を守ったように導かれてはいるものの、どうにも苦しいものに思えます。
現在、インターネット上では連日アイヌへの差別投稿がみられます。そんな問題を扱うとき、枕詞のようにこう語られることが多いものです。
ウポポイや『ゴールデンカムイ』のヒットにより、アイヌ文化は身近になったものの……
確かに『ゴールデンカムイ』によって、アイヌ文化が身近になったとは思います。
ただし、それがアイヌの権利向上や差別解消とつながるかというと、それはまた別の話です。
アイヌへの関心が高まると同時に、ヘイト言説も増しているのが現実社会です。
もしもアシㇼパや、ウイルクや、キロランケが現代にいて、スマートフォン越しにそんなヘイトを目にしたら、彼らはどう思い、行動するのでしょうか。
その姿や投稿を見て、杉元ら和人たち、そして私たちはどう思い、行動するのでしょうか。
漫画にそこまで期待してどうするのかと言われればそうです。ハッピーエンドを貫きたい作品としてはありなのだと思えます。
ただ、そこに2010年代から2020年代にかけて発表された作品としての限界点はどうしても感じてしまうのです。
アシㇼパは過去の作品と比較すれば、格段に進歩しています。
1990年代に一世を風靡した『サムライスピリッツ』シリーズのナコルルと比較すれば、考証が格段に進歩しています。
先住民キャラクターでいえば、ディズニー映画にもなった『ポカホンタス』ほどご都合主義ではありません。2020年代ともなれば、『ポカホンタス』の再現だけは、最低限回避すべき先住民描写の代表格といえます。
そうしたハードルはクリアしたキャラクターがアシㇼパであるといえます。マジョリティによって都合がよいだけの「マジカル・アイヌ」はもう古いのです。
『ゴールデンカムイ』そのものも、アシㇼパも、素晴らしい描き方だとは思います。
ただ、世界と原住民を取り巻く価値観が変わりゆく速度が、速まってきているとも思えるのです。
そのあたりの懸念を考えてみましょう。
『ゴールデンカムイ』は参考文献も多く、極めて真摯に取材を重ねており、考証は確かなものがあります。
ただ、関連作品のスタッフや商品化において、配慮が不足しているのではないかと思ることもしばしばあります。
アイヌ関連ではありませんが、第七師団をモチーフとしたアパレルグッズが販売中止となったことがあります。配慮不足でしょう。
ファンダムでは、アシㇼパの和名について議論が発生したこともありました。和名はあくまで和人の都合で強要されたものであり、それはアイデンティティの侵害であることは考えたいものです。
作品から何も学べていないのか。私がそう悲しくなってしまうのは、『ゴールデンカムイ』ファンがアイヌルーツの方を執拗に攻撃する様を見る時です。
作品への愛が暴走するにせよ、そのことは作品の意義を全く理解していないと示すことでもあります。白石が犬とひっかけてアシㇼパをからかった際、杉元がどうしたか思い出してください。
そして実写化において議論となったのが、アシㇼパはじめ、アイヌ役はアイヌルーツが演じるかどうかということでした。
これは役者の機会均等といった要素もあります。海外と日本の状況の違いもあります。
ただ、時代が変化しつつあることをふまえますと、ルーツは一致させたほうが作品としての寿命は長くなったのではないかと思えなくもありません。
アシㇼパは少女です。オーディションでルーツの一致する子役を選ぶこともできたのではないかと私は思います。
たとえばディズニー映画実写版『モアナと伝説の海』は、ルーツの一致する役者が選ばれています。
海外ほど日本ではこうしたルーツ一致を重視してこなかったものの、2024年朝の連続テレビ小説『虎に翼』で画期的な試みがありました。
朝鮮からの留学生には、韓国から日本にきた役者のハ・ヨンスさん。そして朝鮮人(当時の呼び方による)の兄弟役には、朝鮮学校卒業生である許秀哲さんと成田瑛基さんが起用されました。
2018年朝の連続テレビ小説『まんぷく』では、ヒロイン夫が台湾出身の華僑である設定が「普通の日本人が馴染めるように」という配慮のもとで改変されました。それから十年経たぬうちにここまで進歩したのです。
あのドラマについて、私は放送当時から差別的で話にならないと感じていました。
しかしその思いを吐露すると、かえってお堅い変人扱いされることもしばしばあり、うんざりさせられたものです。
それが2024年ともなれば、前述したように『虎に翼』は積極的に、日本にいた朝鮮人(当時の呼び方による)差別を描いているのですから、時代は変わるものなのです。
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ルーツに配慮したた作品が増え、それに見る側も慣れてゆくと、ルーツが一致しないキャスティングは古く見えてしまうことになりかねません。
私自身、そうした経験はあります。
2016年公開の映画『ドクター・ストレンジ』を楽しく見ました。
しかし、今になってみると、原作でアジア人であったエンシェント・ワンを、なぜ白人のティルダ・スウィントンが演じたのだろうかと思ってしまい、見返す気には到底なれません。
理屈でなく、感情でもう、あえて見る必要もないリストに入れてしまう。これが価値観の進化なのかと我ながら驚いています。
ポリコレだのなんだの、反発する意見が多いことはわかります。
ただ、一人のファンとして、作品そのものの寿命を長くするためにも、現状にとどまらず、一歩先をゆく先進性を発揮していただきたいと思ってしまいます。
「新しい時代を生きる彼女」はこれからも続くと信じて
それを踏まえまして、もう一度、権利書を手にしたアシㇼパの選択を考えてみましょう。
ウィルクやキロランケは、アイヌの権利を守るためにはテロリズムや武装蜂起も辞さない思考のもとで戦い抜いていました。
アシㇼパはそれを踏襲せず、権利書を用いて政府といわば「水面下の取引」をして、カムイの住む土地を守ったという設定にされています。正面切って交渉していません。
正史としてアシㇼパの交渉を描けないフィクションとしては、そこが限界なのだろうとは思います。
しかし、結局アシㇼパは、否定したようでウィルクとキロランケの路線を取ったように思えます。
アジア・太平洋戦争後、新たなる憲法のもと、アイヌ女性であるアシㇼパも被選挙権を得ました。
ならば、彼女には政治家として、アイヌの権利闘争に立ち上がるという道はあります。
政治家とまではゆかずとも、実在する活動家のように、水面下ではなく表立って立ち上がることもできたはずです。
杉元はアシㇼパをジャンヌ・ダルクのようにしたくはないと語っています。アシㇼパにとって大事な杉元への配慮ゆえに立ち上がらず、北海道のコタンで静かに暮らしたという考えもあるでしょう。
しかし、こう考えてくると、何かモヤモヤしませんか?
当然のことながら、そんなアシㇼパは見たくないという反発は想像できます。
あるいは、いくらなんでも杉元にそこまで気遣うのだとすれば、あのいきいきとしたアシㇼパは台無しではないかと思うかもしれません。
そのモヤモヤの正体を、一人一人考えることが大事だと私は思うのです。
かわいらしい少女は受け入れる。でも、権利だなんだとわめく大人の女には嫌悪感が滲む。そう思うのだとすれば、それは差別ありきかもしれません。
声高に権利を訴える相手が苦手だという意識があるとすれば、そこにも何か偏見があるのかもしれない。
そもそも和人が、あるべきアイヌ像を規定するのは余計なお世話ですよね。
何度でも繰り返します。
『ゴールデンカムイ』も、アシㇼパも、素晴らしい。
しかし、未来には発表当時の限界があったとみなされることでしょう。
ラストで杉元と並んで歩く姿で終わるというのは、当時の限界がある。今読むと古さを感じる。そう評されるかと思います。
あるいは実写ドラマではラストが変わっているか。野田先生自身が続編を描くことだって考えられるのです。
それは悪いことだと私は思いません。
アイヌを取り巻く環境、和人の価値観が変われば、そうしたことは起こり得ます。
私は、良い方向でそんな変化が起こる未来を、一人の読者として待ち望んでいます。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)