西郷隆盛

キヨッソーネ作による西郷隆盛の肖像画/wikipediaより引用

幕末・維新

西郷隆盛 史実の人物像に迫る! 誕生から西南戦争まで49年の生涯とは

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西郷隆盛
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征韓論争

江戸幕府から政権を奪った新政府は、朝鮮半島に目を向けるようになりました。

当時の李氏朝鮮は、対馬藩を経由して貿易を行う間柄。新政府ではこれを廃止し、新たに日本政府と交易するように求めたのです。

このとき日本が持参した文書に、朝鮮にとっては宗主国である清しか用いないはずの「皇」や「勅」という言葉が含まれており、朝鮮は反発しました。

しかし、この文字への反発は表向きのこと。

鎖国体制だった同国は、かつての日本のように開国に対する激しい抵抗感があったのです。

強硬な朝鮮の態度に対し、日本政府は徐々に不満を募らせます。

もはや武力行使もやむなしか?

そんな論調も高まる中、西郷が手を上げます。

「使節として朝鮮に渡り、平和的に交渉をしたい」

西郷にはネゴシエーターとしての才覚があります。長州征討の際にも敵の懐に飛び込み、解決に導きました。

敵の懐に飛び込んでどうにかするのは西郷が最も得意とするところ。

「俺さえ行けば何とかなる」

そういう考えがあったのかもしれません。

あるいは、不平士族の目をガス抜きのために外国へと向けたかったのか。

新政府への鬱憤を晴らしたかったのか。

体調不良で自暴自棄だったのか。

決定的な理由はわかりません。

しかし、大久保利通岩倉具視はそうは考えませんでした。

諸外国を実際の自らの目で見て、日本はまだまだ近代国家としては脆弱過ぎると考えた彼らは、外に打って出るより内政強化の道こそが正しいと考えたのです。

今後、もしも朝鮮と武力衝突などが起きれば、諸国から一斉に敵意を向けられるリスクも感じていたでしょう。

岩倉使節団の頃の木戸孝允(左)。ほかは左から山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通)

結局、そんな大久保らの意見が通り、朝鮮への使節派遣はとりやめとなります。

西郷はこの決定を不服とし、下野して郷里に戻りました。

このとき同じく下野した板垣退助らは政府批判を強め、明治7年(1874年)に民選議員の建白を行い、後の自由民権運動につながります。

江藤新平佐賀の乱を起こします。

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船出を始めたばかりの明治新政府は、早くも大波にぶつかったのです。

 

不平士族たち

大久保ら盟友が新政府で確固たる地位についている中、西郷は国元で久光との確執に苦しみ続けました。

そしてその苦しみはやがて、新政府に向けられるようになり、失望へと変わります。

権力を手にし、蓄財に励み、私腹を肥やす官僚たち。

何のために粉骨砕身し、戊辰で血を流したのか?

こんな腐敗した政府を作るためだろうか?

新政府のやり方に不満を抱いていたのは西郷だけではありません。

郷里に戻った西郷のもとには不満分子が集まり始めるのですが、これはなにも鹿児島だけの話ではありません。

武士としてのアイデンティティ危機を迎えた士族たちは各地に大勢いました。各地で不平士族の蜂起が起こっていたのです。

中でも明治9年(1876年)萩の乱は、西郷同様に下野した元長州藩士・前原一誠が起こしたものだけに、意義深いものでした。

不平士族の反乱
不平士族の反乱まとめ~佐賀の乱 神風連の乱 秋月の乱 萩の乱 西南戦争

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政府を離れた西郷は、地元で私学校を開設していました。

そこへ、次第に不満をつのらせた士族が集まり始めます。

西郷は彼らの過激な言動をたしなめる立場でしたが、こうした不満分子が集まっている時点で、火薬を積み上げているような危険があったのではないでしょうか。

比喩だけではなく、文字通り本物の武器弾薬も鹿児島にありました。

当時海軍で使用する弾薬を製造していたのです。

「不満分子がこうした武器弾薬を手にしたらどうなるか?」

政府は、武器弾薬の回収を行うとともに、その状況を探らせました。

任に当たったのは薩摩藩出身の大警視・川路利良

かつては西郷の側近として鳴らした腕利き(とその配下の者たち)です。

彼ら密偵の目には、日々不満を募らせ鬱憤を語り合う西郷は、捲土重来を期しているように思えました。

そして、この密偵が思わぬ事態を起こします。

西郷の私学校の者が、川路の部下・中原尚雄を捕縛。中原が、西郷暗殺計画を吐いてしまったのです。

西郷はこのことを聞くと驚き、焦りました。

「しもた(しまった)!」

かつて江戸市中でテロを起こし、導火線に火をつけ、戊辰戦争に挑んだ西郷です。

これから何が起こるか、何に火をつけてしまったか。理解したのでしょう。

そして彼は悟ります。

「おいの体はさしあげもそ(俺の体は差し上げよう)」

もう、こうなったら暴発は止まらない。

薩摩での士族挙兵を知った新政府は西郷を朝敵と認定し、討伐令を下しました。

 

西郷どんは死して星になった

明治10年(1877年)、2月15日。

総勢13,000を超える西郷反乱軍は、熊本に向けて進軍を開始(熊本城の戦い)。

西南戦争の始まりです。

熊本城の戦い(西南戦争の緒戦)で西郷が敗北! 会津の山川も駆けつけ

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不平士族も次から次へと合流。西郷挙兵の報は東京にも届き、新政府への不満を抱く庶民たちは西郷が勝つように祈るのでした。

判官贔屓という言葉がありますように、カリスマ西郷への憐憫の情というか期待は湧き上がるばかり。

しかし西郷軍は、新政府軍を過小評価していました。

明治政府の軍隊は、全国から集められた兵士。

つまりは徴兵制によってまかなわれており、そんなものたちなど薩摩武士たちの前では鎧袖一触(がいしゅういっしょく)であろう、とたかをくくっていたのです。

しかし、新政府軍とて、そう甘くはありません。

このころ普及し始めた電信で敵の動きを探り、戦況を把握。陸軍や警視庁に所属する旧会津藩士らは、今こそ戊辰の恨みを晴らすときと誓い、鹿児島に向かったのです。

徴兵制とはいえ、単なる寄せ集めではなかったのですね。

1877年3月20日、激戦の末、田原坂の防衛戦を突破した新政府軍は、熊本城へ。

激戦だった田原坂の戦いを今なお偲ばせる弾痕の家

支えきれなくなった西郷軍は撤退し、5月になると鹿児島に上陸した新政府軍を相手に、西郷軍は攻撃を仕掛けます。

鹿児島城下は戦火につつまれました。

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鹿児島に入れなくなった西郷軍は、一転、宮崎を目指すものの、ここでも新政府軍に阻まれます。

さらには和田越で迎え撃とうとするも、西郷軍は敗北。

僅か六百名ほどで城山を目指したのでした。

しかし、そこへ辿りついたときには、残り三百名あまり。

9月24日早朝、新政府軍の総攻撃を受た西郷らは、潜伏していた洞窟を出ます。そしてそこから出て五百メートルほど進んだところで、腹と股に銃弾を浴びるのでした。

西郷隆盛の潜んでいた洞窟

「晋どん、もうよかろ」

同行していた別府晋介にそう告げると、西郷は切腹しました。

享年51(満49才)。

西郷の死のころ、火星が地球に近づき、赤く輝いていました。

その血のような色と西郷の非業の死を重ね、人々はこう語り合いました。

「西郷どんは、死して星になったのだ」

 

熱いのか? 冷たいのか?

死後、西郷は伝説となりました。

勝海舟が彼を評したように「度量が大きく、人に好かれ、人徳に溢れた人物」として、人々に愛されてきたのです。

英雄でありながら賊臣として非業の最期を遂げたことも、判官贔屓としての効果をもたらしました。

しかし、西郷の生涯を振り返ってみると、こうしたイメージは願望含みのものであると思えてきます。

西郷は人の好き嫌いが激しく、また周囲には味方だけではなく敵も大勢いました。

そうした敵の筆頭は主君である島津久光です。

両者の間には、からりとして豪快なイメージのある薩摩隼人とは異なる、ドロドロとした憎しみがあります。

南洲翁終焉之地碑 (西郷隆盛終えんの地)

では伝説化される前の西郷とはどんな人であったか。

事ここに至っても、知れば知るほどわからなくなってしまうのです。

新政府樹立の英雄となってから、賊将として落ちるまで。事績だけではなく、ありとあらゆる行動、思考の振れ幅が大きいのです。

月照と共に死のうと思い詰め、西南戦争では仲間を見捨てなかった。

こうした行動は仲間思いであり、熱い心にあふれています。

その一方で、味方すら容赦なく斬り捨てる冷酷さがあります。

例えば西郷の赤報隊への仕打ちは冷酷そのものです。

西郷の命を受け年貢半減令をふれまわった赤報隊は、年貢半減が実行できないとなると「偽官軍」として処刑されました。

赤報隊だけではなく、西郷は自分と対立したものとの処断に躊躇はなかったのです。

「敬天愛人」という言葉を好んだ西郷は、その言葉通り、庄内藩に対しては寛大さを示しました。

しかし、そもそも庄内藩が薩摩藩と対立したのは、西郷の密命を帯びた浪士隊のテロによる挑発がきっかけです。

目的のためなら手段を選ばず、ソフトターゲットを狙うテロ行為はからは「敬天愛人」の言葉に戸惑いを覚えずに入られません。

熱いのか?
冷たいのか?
人に愛されるのか?
憎まれるのか?
人を愛したのか?
憎んだのか?

大西郷――。

それは巨大な迷宮なのです。

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文:小檜山青note

 

【西郷隆盛の年表】

1827年 1才 鹿児島で生誕
1839年 13才 ケンカ仲裁で怪我を負って刀を握れなくなり、勉学に励む
1839年 13才 蛮社の獄高野長英渡辺崋山などが捕らえられる
1840年 14才 アヘン戦争始まる(2年後に終わる)
1841年 15才 天保の改革水野忠邦
1844年 18才 郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ)に任命される
1850年 24才 農政に関する建白書を提出
1850年 24才 お由羅騒動勃発・赤山靱負の切腹で号泣する
1851年 25才 ジョン万次郎が帰国
1853年 27才 家督を継ぐ
1853年 27才 ペリー来航(翌1854年に日米和親条約)
1854年 28才 島津斉彬のお庭方となり江戸へ・政界工作に携わる
1854年 28才 藤田東湖と出会う
1855年 29才 橋本左内と出会う
1857年 31才 篤姫徳川家定が婚姻
1858年 32才 日米修好通商条約に調印(松平忠固が推し進めた)
1858年 32才 島津斉彬が急死
1858年 32才 安政の大獄で追われ、月照と共に入水・奄美大島で蟄居
1859年 33才 吉田松陰に死刑
1860年 34才 桜田門外の変
1862年 34才 和宮親子内親王徳川家茂へ降嫁
1862年 36才 奄美大島から帰還
1862年 36才 寺田屋事件で薩摩の攘夷派が島津久光に粛清される
1862年 36才 島津久光の怒りを描い、今度は徳之島&沖永良部島へ
1862年 36才 生麦事件
1862年 36才 高杉晋作らの英国公使館焼き討ち事件
1863年 37才 新撰組の前進・壬生浪士が結成される
1863年 37才 長州藩が下関戦争(英・仏・蘭・米)
1863年 37才 薩摩藩が薩英戦争
1863年 37才 八月十八日の政変で長州藩を京都から追放
1864年 38才 再び赦されて、京都における薩摩藩責任者となる
1864年 38才 池田屋事件(長土藩の攘夷派が新撰組に討たれる)
1864年 38才 禁門の変で薩摩&会津が長州を京都から追放
1864年 38才 佐久間象山が暗殺される
1864年 38才 第一次長州征伐で長州はソク白旗
1866年 40才 西郷隆盛と木戸孝允、薩長同盟を結ぶ
1866年 40才 アーネスト・サトウが『英国策論』を執筆
1867年 41才 明治天皇が即位
1867年 41才 徳川昭武パリ万博
1867年 41才 高杉晋作が結核で死亡1867年 41才 徳川慶喜大政奉還に応じる
1867年 41才 坂本龍馬中岡慎太郎が暗殺される(近江屋事件)
1867年 41才 庄内藩が、薩摩のテロ行為に報復として江戸藩邸を焼き討ち
1868年 42才 鳥羽伏見の戦いをもって戊辰戦争が始まる
1868年 42才 戊辰戦争の東征総督府参謀として指揮(江戸城無血開城
1868年 42才 会津戦争・北越戦争・上野戦争箱館戦争
1869年 43才 版籍奉還
1871年 45才 廃藩置県
1871年 45才 岩倉使節団が欧米へ・西郷らが留守を預かる
1873年 47才 征韓論を機に下野し、鹿児島へ
1874年 48才 鹿児島に私学校を設立
1874年 48才 佐賀の乱で江藤新平が死亡
1875年 49才 秩禄処分で士族の家禄等が剥奪される
1876年 50才 廃刀令により士族は帯刀の特権も奪われる
1876年 50才 神風連の乱・秋月の乱・萩の乱
1877年 51才 西南戦争

【参考文献】
『西郷隆盛と薩摩 (人をあるく)(吉川弘文館) 』(→amazon
『西郷隆盛と士族(吉川弘文館)』(→amazon
『西郷隆盛伝説の虚実(日本経済新聞出版社)』(→amazon
『西郷隆盛と幕末維新の政局(ミネルヴァ書房)』(→amazon

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