島津斉彬像

幕末・維新

島津斉彬50年の生涯まとめ! 西郷や大久保らを育てた開明派の生き様

文化六年(1809年)3月14日、薩摩藩11代藩主の島津斉彬(なりあきら)が誕生しました。

鎌倉時代からの島津氏として数えると第28代当主。

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最近では、大河ドラマ『西郷どん』で渡辺謙さんが演じたお殿様として知られますが、史実でも「幕末の四賢侯」の一人としてその名を轟かせ、将軍家に嫁がせた篤姫の義父としても存在感を放っております。

幕末の四賢侯

福井藩第14代藩主・松平慶永松平春嶽
土佐藩第15代藩主・山内豊信(山内容堂)
薩摩藩第11代藩主・島津斉彬
宇和島藩第8代藩主・伊達宗城

西郷隆盛を見出した、この傑物は一体どんな人物だったのか?

その生涯を追ってみましょう。

 

オランダ贔屓の曽祖父・重豪の影響を強く受け

島津斉彬が藩主を務めたのは、実はわずか7年ほど。

それには、斉彬の置かれた家庭環境と、それにまつわるお家騒動が大きく影響していました。

斉彬の人格や価値観は、長命だった曽祖父・島津重豪(しげひで)の影響を非常に大きく受けて形成されたといわれています。

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重豪は自らオランダ語を話せたといわれるほどのオランダLOVEな「蘭癖大名」で、幼い頃の斉彬も、曽祖父とシーボルトの会見に臨席したとか。

また、当時の大名家としては珍しく、重豪は斉彬と一緒に風呂に入ったこともあったそうです。

さらに、斉彬の母・弥姫(いよひめ・嫁いでからは周子「かねこ」に改名)は、これまた大名家の正室としては異例となる「実母の母乳」で子育てをした人です。

弥姫は、自ら中国の歴史書について子供たちに講義するほどの才女でした。

父・島津斉興(なりおき)と斉彬の関係についてはビミョーな所です。

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後述する「お由羅騒動」その他のイメージが強いため、さぞ昔から仲が悪かったのだろう……と思いきや、周子は斉興の婦人の中で一番多く子供を産んでいます。

となると、両親の仲が険悪ということは考えにくいので、少なくとも斉彬が幼かった頃は良い家庭だったのではないでしょうか。

 

蘭癖になれば藩の財政が逼迫!? そして「お由羅騒動」へ

大名家では家族間だけでなく、家臣との関係も非常に重要です。

曽祖父・重豪に倣って西洋への興味を強めていった斉彬に対し、重臣たちは良い印象を持ちませんでした。

というのも、重豪は蘭癖が過ぎて藩の財政に支障をきたしており、斉興が調所広郷という家臣を重用して、四苦八苦しながら財政立て直しを進めたからです。

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ここで正室の長男=まず間違いなく跡を継ぐ斉彬が蘭癖になると、せっかくマシになった経済が逆戻りしかねません。幕末へ向かっている時代ですから、西洋に対する嫌悪感なども手伝ったことでしょう。

斉興もその辺の事情を加味してか、なかなか斉彬に家督を譲りたがりませんでした。

斉彬が40歳を過ぎてもそんな感じだったので、側室たちが「あわよくば我が子を藩主に」と考えるのも無理のないことです。

こうして起きたのが「お由羅騒動」でした。

騒動を簡潔に記しますと……。

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まずお由羅の方とは、斉興の寵愛を受けていた側室で、後に生麦事件の当事者となる島津久光の実母です。お由羅の方は久光を藩主にしたがった――と言われます。

一方で斉彬派の家臣もおり、事を重く見て、お由羅の方の暗殺計画を立てました。

と、この計画が事前にバレ、関係者の約50名が切腹や流刑、謹慎に。1849年から50年にかけてのことです。

薩摩藩内では規模の大きな騒動でしたので、後に歴史に名を残す人も多く関わっています。有名どころだと、大久保利通や西郷隆盛の父親がいます。

 

洋学を重んじた「集成館事業」を押し進める

お由羅騒動から二年後、事後処理も終わってようやく斉彬が藩主になりました。

やはり洋学を重んじ、造船や冶金(やきん・鉱石から金属を作ること)のための反射炉を作ったりしています。

斉彬の主導で行われたこの辺の事業を「集成館事業」と呼んでいます。

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特にガラス製品は質が高く、「薩摩の紅ビードロ」として知られ、大名同士の贈り物にも重宝しました。

島津斉彬が遺した薩摩切子

これは一時技術が途絶えてしまったのですが、近年復興され「薩摩切子」と名を変えて再び注目を浴びています。

集成館事業は、ご想像のとおり相当な費用がかかりましたが、造船事業の一環で、このころ薩摩で作られた西洋式軍艦の「昇平丸」は、明治に入ってからも蝦夷地開拓で活躍するなど、当時としてはかなり高い技術力を持っていました。

また、斉彬の視野の広さは人材発掘においても活かされ、元は下層藩士だった西郷隆盛や大久保利通を登用しています。

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本人の才覚もさることながら、こういった維新の功労者たちに尊敬されていたことも、斉彬が名君とされる理由なのでしょうね。

斉彬は、こうした功績・才覚に驕ることなく、家督を継ぐ前から宇和島藩主の伊達宗城や、水戸藩主・徳川斉昭など、同じく名君と呼ばれていた人物とも交流を持っていました。

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しかしそれは、幕政に口を出すことにもつながっていきます。

 

阿部正弘が亡くなると、大老・井伊と対立

斉彬はまず、ときの老中・阿部正弘に対し、幕政改革の一環として公武合体と開国、それに伴う軍事的準備を訴えました。

正弘の許可を得て、琉球王国を介してフランスから兵器購入などを計画していたようです。

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そして阿部正弘が安政四年(1857年)に亡くなると、大老になった井伊直弼と次期将軍について対立しました。なぜなら……。
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