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金栗四三/wikipediaより引用

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金栗四三(かなくりしそう)いだてんモデル92年の生涯をスッキリ解説!2019大河

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いよいよストックホルム五輪へ

明治45年(1912年)早春、金栗嘉納治五郎から呼び出されました。

「長距離では金栗君、短距離は三島弥彦君で、五輪に出場してもらうことに決まった」

世界記録樹立を果たした金栗が出場するのは、ごく当然のことでした。
が、ここで金栗は、一度、申し出を断っています。
彼の真意は不明ですが、それでも嘉納は、まるで三顧の礼を尽くすよう説得に当たります。

「金栗君、日本スポーツ界のためにも“黎明の鐘”となってくれ!」

こう説得されて、金栗は感激し、心が動かされました。
やるだけやってみようか。自分だけじゃなく国やみんなのためにもなるかもしれない……。
そう、考えたところでアタマの痛い現実もそこにはありました。

お金です。

地球の裏側ともいえるストックホルムまでの長い遠征費。
渡航費および5ヶ月にも及ぶ滞在費を、国は援助しないというのです。

金栗は苦しい思いで、郷里に援助を求める手紙を出しました。

1912年ストックホルム五輪のポスター/Wikipediaより引用

手紙を受け取った金栗の兄は、一も二もなく弟の申し出を快諾しました。
さらには息子が長距離走に挑むことを反対していた母に加え、郷里の人々までもが彼を激励し、援助してくれたのです。

金栗は郷里の誇りとなっていました。
これからは日本の近代スポーツを担う人材となって欲しい――。
そう考えた人々は、彼のために遠征費用を捻出してくれたのです。

感激した金栗は、以前にも増して日々の練習に励むようになりました。
破れた足袋を縫い直しながら、毎日ひたすら走りました。

大変なのは、やはり準備です。
長距離の練習はもちろん、合間の時間に礼服を新調したり、洋食店に通って西洋料理のテーブルマナーを学んだり、さらには英語も習わねばなりません。
嘉納治五郎の盟友で、ストックホルム五輪の日本選手団監督となる大森兵蔵に、アメリカ出身で帰化した妻・安仁子がおりました。
英会話は、この安仁子に習いました。

かくして金栗は、日本中の期待を背負いながら、ストックホルムに向けて出発したのです。

 

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海路でウラジオストク、シベリア鉄道で欧州へ

大正時代、ストックホルムへと向かうのはご想像どおり大変なことでした。

5月16日、新橋駅を出立。
金栗は遠征日記をノートに記し始めます。
神戸で船に乗り換えると、今度は海路でウラジオストクへ。そこからシベリア鉄道で、スウェーデンを目指します。

鉄道内では、食費を浮かせるため、安仁子が中心となって自炊をしていたというのだから、大変なことです。
自炊が中止となったときは、食堂車で安いメニューを味わいました。

一日中狭い車内でゆられる鉄道での旅。窮屈で、かなり大変なものです。
読者の皆さんも、移動だけでも疲れ果ててしまうのは、海外旅行で10時間規模のフライトをご経験されていればご理解いただけるでしょう。

全17日間の旅程を終え、金栗たちはようやくストックホルムへ到着するのでした。

カマ川にかかるシベリア鉄道の鉄橋(1910年代撮影)/Wikipediaより引用

 

ストックホルム到着 いよいよ五輪開幕へ

スウェーデンの首都・ストックホルム。
日本人にはほとんど縁のない北欧の国に降り立った金栗たちの前には、湖水輝く水の都の美しい景色が広がっていました。

1890-1900年頃のストックホルムの王立公園/Wikipediaより引用

ただし、宿舎は貧弱な建物で、さらに監督・大森は肺結核が悪化しているような状況。
金栗は監督に助言をもらうどころか、看病を手伝うような有様でした。

それでも大会本番を控え、金栗たちは練習に励みます。
ここで問題となったのが、入場プラカードの国名表記でした。

金栗は頑固に言い張りました。
「“日本”でよいじゃありませんか」

嘉納と大森はイヤイヤ……と遮ります。それでは誰も読めない、というわけです。
「ここはやはり“JAPAN”でしょう」

しかし金栗は「“JAPAN”なんてイギリス人が勝手に付けた名前だからダメだ」と頑固に言い張ります。
「ここはどうかね、“NIPPON”では」

嘉納が折衷案を提案すると、金栗もやっと折れました。
ちなみにこの表記はこの大会のみで、以降は“JAPAN”になりました。

ストックホルム五輪日本選手団の入場/Wikipediaより引用

かくしていよいよ競技が始まります。
短距離走にエントリーしていた三島弥彦の結果は以下の通りでした。

・100m 1次予選敗退
・200m 1次予選敗退
・400m 準決勝棄権

彼なりの全力の結果です。
400メートルでは準決勝進出を果たしたものの、体力の限界を迎えていました。
完全燃焼した満足感とともに、三島は棄権しました。

 

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レース中に突如消えた!?

7月14日、ついにマラソン競技当日となりました。

眠れぬままこの日を迎えた金栗。天気は快晴で、雲一つない日でした。

オリンピックスタジアム正門/photo by Derbeth Wikipediaより引用

13時半、地鳴りのような歓声を背に、金栗は走り出しました。

スタートの合図すら聞こえず、無我夢中で他の選手について走り出します。
郷里の家族を思い出し、がむしゃらに走る金栗。暑い日でした。さんさんと真夏の日射しがそそぎます。

15キロほど走ったとき、意外な声がしました。

「がんばれっ!」
「金栗!」

スウェーデンに滞在中の日本人の応援でした。
金栗は俄然やる気をだします。

しかし、26キロほどを過ぎたところで、体に異変が起きます。
力が抜けて、目がくらみ、経験したことのないような苦痛に襲われました。

熱中症でした。

意識がもうろうとした金栗は、ペトレという農家の庭に迷い込みました。
そして、そこにあった椅子にへなへなと座り込んでしまったのです。

驚いたペトレ家の人々は、ラズベリーのレモネードや食べ物を与え、金栗を親切に介抱しました。
言葉が通じないので、英語ができる近所の人を呼んできました。

「私は東京の大学生です……」

金栗は朦朧としながらも、そう名乗りました。

ちなみに金栗のあと、他の選手もペトレ家に休みに来ました。
走れなくなった選手たちが倒れ、まるで野戦病院のような騒がしさでした。
ペトレ家はこのときの御礼として、メダルを受け取ることになります。

そんな事情を知らない観客や大会を知る人にとって、金栗は「消えた日本人の謎」と化しました。
亡くなって亡霊になったとか、お茶とお菓子をごちそうになっていたとか、二人の美女に導かれて消えてしまったとか。

様々な都市伝説が生まれたのです。

 

過酷な条件で行われたレースで競技翌日に死者も

金栗は、なぜ倒れてしまったのでしょうか。
天候だけではなく、長旅の疲れ、極度の緊張……様々な要因があったのでしょう。

金栗は幸運であったかもしれません。
レース参加者の多くが棄権したばかりか、ポルトガル代表のフランシスコ・ラザロ選手は、競技翌日に急死しているのです。

スポーツ医学が未発達な当時は、現代よりはるかに危険な状況で競技が開催されており、当日がそうだった可能性は低くないでしょう。

今の我々は、こうした反省を経て、より安全な環境でスポーツを楽しむことができるのですね。
※実際、昔は部活中に水を飲ませて貰えずに熱中症で命を落とす若い学生さんもおりました(詳しいことは以下に関連記事がございます)

マラソン競技中に失踪した金栗四三、ペトレ家に救助され都市伝説となる

話をレース当日へと戻しましょう。

倒れた金栗の全身は、噴き出した汗が結晶となって、転々と白い模様となっていました。
ペトレ家の知人から用意して貰った服を着て、まだフラフラしながら宿舎に戻ると、怒り、打ちひしがれた様子の日本選手団の面々がいました。

監督の大森は、「いつまで待っていても日の丸がゴールしなくてね……」とガッカリした様子。
金栗はうなだれ、四年後の再起を誓うしかありませんでした。

金栗は敗因を冷静に分析しました。

1. 猛暑トレーニングの不足 / 予選は寒冷な秋であった
2. 練習と経験不足
3. スタートダッシュの失敗 / 外国人選手の勢いに圧倒され、ペースが落ちた
4. 足袋 / 外国人選手がゴム底の靴だった
5. 予選で世界記録を出したための慢心
6. 食物や生活環境の変化
7. 白夜による睡眠不足

多くの敗因がありました。
分析を終えた金栗は、むしろスッキリとした気持ちでした。
また次がある。悔しさと恥ずかしさをバネに、また頑張ろう。そう思えたのです。

嘉納は叱り飛ばすどころか、金栗にまた頑張ろうと優しい激励をしてくれました。

監督の大森は、肺結核が悪化し動けなくなってしまいました。
そのまま絶対安静を言い渡され、帰国できなくなったのです。そしてその後、夫人の親戚をたずねて行った先のボストンで客死していまいました。

金栗は、ストックホルムを出立する直前、ペトレ家の人々から食事に招かれました。
食事会は楽しく、なごやかな雰囲気の中で進んでゆきました。
このとき金栗は日本製の美しい小箱に、日本の紙幣を入れて御礼として渡しております。彼の律儀さを感じます。

欧州を見て回り、帰国した金栗を待っていたのは、激励の言葉と追試験でした。
五輪参加のため授業を欠席していた金栗は、一週間勉強に集中し、無事、試験に合格したのでした。

 

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消えてしまったベルリンの夢

目指せ、四年後のベルリン五輪!
金栗は、ストックホルムの屈辱を胸に、さらなる猛練習に励みました。

新たに外国の舗装道路を走ることや、炎暑を想定したトレーニングメニューも取り入れました。
足袋の改良、ドイツ語の学習、ベッドでの睡眠や洋食に慣れる訓練も、平行して取り組むほどです。

そして大正3年(1914年)、東京高等師範学校卒業の年となりました。
五輪の挑戦を目指し、教職に就くことは考えられません。

異例のことながら、教師への奉職を断り、「研究科」に籍を置くことになりました。

そして徒歩部に毎朝乗り込むと、盆正月も、雨の日も、雪の日も、練習に励む金栗。
常に全身真っ黒に日焼けしていました。
後進ランナーの育成や、スポーツ啓発にも取り組みました。

しかし、ベルリン五輪は第一次世界大戦の影響により、開催中止となってしまうのです。

次はアントワープ大会ですが、また四年間走るだけというのも、流石にどうかと金栗は悩みました。
そして嘉納に相談することにしたのです。

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