幕末動乱の最中、犠牲となった少年たち「白虎隊士」の像が、駅前や自刃の地である飯盛山に残されています。
はりつめた表情で遠くを見つめるその眼差し。あどけなさと共に悲壮感が漂いますが、そんな像たちの中に一体だけ、ホッとした安堵の笑みを浮かべている者がおります。
白虎隊記念館(→link)前にあるその像は、表情以外にもう一つ特徴があります。
彼の足下に、可愛らしい犬がじゃれついているのです。
なぜ彼は微笑んでいるのか。
そしてこの犬は何なのか。
そこには生き抜く為に奮闘した、とある少年の物語が秘められています。
本稿は、白虎隊の生き残り・酒井峰治(さかいみねじ)の『戊辰戦争実歴談(→link)』をベースに、彼ら白虎隊が追い詰められ集団自決へと進む状況を再現してみました。
昭和7年(1932年)2月25日は酒井の命日。
それではどうぞ。
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死の談:白虎隊士十九名の自刃
慶応4年(1868年)秋、陸奥国会津――。
幕末の動乱・戊辰戦争の戦火が、会津藩の城下町・若松にまで迫っており、彼らは西洋式練兵を導入し、武家の子弟を年齢別に編成しました。
・玄武隊(50-56才)
・青龍隊(36-49才)
・朱雀隊(18-35才)
・白虎隊(16-17才、年齢を繰り上げてそれ以下の者もあり)
・幼少組(14-15才、予備兵力)
主力は朱雀隊、青龍隊で、若い白虎隊は予備兵力扱いでした。
しかし、政府軍の会津侵攻は予想を上回るほどの早さで、彼らも戦力として戦場に投入されるのです。
8月22日、白虎隊士・中二番隊に出撃命令が下りました。
隊士たちは「これで殿にご奉公できる」と喜び、家族に別れを告げてその日の午後、「滝沢本陣」に到着。
そこへ、城の東を守る他部隊から、援軍を求める連絡が届きます。
今や動ける兵力は白虎隊のみでした。
隊士たちは、既に時代遅れとなってしいた重いヤーゲル銃を、まだ小さな体に背負い、戦場となる「戸ノ口原」へ向かいます。
燃えさかる城下町
その日は天気が荒れていました。
台風あるいは前線が接近していたのかもしれません。
暴風が吹き付け、そして土砂降りの雨。新暦では10月7日ですから、会津若松市では夜に気温が10度以下に下がることも珍しくはありません。
少年たちは陣地で握り飯をもらい、それをほおばりました。
これが生涯最後の食事となる者が多数いるとは露知らず……。
食事をとった隊士たちは、雨と霧の中、進軍する敵兵を見かけました。
冷えた手を動かし、懸命に銃を撃つ隊士たち。
しかし多勢に無勢、勝ち目はありません。乱戦の中で隊長・日向内記とはぐれてしまう有様で、指揮を執るのはまだ若い篠田儀三郎でした。
隊士たちは城を目指し退却をはかります。
その行く手を阻むのは、冷たい湿地、崖、坂道、谷間……。
重たくなるからと食料を携行しなかったことも今更ながらに悔やまれることでした。
負傷した隊士を励ましながら、二十数名の少年たちは「滝沢本陣」そばの飯盛山までやっとのことで辿り着きます。
山頂まで登るためには、途中で水のたまった洞窟を歩かねばなりません。
冷たい秋の水に、体力と体温が容赦なく奪われます。心身ともに疲れ果てた少年たちは、打ちのめされました。
燃えさかる城下町の姿が目に飛び込んできたのです。
「武士らしく潔く腹を切ろう」
銃声が途切れなく聞こえて来ました。
「どうしたらいいんだ。何とか城に戻らねば」
「どうやって戻ればいいんだ。ここまで来るのだってもう限界だったのに」
「いや、ここであきらめてはならない! 戦おう。味方だって近くにいるかもしれない。はぐれた隊長だってきっとどこかにいるはずだ!」
「味方ならいいが、敵だっているんだぞ。敵に捕まったらどんな目に遭うことか……」
戊辰戦争では、このころ来日していた外国人たちが嫌悪感を抱くほど、両軍ともに捕虜をむごたらしく殺害していました。
戊辰戦争のリアルは悲惨だ~生活の場が戦場となり食料を奪われ民は殺害され
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戦死ならばまだしも、生きて捕まればどうなるか……その生々しい恐怖はあったことでしょう。
少年たちは長い間激論を交わします。そして、そのうち誰かがこう言うのでした。
「このまま戻ろうとしても敵の手に落ちるだけだ。そうなる前に、武士らしく潔く腹を切ろう」
もはや議論は終わりました。
少年たちは燃えさかる城下町を眺めながら、一人、また一人と自らの若い命を絶っていったのです。
最後まで残った西川勝太郎は、通りがかった農夫に遺体の埋葬を頼みました。
しかし農夫は、あろうことか遺体から金品を盗みだします。
その農夫の腕を、一人の少年がつかみました。
自らの喉を突き、傷が浅く、まだ息のあった飯沼貞吉です。
飯沼は何か言おうとしたものの、喉の穴からは空気が漏れるばかりで……。
「ヒィッ! しっかりしてくだせえ」
農夫は驚き、飯沼を近くの岩山まで運ぶと、そのまま彼の刀を盗んで逃げ出すのでした。
程なくして別の農民が彼を見つけ、会津藩士の妻・印出ハツにそのことを告げます。
「うちの子かもしれない!」
もちろんハツの子ではありませんが、飯沼はハツにとって我が子と同年代。見捨てることはできません。
ハツは懸命の看病をし、飯沼を医者に診せ、匿います。
こうして飯沼は生還を果たすのでした。
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