明治十二年(1879年)8月31日、坂本乙女が亡くなりました。
坂本龍馬のお姉ちゃんで、48歳。
「乙女」は当て字で、本名は「留」(とめ)だったそうです。

坂本乙女/wikipediaより引用
別名「仁王」離婚後の第2独身時代の名は「独」
「乙女なんて言われていたなら、きっと綺麗で優しい女性だったに違いない! カワイイ系か!?」
なんて思った皆様、ハズレです。
この坂本乙女様、人呼んで「坂本の仁王様」でした。
身長174~176cmはいいとして、体重なんと110kgオーバーという迫力満点の体格と伝わっています。
時代が離れてますが、徳川吉宗とガチンコバトルをやってほしいくらい。
力士を投げ飛ばした(という噂の)暴れん坊将軍vs坂本の仁王様、結構イイ勝負になるんじゃないかと。
この方のスゴさはこれだけではありません。
薙刀や剣・馬・弓などの武芸から、琴や舞踊・和歌といった芸術面までありとあらゆる才能を持った女性だったのです。
土佐藩の正月行事【乗初式(のりぞめしき)】にもこっそり男装して参加し、十尺(約3m)の薙刀をぶん回したこともあるとか……って、もう誰も逆らえそうにありません。
彼女は夫との不和や暴力が原因で離婚したそうですが、どっちの暴力だったのか?とか聞いちゃいけない気がします。
離婚後は、名前を変えました。
その名も「独」です。まさか毒女って意味じゃないよね?とツッコミたくなるような豪快さですなぁ。
おねしょの龍馬に根性をたたき込む
話がだいぶそれました。
乙女さんは弟の坂本龍馬にも厳しく当たりました。
坂本家は龍馬が12歳の頃に母親が亡くなり、その後は乙女さんが母親代わりになってあれこれ教えていたそうです。

坂本龍馬・上野彦馬が長崎に開業した上野撮影局で撮影/wikipediaより引用
武術や学問はもちろん、気持ちの面でも叩き直したといいます。
この頃の龍馬は、おねしょがなかなか治らないとか、塾でいじめられては泣いて帰ってくるという、気の弱い少年だったといわれていますから、将来が心配だったのでしょう。
「末っ子とはいえ、男の子がこれじゃいけない!」
そう考えた乙女さん、根気強く龍馬を鍛えていきます。
お姉さんの教育の甲斐あり、龍馬はおねしょを治すことができ、明るい少年へと変わりました。
また、二人で何回も土佐藩の造船所を訪ね、世界地図や外国の品々を見たことがあったそうです。
龍馬が後々海軍や貿易への道を作ろうと思ったのは、このときの経験からきているのかもしれませんね。
龍馬は1853年、17歳で江戸へ遊学して、その後、脱藩してしまうので、お姉さんと一緒に暮らしていたのは本当に少年時代だけでした。
「日本を洗濯するぜよ!」
離れてからの二人は、手紙のヤリトリをよくしていました。
有名な「日本を洗濯するぜよ!」(原文は「日本を今一度洗濯いたし申し候」)も、乙女さんへの手紙の中に書かれているものです。
その前に「右申所の姦吏を一事に軍いたし打ち殺」(意訳:前述のロクデナシどもを一度皆ブッkrsてから)なんて物騒なことも書いてあるんですが、それは公然の秘密というやつですね。
そんな龍馬とお姉さんとの手紙、国の重要文化財に指定されているものもあります。
京都国立博物館に収められていますね。

京都国立博物館のHPではこのようにして手紙を見ることができます(坂本龍馬で検索すればOK)
京都国立博物館の公式収蔵品ページに写真が載っているので、龍馬好きの方は一度見てみるのもいいかもしれません。
途中でやたらと墨が薄くなっていたり、文章がえらく斜めに傾いていたりして、龍馬が楽しんで書いていたような雰囲気のある手紙ですよ。
本当にお姉さんと仲が良かったんでしょうね。
ただし、後に龍馬の活躍が拡大して付き合いも広がっていくと、政治情勢もかなり複雑となり、姉との話も合わなくなったりしています。
例えば、武市半平太を拷問し、最終的に死に追いやった後藤象二郎。

後藤象二郎/wikipediaより引用
乙女は「姦物役人(かんぶつやくにん・腹黒いやつ)」として嫌っていましたが、龍馬は象二郎と協力し合ったりしたので、反論したりするわけです。
こればっかりは、政治の最先端にいる龍馬と、そうでない乙女とでは意見の相違があって仕方ないでしょう。
ビタミンC不足で壊血病に……
龍馬が暗殺されてしまった後、乙女さんは義理の妹である龍馬夫人・お龍の面倒も見ています。
お龍が坂本家にいたのは3ヶ月ほどでしたが、それは当主の権平(乙女さんと龍馬のお兄さん)夫妻とうまくいかなかったためだとか。
「乙女さんは良くしてくれた」と後々言っていたそうです。
お龍も寺田屋事件の際、入浴中だったにも関わらず外の刺客に気付き、着物一枚羽織って龍馬へ知らせるような気丈な人でしたから、義理とはいえお姉さんと気が合ったのかもしれません。

坂本龍馬の妻だった楢崎龍/wikipediaより引用
そんな偉大な乙女さん、最期は病気で亡くなりました。
壊血病というビタミンC不足が原因の病気で、
・古傷が開く
・他の感染症にかかりやすくなる
などの症状が出ます。
基本的に野菜を食べていればかからないものなのですが、コレラにかかると思って嫌がっていたのだとか。
コレラは江戸時代から度々流行を起こしていたため、さすがの乙女さんも怖かったようです。
龍馬の暗殺から12年後のこと、48歳でした。
あわせて読みたい関連記事
-

坂本龍馬は幕末当時から英雄扱いされていた?激動の生涯33年を一気に振り返る
続きを見る
-

不憫でならない龍馬の妻おりょう(楢崎龍)夫を殺された後には生活苦が待っていた
続きを見る
-

西郷に並ぶ人物と評された土佐藩士「後藤象二郎」板垣や龍馬の盟友60年の生涯
続きを見る
-

土佐勤王党を率いた武市半平太|東洋を暗殺し以蔵を使い捨てた悪者評価は妥当?
続きを見る
参考文献
- 磯田道史『龍馬史』(文春文庫, 文藝春秋, 2013年, ISBN: 978-4167858018)
出版社: 文藝春秋 |
Amazon: 商品ページ - 坂本龍馬『手紙 坂本乙女あて:坂本龍馬』(書誌情報不明)
Amazon: 商品ページ - 司馬遼太郎『歴史の中の日本』(中公文庫, 中央公論新社, 1994年, ISBN: 978-4122021037)
出版社: 中央公論新社 |
Amazon: 商品ページ - 「坂本乙女」『ウィキペディア日本語版』(最終閲覧日: 2025年8月28日)
記事ページ




