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西郷どん(せごどん)特集 幕末・維新

武力倒幕は岩倉や薩摩藩ですら「下策」としていた!なのにナゼ西郷は強引に?

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とても幕末の薩摩藩士と思えないほど平和的な大河ドラマ『西郷どん』。

主人公は常に人道的で、平和主義な台詞をポンポンと発していきますが、そうなると、まず間違いなく【登場しない】と思われるのが以下の二人。

薩摩藩士の
・益満休之助(ますみつ きゅうのすけ)
・伊牟田尚平(いむだ しょうへい)
です。

益満は西郷隆盛の信任も篤く、山岡鉄舟の護衛も務めたほどの藩士です。

維新混乱期の中で活躍し、過去の映像化作品にも出てきてきました。
例えば1979年放映の『風の隼人』では、『西郷どん』ナレーターである西田敏行さんが演じています。

それでも登場しない、と言えるのはナゼか?

彼らは、西郷が史実で強引に押し進めた【武力倒幕】に深く関わっているからです。

悪徳将軍・徳川慶喜を止めるためには是が非でも強行されなければならない――ドラマではそう描かれている武力倒幕。
史実では「下策(よろしくない策)」とされていたのです。

ではなぜ、そんなことが行われたのか?
ドラマでは描かれない西郷どんのリアルに迫ってみましょう、

 

幕府は無能にあらず むしろ優秀なり

『西郷どん』には、こんな趣旨の台詞がありました。

「日本は今、異国という雨にさらされている。諸藩を弱らせて、自分のことばっかり慶喜は考えている」
長州征伐で長州を弱らせ、その他諸藩を弱らせて、自分のことばっかりを慶喜は考えている」
「腐敗した幕府!」

この台詞からすると、幕府はまるで無能。
異国に対して何もしてないかのように映りますが、そんなことはありません。

開国以来、各国との条約締結や外交などに追われ、しかも幕臣の中には、外国人からその有能さを驚かれたりする者もおりました。

【関連記事】岩瀬忠震

そんな中、引っ張りだことなった青年がおります。
オランダ系アメリカ人の、ヒュースケンです。

江戸時代、幕府の通詞(通訳のこと)はオランダ語を学んでいた一方、英語学習は始まったばかり。

「L」と「R」の発音は江戸時代から苦手【幕末の英語学習】は黒船前から熱かった

そんな状況でしたので、オランダ語と英語ができるヒュースケンは、母国アメリカ以外からも通訳依頼が殺到したのです。
ヒュースケンは日本がすっかり気に入り、愛するようになっておりました。

しかし、それも長続きはしません。
1861年1月14日(万延元年12月4日)。
彼は仕事帰りの途中で、暗殺団に斬殺されたのです。

ヒュースケン襲撃の想像図(あくまで想像です)/wikipediaより引用

もしも彼が生きていたら……そう思わずにはいられません。
オランダ語ができるヒュースケンがいれば、様々な交渉をもっとスムーズに進められたはずです。

【関連記事】ヒュースケン殺害事件

幕末はこうした攘夷事件が相次ぎ、幕府は多額の賠償金を支払うことになりました。
その結果、年貢まで上がり、庶民も苦しい生活を強いられる羽目になっているのです。

特に、関西を中心にして庶民の反幕感情が高まった背景には、そうした理由がありました。

ただし、こうした庶民の期待は、空振りに終わります。
それというのも、賠償金の支払いは明治政府成立後も引き継がれたのです。

【関連記事】幕末の訪日外国人たち

明治政府は、不平等条約の解消を何としても叶えたいと願っておりました。

【関連記事】不平等条約

しかし、この不平等条約。
幕府の弱腰だけが原因ではありません。
岩瀬忠震のような敏腕外交担当者が締結した当初は、そこまで不平等と言えるものではなかったのです。

 

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西郷はヒュースケン暗殺犯を知っている

ではなぜ、歴史の教科書で話題になるほど不平等な条約とされたのか?

答えはかなり単純。
「アンタの国にいたうちの国の人間が、襲撃されて殺されたんですけど!」
と言って怒鳴り込んで来る外国に対し、幕府が譲歩せざるを得なかったのです。

例えば薩摩藩が生麦事件を起こした際、イギリス側は
「幕府と薩摩、二カ所から賠償金を取れる!」
と考えました。

事件当時の生麦/Wikipediaより引用

【関連記事】生麦事件

ここで一つ冷静になって考えてみたいと思います。

なぜ外国は、攘夷事件があれば日本(幕府と諸藩)から賠償金を取れると考えたのか?

すでに答えは提示しておりますように、ヒュースケン殺害事件のような外国人を標的にしたテロ=攘夷が、その契機。
学校で習う「幕末のれきし」とはまるで違う話しですので、困惑されるかもしれません。

そして、そのヒュースケン殺害実行犯の中にいた人物こそが、冒頭で挙げた薩摩藩士の益満と伊牟田でした。

彼らは実行犯として捕縛されることもありません。
藩内ではむしろ、攘夷を実行した藩士として一目置かれるほどでした。

実際、ヒュースケン暗殺犯の二人は、薩摩で処罰を与えられることはありません。
要は、西郷も彼らの暗殺は知っていたということです。

それどころか、西郷は彼らのテロ実行の腕を見込んで、明治維新前夜の慶長3年(1867年)、とある重要任務に就かせているのです。

 

当時の認識でも武力倒幕は「下策」

二人の極秘ミッションから、少し時を戻しましょう。

幕末も大詰めとなった慶応年間。
薩長同盟も秘密裏に締結され、長州藩を嫌った孝明天皇も世を去り、一会桑政権から会津と桑名は後退しました。

薩長側の政治的巻き返しの舞台は整います。

【関連記事】薩長同盟 孝明天皇

「さあここから倒幕だ! 戊辰戦争だ!!」
歴史を知っている現代人からするとそう思ってしまいますね。

でも、実は異なります。

『西郷どん』では、徳川慶喜の危険な野望を阻止するため、武力倒幕をすべきだと西郷が決断しましたが、これはあまりに苦しいこじつけ。
当時は、政治的な駆け引きで政権交代はできたはず。
それが上策であるという見解が、倒幕勢力内ですら圧倒的でした。

天皇による統治(王政)を行いながら、薩長ら倒幕勢力が政権を握る――坂本龍馬が所属する土佐藩は、まさにこうした考えのもと「大政奉還」を推進していたのです。

なんせ土佐藩は後に、薩摩藩の武力倒幕方針を知ると反発しております。
両者の仲は険悪となり、明治以降は藩閥政治において激しく対立することにもなりました。

一方、倒幕勢力を支援していたイギリスは、薩摩に上等の武器を販売しています。

そんなイギリスですら、内戦で荒れ果てた国よりも、スムーズに政権交代をしたほうが自由貿易相手としては向いているはずだと分析。
のちにイギリスは、西郷が徳川慶喜を殺害するのではないか?と察知し、それを止めに入っているほどです。

ハリー・パークス/Wikipediaより引用

【関連記事】
アーネスト・サトウ
ハリー・パークス
徳川慶喜は優れたタイクーン

岩倉具視は慶応2年(1866年)の「時務策」で、倒幕策の分析をしています。

それは次のようなものでした。

上策:宮廷の権力を後退させる
中策:幕府から権力を削除する
下策:武力倒幕

【関連記事】岩倉具視

武力倒幕は、あくまで下策。
実は薩摩藩ですら、国元を中心に武力倒幕に反対していたほどだったのです。

 

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他ならぬ薩摩藩も反対していた

薩摩藩が武力倒幕に反対したのは、主に以下の3つの理由からです。

・財政難
・軍事費を出すくらいなら、天災からの復興を優先すべき
・薩摩から出兵先があまりに遠い(京都周辺の藩ではなくなぜ九州の薩摩が出なければいけないのか)

確かに薩摩藩は、慢性的財政難に悩まされておりました。
島津斉興調所広郷の改革によって持ち直したとはいえ、幕末の動乱の最中、しかもイギリスから大量に武器を買ったわけですから、相当厳しい。

しかも薩摩藩は台風の被害を受けやすく、火災も起きており、桜島の噴火もあります。
天災からの復興支援も、重要な課題でした。

【関連記事】
財政赤字だった薩摩藩
調所広郷
島津斉興

国元がカツカツなのに、なぜわざわざ遠征してまで戦争をせねばならんのか?
そう言いたくなるのも、無理はないでしょう。。

しかし、それでも武力で倒幕したい。
そう主張した勢力がありました。

西郷吉之助
大久保一蔵
小松帯刀

という当時の若手実力者たちです。

薩摩藩の武力倒幕方針は、彼らによって慶応3年(1867年)5月頃から進められました。
この意思決定に対し、藩主・島津忠義も、その父である島津久光も関与が認められません。
こうした方針決定の際、同席した気配がどうにもないのです。

史実をたどると、幕末藩主の中でも【抜きんでた能力】を持っていたと思われる島津久光ですが、フィクションでは不自然なほどバカ殿扱いされます。
『西郷どん』でもそうですね。

島津久光/wikipediaより引用

【関連記事】島津久光

この低評価、どうにも後世の言い訳のようにも見えてきます。

というのも西郷以下、薩摩藩士の中には、幕末明治にかけて久光の意見を無視したことがありました。
そのことに久光も激怒し、明治以降、不満をあらわにしております。

しかし、維新の英雄たちが主君を無視、怒らせたとそのまんま描くのは非常にまずい。
そこで、久光が極度のバカ殿だから、それもやむなしという方向に誘導したと思われるのです。

薩摩藩の武力倒幕派は、
・手を組んでいた土佐藩
・国元の反対意見
・藩主父子
という大切な存在を無視して、強引な形で決めたことになります。

大政奉還の直後に出された「討幕の密勅」。
それが今なお、
【偽勅(ニセモノのの天皇の命令)ではないか?】
と根強くささやかれるのは、こうした不自然な状況が重なったからだとも考えられるからです。

【関連記事】討幕の密勅

 

戦争を起こせ!「薩摩御用盗」が江戸で大暴れ

「倒幕の密勅」を得て錦旗を掲げた西軍は、「鳥羽伏見の戦い」で勝利をおさめ、江戸へ向かいます。
しかし、敵の徳川慶喜は恭順姿勢です。
こうなると江戸で戦ができません。

そこで、西郷は一計を案じました。
益満と伊牟田、そして相楽総三が、この密命を受け、江戸でテロを起こすことにしたのです。

【関連記事】相楽総三と赤報隊

彼らは、放火、強盗、暴行、殺人……そうした凶行を繰り返した挙げ句、
「薩摩御用盗だ!」
と名乗り、薩摩藩邸に逃げ込みました。
しかも、江戸城まで放火されます。

江戸っ子としては、
篤姫を取り戻すために薩摩が襲ってきた!」
と怒り、同時に恐怖を感じておりました。

【関連記事】幕末の江戸っ子は明治維新を歓迎せず

江戸の警備を担当していた庄内藩は、こうした行動を見逃すことはできません。
そして薩摩藩邸を焼き討ち!

伊牟田と相楽はこのとき逃れましたが、益満は幕府側に捕縛されてしまいました。
益満が山岡鉄舟との交渉について行ったのは、こうして捕まっていたからなのでした。

山岡鉄舟/wikipediaより引用

【関連記事】山岡鉄舟

この報告を聞いて、西郷は大喜びでした。
これで、仕返しという名目で幕府を武力で倒せる――要は、薩摩藩邸焼き討ちへの報復として、江戸攻撃ができると思ったのです。

「江戸城無血開城」をもってして、西郷を平和主義者とみなす解釈もあります。
ドラマの『西郷どん』は、誰に対しても優しい西郷隆盛像が見所だそうです。

そのため、もしかしたら庄内藩が【何もしていない薩摩藩の藩邸】を焼くかもしれません。

そしてこの時点で
【慶喜が悪い奴だから武力倒幕やむなし】
という西郷どんの誘導も、間違いだとハッキリします。

慶喜がおとなしく降ったのであれば、その時点で拳をおろしてよいのです。
会津藩と庄内藩を攻める理由は、消えなければおかしいのです。

 

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歴史の狭間に消えた男たち

さて、この西郷の密命をこなした益満と伊牟田。
彼らは、幕末史において姿を消してしまいます。

益満は、彰義隊との上野戦争で亡くなった数少ない西軍の一人になりました。

【関連記事】上野戦争と彰義隊

益満は負傷するものの、そこまで重たい怪我ではなく、かなり不可解な事案です。

彼の命を奪ったものは、傷から入り込んだ破傷風菌であったのです。
正確な死因は、戦傷死で、享年28。

関西方面に逃走していた伊牟田の死は、さらに不可解です。

明治元年(1868年)、京都や大津方面で頻発していた、辻斬り強盗がおりました。
これが伊牟田部下の仕業であるとされ、その責任を負わされ、京都薩摩藩邸で自刃させられてしまうのです。享年37。

こうしてみてゆくと、江戸でのテロルに関わった人物は、非業の死を遂げております。

相楽総三は、偽官軍の汚名を着せられて斬首。
益満休之助は、上野戦争で戦傷死。
伊牟田尚平は、自刃。

彼ら以外に随分と血が流れていることも、お気づきでしょうか。

相楽と行動を共にした赤報隊士。
江戸でのテロルの犠牲となった人々。
上野戦争犠牲者。
京都で発生した辻斬り強盗被害者。

とても無血どころではありませんでした。

 

武力倒幕の戊辰戦争、その悲劇は続く

江戸で上野戦争がありながら、まだまだ流血不足――そう考えた者がいたのでしょうか。
反対派の多かった武力倒幕は、さらに加熱して参ります。

今までの流れですと、『西郷どん』では会津藩や庄内藩が武装を固めて頑固だったからということにされそうですが、そんな話ではありません。

なぜ、西郷らは武力倒幕を目指したのか?
その理由は推測できます。

・西郷の性格は好戦的である
・倒幕反対派は、明治政府でさしたる活躍をしていない(戊辰戦争での武功あってこそ、出世につながるという武士的な価値観があった)
・佐幕派である会津藩と庄内藩を叩き潰せば、他の佐幕派が沈黙する(会津と庄内をスケープゴートにすることにした)

会津藩は、薩長が敵視していた「一会桑政権」(徳川慶喜・会津藩・桑名藩)の一部です。
京都守護職であった会津藩は、攘夷活動に勤しんだ者を処罰したため、恨みを買っておりました。

そして会津藩が自業自得だという見方は、明治以降続いておりました。

孝明天皇の信任ゆえの嫉妬という理由は、ひた隠しにされて来たのです。

【関連記事】禁門の変(蛤御門の変)

もう一つの庄内藩は、江戸の警護を担当しておりました。
薩摩藩邸を焼き討ちした相手でもあります。

この奥羽の二藩を潰してこそ!
日本全国に潜む佐幕派を黙らせることができると確信したわけです。

西軍の狙いは、会津藩と庄内藩に絞られました。
しかし、こうした情勢に納得できない東日本の諸藩は、「奥羽越列藩同盟」を結成することになります。

戦場は、東日本の中でどんどん拡大。
かくして、戊辰戦争が行われました。

会津戦争後に撮影された若松城/wikipediaより引用

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弟・吉二郎が戦死

人命の損傷、土地の荒廃。
戦地となった奥羽の損傷はいうまでもありません。
明治維新のもとで新時代が到来するものの、日本の発展は西高東低の傾向が残りました。

実は倒幕を指導した側にも、失ってしまったものがあります。

戊辰戦争で敵対した側には、強い藩もありました。
富裕な財力で最新鋭の武装をしていた庄内藩。佐幕側も、金さえあれば武器を調達できました。西の肥前佐賀藩と並び、東の最強装備でした。

彼らは、会津藩では山本八重くらいしか装備できなかった連発ライフルスペンサー銃を備えていたのです。

名将・酒井玄蕃了恒に率いられた庄内藩は実に強く、その旗を見た敵があわてふためいたほど。
庄内藩から攻め込まれた秋田藩主・佐竹義堯は死すら覚悟するほど、追い詰められました。

庄内藩を攻めた薩摩藩の大山格之助(西郷どんでは北村有起哉さん)は、武功をあげるどころか、かえって大苦戦。

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しかし同藩は、戊辰戦争の戦後処理が穏健であったため、西郷を慕ったほどです。
西郷の人徳だけではなく、戦果に配慮されたのかもしれません。

長岡藩も、手強い勢力でした。
家老・河井継之助が装備したガトリング砲は、猛威をふるい、攻め込んだ山県有朋が褌一丁で逃げ惑うほどでした。

河井継之助/wikipediaより引用

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この長岡方面軍には、西郷の実弟・西郷吉二郎がおりました。

兄弟が幕末の動乱で活動する中、じっと薩摩の家を守っていた吉二郎。
兄の西郷としては、戊辰戦争で武功を立てさせて出世させたかったのかもしれません。

が、それは叶いません。吉二郎は戦傷死してしまったのです。
享年36。

【関連記事】西郷吉二郎

妹・琴子の子である甥・市来嘉納次も、戊辰戦争で戦死しました。

武力倒幕を、強引に押し進めてきた西郷は、その結果に痛みが伴うことを痛感したでしょう。

明治維新のあと、西郷は精神がすぐれないようになりました。
明治政府への怒りをぶつけてくる久光と衝突したことも、ますます精神を悪化させました。

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戊辰の傷跡

そうはいっても、東日本の人々からすれば、西郷の傷など何ほどのものかと言いたいところかも知れません。
西郷は、明治時代、愛犬に鰻を与える姿を目撃されております。

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その一方、戊辰戦争戦地となった東日本の人々、佐幕藩臣、幕臣の間には、食べるものすらろくになく、餓死者も出ていたのです。
それが、幕末から明治にかけての格差でした。

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斗南藩の生き地獄~元会津藩士たちが追いやられた御家復興という名の流刑

さらに目を北に向けると、戊辰戦争のデメリットが見えて来ます。

戊辰戦争という内戦は、国防力低下を招いてしまいました。
当時、蝦夷地と呼ばれていた現在の北海道は、地理的に近い奥羽諸藩が防備。ところが戊辰戦争により防備が不可能となり、がら空きとなったのです。

明治以降、どうにか北海道は防備できました。
しかし、江戸時代までゆるやかな幕府の支配下であった樺太は、イギリスの強引な介入もあり、ロシア領とされてしまうのです。

会津藩と庄内藩は、戊辰戦争の支援を求めてプロイセンに蝦夷地売却を持ちかけております。

後世批判される行為ではあります。
しかし、そうした意見は、そもそもどこの誰が戦争を仕掛けたとか?という話が抜けているのです。

戊辰戦争さえなければ、売却話すらそもそもありませんでした。

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『西郷どん』での西郷は、平和主義者に思えます。
戦争を引き起こすのは幕府や会津が悪いと言いたげです。

それならばなぜ、西郷隆盛主役のドラマを作ったのでしょうか?
西郷が好戦的な性格であることは史実からすれば明白です。

『西郷どん』が低調である理由が、よく分析されております。
その理由はシンプルなものではないでしょうか。

このドラマは、ライオンが主役なのに、
「殺しはよくないんだ!」
と草や果物しか食べない話にしたようなもの。
お子様ならともかく、ライオンが狩りをする姿が見たい人は、納得できるわけがないじゃないですか。

平和主義者のドラマを作りたいのならば、別の人物にすべきでしょう。

かつて吉田松陰の妹が大河の主役に選ばれ、人選ミスだと指摘されました。
2018年は、それを上回る人選ミスだったとしか言いようがありません。

史実での西郷は、強引な手腕でもって、武功をあげるために戊辰戦争を起こした人物です。
ドラマはどうあれ、史実から垣間見える西郷像とはそのようなものなのです。

しかし、郷中教育を受けてきた薩摩隼人にとって、頼りがいがあり勇敢だと映ったことも、確かなのです。
勝海舟や庄内藩はじめ、敵対勢力側でも彼を高評価したこともまたその通りです。




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文:小檜山青

【参考文献】
もうひとつの明治維新―幕末史の再検討 (大阪経済大学日本経済史研究所研究叢書 (第16冊)) (大阪経済大学日本経済史研究所研究叢書)』家近良樹編
さつま人国誌 幕末・明治編 3』桐野作人
西郷隆盛:人を相手にせず、天を相手にせよ (ミネルヴァ日本評伝選)』家近良樹
明治維新とは何だったのか――世界史から考える』一坂太郎
幕末史 (新潮文庫)』半藤一利
国史大辞典

 



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